十九
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随分と昔の夢を見た気がする。舞香はうっすらとする意識の中で溜めた涙を引っ込めた。姉が自分の事を池に突き落とした夢。何故、そんな夢を見たのかは考えるまでもない。
今のこの状況が、どこかあの時と似ているのだ。この先どうしたらいいのか分からない不安は、あの時感じた物とそっくりだ。だが、あの時と違う事もある。
“突き飛ばした”
舞香はようやく瞼を開け、周りの様子を窺う。拘束されているというわけではない。すっかり身体から力が抜け落ちてしまい動けなくなっているだけだ。まず目に入るのは天井。もう見飽きた。
――地下だった。ここは恐らく、岡見学園のどこかなのだろうと、舞香は推測していた。天然物ではなく、恐らくは人工物。
元々学園の周りやら学園の建っている場所自体、歴史的な建造物やらが建っていたりしたのであまり驚かない。その事に思いを馳せるとどうしでも、姉の顔が浮かんでしまう。
岡見の地、元は淤加美という文字を使っていた。龍を指す古語だ。遠い昔、この地は湖で、その主が五頭龍だったという伝承がある。吉備の分家が何故京都を出て、この地に辿りついたのかは不明だが、五頭龍と吉備家は互いに心を通わす事が出来たのだという。
吉備家は家の秘宝である五龍珠の霊気を龍に捧げ、五頭龍は霊気の雨をこの地に降らし、霊脈――湖を潤した。
その五頭龍と初めて言葉を交わしたのは、吉備家の中でも最も力のある巫女だったと伝承は伝えている。それを基としたある一つの仕来りが吉備家には存在する。
――力がある女が代々五頭龍を式神として扱うと
双子のