二十四
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とにかく離れよう、それだけを考えていたせいか、結局最初に落とされた部屋にまで戻ったまではいいものの、その先をどうしたらいいのかにまで、頭が回らなかった。
息が荒い。それはここまで全力疾走したからという事だけではない。あの鬼、前鬼妙童之義覚の事は月が短い通話の中で話してくれた。月曰く「超強い」(具体的な説明を求めて、咄嗟に出た言葉のようだが)らしい。補足説明として、神楽が「古代の陰陽師の式神だった」とも言っていた。
実際に対峙してみて、一真は確信した。あれは今まで相手にしていた物の怪の中でも、かなりヤバい部類だ。実際に相手にしなくて良かったという安堵を離れてから感じ、そしてそんな自分を一真は嫌悪する。
――先生や先輩が今、相手してんのに
今、どんな戦いが行われているのか、一真はあまり想像もしたくなかった……のだが、何故か、どんな戦いが行われているのか、一真には想像がついた。頭の中にその映像が逃げる間、ずっと流れ続けてくるのだ。まるで、テレビでちらっと聞いた音楽を口遊むように、曖昧で頼りない“記憶”として。
鬼一の気魄と覚悟、常盤の恐れと決意、そして義覚の悦びと怒りが。誰が何を言っているのかまで、分かってしまいそうな程にそれは段々と鮮明さを増していく。
「ちょっと、……おぃ一真よ」
舞香が怪訝そうに、一真の肩を突く。一真は、頭に浮かんでいる戦いをどうにか意識の外に押し出し、舞香に向き直った。
「な、なんだよ。俺だって出口を知っているわけじゃないんだ」
「そうじゃなくてよ、そろそろ放してくんないかな」
これ見よがしに舞香は自分の右手を指さす。一真の左手ががっしりと彼女の手をつかんでいた。
「おわっ!? わ、悪ぃ」
言われて初めて熱湯に手を突っ込んでいた事に気付いたかのように、手を放す。指摘した舞香自身も罰の悪そうな顔をしていたが、すぐにそれも消える。
湧き上がる感情に彼女は俯き、必死に自分を抑えようと歯を食いしばっていた。そんな舞香を一真は慰めてやる事が出来なかった。ちらりと、舞香の横に立つ夏樹を見やる。
ついさっきまで敵対していた筈の少女だが、今は敵意は見られない。だが、それで安心というわけではない。彼女の肌には未だ邪気が刺青のようにのたくり、その顔色は真っ青を通り越して、死人のようだ。こちらの身以上に、彼女の身の方が大丈夫なのか、一真には判断がつかない。
「なんで、出て行ったりしたんだ……て、聞かないのか?」
舞香の口からそんな言葉が漏れた。掠れた小さな声だが、遠くから聞こえる声と戦闘音の他には物音一つない。
「それは俺が聞くべき台詞じゃない。お前の姉ちゃんが聞くべきことだ」
舞香が強く唇を噛む。これでは余りに素っ気なすぎる。一真にしても、舞香の事は心配だった。けれど自分がそれでは、碧は決して落ち着かないだろう。そう意識していたわけではない。ただ、無意識の内に自分自身の心配をどこか別の所へと追いやっていたのだろう。
「お前の姉ちゃん程じゃないけどな」
徐々に安堵が、身体の節々に圧し掛かってくるのを感じ、知らず知らずの内に言葉が突いて出てくる。
「俺だって心配したぞ。お前の事」
舞香はようやく少し顔を上げた。伏し目がちに、だが決して目を逸らさないようにして。
「ごめん…………なさい」
「――尤も、月は俺以上に心配してるだろうけどな」
月の顔を思い浮かべ、苦笑が漏れた。彼女は上手く感情を隠せたつもりだろうが、駄々漏れだった。だが、舞香にしてみれば笑いごとではない。
「悪い……」
一真は表情を改め、舞香に向き直る。そして、遅まきながら気が付く。巫女装束はあちらこちらが破れ、上の白衣には染みが広がっていた。泥なのか血なのか、血だとしたらそれは自身の血なのか、返り血なのか。たった一人で、舞香は友達を助けようと渦中に自ら飛び込んで行ったのだ。
それを蛮勇の一言で叱責する事は一真には出来そうになかった。ただ――
「お前、なんで自分の事をちゃんと姉ちゃんに話さなかったんだ?」
問われた舞香はポカンと口を開き、それから言葉の意味が分かると、瞳を逸らした。肩が震えていた。
「全部話したよ……でも、姉ちゃんは上から命令するだけだ!!」
言葉は途中から涙声になり、最後は泣き出していた。その怒りは尤もらしくもあるが、身勝手でもある。それは舞香自身も分かっているだろう。だが、分かっているとしても、彼女には、もうひと押しが必要だった。
「本当に全部か? 日記の事は? 夏樹の事は? 何で悩んでいるのか……」
「それは……て、おい」
急に、舞香の声音が低くなった。じろっと一真を下から覗き込むように睨めつける。
「なんで、一真が私達の交換日記の事知ってんだぁ?!」
まるで恥ずかしい事を見られたかのように――実際、こういう日記の類にはそういう要素があるのだろう――目を怒らせ、隣の夏樹が思わずギョッとする程の剣幕で、ぎゃーぎゃーと捲し立てる。
「ま、待て……俺は別に覗こうと思って覗いたわけじゃなくてだな」
なんだ、この入浴シーンにうっかり突撃をかましてしまったおっさんみたいな台詞は。
「うっさい!! この変態!!」
舞香的にはみたいではなく、イコール、同然なのだろう。ポカポカと思いっきり一真の肩を叩く。この展開にやや取り残され気味だった夏樹が慌てて前に出てくる。
「ご、ごめんなさい、舞香ちゃん! この人が日記を見るように仕向けたのは、私、なの」
二人の間に割り込み、そのままがくっと膝を折り床に倒れ込んだ。一真と舞香は一瞬、凍りつく。すぐさま駆け寄ったのは舞香だ。
「夏樹!? くそ、今すぐ調伏しないと……!」
見ると、夏目は大きく瞳孔を開き、ガクガクと震えていた。どこかここでない別の場所を凝視し、口が別の生き物のように開閉する。
「おい、馬鹿!!」
舞香の一喝に、一真は我に返った。天が手元で何やってんだというように震える。
「ど、どうしたらいい!?」
「私は霊符とか全部取り上げられてるんだ!! あるのは蜃だけで……」
懐から取り出した形代の霊符。彼女が使役する蛟の式神だ。だが、それはこの状況下では役に立たないらしい。
――何か
「こ、こ、これ」
夏樹が何か呟いた。ポケットから取り出したのは一枚の霊符。墨で書かれもはやそれは漢字である事しか分からなかったが、舞香はそれが何なのか瞬時に分かったようだ。
「浄心呪――て、これはどうしたんだ?」
「あいつ、秋穂がくれたの。『あんたんところは穢れてるからって』」
秋穂……その名前は怪異が起きたすぐに壁に書かれていた文字、そして日記に載せられていた名前だ。
「あいつめぇ……」と舞香がぎりぎりと歯ぎしり。
「でも、それ使える……んでしょ? 小角さんが言ってた」
――小角?
聞き覚えの無い名前に一真は怪訝な顔になった。月の話では“鵺”という名の呪術師に、鬼の式神が一体……まさか、鬼の主だろうか。少なくとも鵺の仲間である事には違いないだろう。
「ははは、でも本当に穢れてたからね」
「馬鹿ッ!!」
舞香が怒鳴った。夏樹の胸に当てた浄心呪の霊符に自身の霊気を循環させ、発動させる。噴き出ていた邪気が止血されたかのように、止まり夏樹の身体の中で留まる。霊符から夏樹へと清浄な気が送り込まれて行く。一真が介入する余地は無い。だが、これは舞香一人の手に負えるものでも無かった。舞香はぐっと呻き、夏樹から溢れる邪気から顔を逸らした。
「無理だ。一枚だけで……私だって、殆ど霊気が残ってないのに……!!」
「諦めるな! 俺は、どうすればいい?」
無力なのは百も承知で、舞香を叱咤する。
――夏樹が物の怪に……
完全に呑み込まれる。沙夜のように。かつて見た沙夜の姿が頭に浮かび、一真は青ざめた。舞香もまた青ざめていたが、その顔には決意が見て取れた。
「破敵之剣だ。そいつで、夏樹の邪気だけを斬るんだ」
「何!?」
その指示が、きちんと頭に浸透するよりも早く、あろうことか舞香は霊符を夏樹から外していた。一度は止まっていた邪気が噴水の如く流出する。
「ま、いか……」
掠れた泣き声が、意識の薄れた夏樹の口から零れ落ちる。舞香はその顔に精一杯の温かみを湛え、話しかける。
「大丈夫だ。もう、ここで全部出しきってしまえばいいんだよ。夏樹ちゃんも、私も」
邪気に包まれた夏樹の頬に触れ、舞香はごほっと咳き込んだ。どうしたと声を掛けようとしたのと、舞香の身体に起きた異変に気が付いたのは同時だった。
舞香の身体からも邪気が立ち昇っていた。それは、夏樹程ではないにしろ、禍々しくまたどこか哀しい影だった。夏樹の邪気に呼応したのか、夏樹自身の邪気が乗り移ったのかは素人の一真には分かるはずも無かったが、
――舞香の影だ
そう直感した。
落ち窪んだ眼窩が一真を見、口を開いた。その隣に夏樹自身から生み出された影が降り立つ。舞香は床に倒れ、朦朧とした意識のまま、一真に笑いかけた。宿題を当日までやって来ずに見せてと頼むかのような調子で頼む。
「ごめん、また“あの時”みたいに任せてもいい、かな」
――“あの時”?
いつの話か、一真には思い出せない。だが、既に舞香は穏やかな安堵に包まれた表情で眠っていた。他の誰でもない。呪文の一つも唱えられず、霊術と言えば、身固めがようやっと出来るようになった程度。相棒の破敵之剣が無ければ、物の怪一匹倒せないような少年に。
「分かったよ……心配すんな、やってやるさ」
一真は意識したわけでもなく、そもそも覚えてすらいないのだが、幼少期に告げた言葉が重なる。肩の位置に破敵之剣こと天を構える。
「天、行くぜ」
「応、いつでもいいぞ」
タンッと、一真は床を蹴った。身固めで強化した脚を発条に舞香の影へと斬り掛かる。この二人の影は、物の怪としてはまだ形の定まっていない泥人形のようなものだ。策は練らず、真っ向勝負で掛かる。
迷い無く、上段から振り下ろした刃が、舞香の影を叩き斬る。思い浮かべた光景は、次の瞬間崩れ去った。
反響する金属音。舞香の影が握る小太刀に弾き返され、破敵之剣はあらぬ方向へと振り下ろされた。舞香の影が踏み込んでくる。防御する間はない。一真は小太刀の動きに合わせて後ろへと飛び退った。
「ぐっ……!!」
刃が、制服を切り裂き、血がパッと舞う。咄嗟に傷の具合を見ようと下に視線を向け、一真は目を剥いた。勢い余った舞香の影が、壁際に立てられた本棚を突き崩す。
床一面に毀れるインク、浮かび上がる紋様、呪詛の文。その流れの先には夏樹の影があった。ノートは無い。掌から、血のように邪気が漏れ出て、零れ落ちていた。
「床を貫け!!」
天が泡を食って指示を飛ばし、一真は床へと突き立てた。心臓が脈打つように、床に広がったインクが波打ち、粉々に砕け散る。だが、その時には再び舞香の影が飛び込んできていた。突き立てた体勢から後ろに下がりつつ天を撥ね上げ小太刀へとぶつける。振り下ろされた小太刀が競り負けて弾かれる。
「くそ、物の怪の癖して連携プレイかよ!」
「あいつら、仲良さそうだしな」
天が呑気にそんな事を言うが、時間が無い。舞香は邪気を斬れと言った。夏樹の身体に憑いたままでは、彼女自身をも傷つける事になる。だから、わざと邪気を外に出したのだろう。だが、それは同時に苦肉の策でもある筈だ。
間に合わなければ、舞香達は物の怪に呑み込まれる。だが、その危険を承知で、舞香は自分達の事を一真に託したのだ。
――くそ、諦めるな!! せめてどちらかの動きを止められれば……!!
一真は考える。今までの戦いの経験、月や碧との鍛錬からこの状況を打開する何かを求めた。すると戦いが映像のように鮮明に頭の中に浮かんできた。だが、違う。これは、自分自身の記憶ではない。
――常盤!!
鬼一が叫び、“振り向く”その先には肩から血を流し倒れる常盤の姿だった。常盤が何かを弱弱しく口にする。一真にはその内容が聞き取れなかったが、鬼一には“聞こえた”。
――弱音を吐くな。お前自身で見つけ出してやれ!! 何の為にここに来たのか、それを思い出せ
何の為にここに来た。そんな事は分かり切っている。舞香を、夏樹を見つけ出す為に……――だが、それは何の為に?
聞こえたのは自分自身の声だ。一真自身が一真に向かって問いかける。
――連れ戻しただけで、何か変わるのかよ?
何かが変わる……変える為にここに来たのだろうか。
――それで変わったつもりか
ふと師匠の言葉が頭を過った。あれは結局どういう意味だったのか。頭に再び、鬼一と常盤の映像が流れ込む。
常盤が気丈にも再び立ち上がる。鬼一がその前に仁王立ちし、斬り掛かってくる義覚を受け止める。常盤の瞳には強い意志が燃えていた。すっと構えた太刀筋は美しく、見る者を魅了する。
「私は」
常盤の声が耳に直接語りかけるかのように朗々と響く。
「佐保を取り戻し、一から絆を作り直す!! その為にここにいるっ!!」
迫る闘気に視界が紅く染まり、意識が一瞬の内に現実へと引き戻される。瞼を開けた瞬間、舞香の影が飛び込んでくるのが分かった。その動きは酷く遅く見えた。
その影は今にも泣き出しそうな顔だった。
剣を握る手が跳ね上がる。宙に一瞬剣を浮かばせて、落ちるよりも前に構えなおし、逆手ともつかない手つきで槍投げよろしく舞香の影へと投擲する。
ぐしゃりと舞香の影が剣を突き立てたまま倒れ込む。夏樹の影が動揺したように固まる。その隙に一真は舞香の方へと飛んだ。
夏樹の影が怒りの声を発し、丸腰となった一真へと直接、その黒い靄を纏った手を伸ばし襲い掛かる。ありがたい、そちらから飛び掛かってくれるのであれば――、一真はさっとしゃがんで躱し、拳を突き出した。
物の怪は生き物や道具等を媒体にしない限りは、実体が無い。霊術を殆ど伴わないその物理攻撃に意味は無いどころか、逆に物の怪に囚われてしまう。
勿論、一真もそれくらいは知っている。影の方から飛び掛かって来たのがその為だということも。それでも叩きつける。拳の、指の合間に挟んだ霊符――浄心呪を。
一真は霊符の扱い方を知らない。戦う時は破敵之剣に頼る他ない。だが、それでも。
「行けっ――!!」
舞香が気を失ってなお、発動させ続けていた霊符。それは既に照準が定められていて安全装置を外した銃と同じことだ。最後の仕上げ、そこに自身の霊気を注ぐ事くらいは出来る。
霊符から巻き起こる風に、影が弾かれ飛ばされる。その隙を一真は逃さず駆ける。未だ燻り、弱弱しく邪気を放つ影から天をかっさらうように引き抜き、影を、その体を袈裟懸けに断ち斬る。
影が一瞬、真っ二つになったまま宙を漂い――消失する。
ホッと息を吐き、破敵之剣を懐剣の姿に戻す。
「馬鹿、まだ来る!!」




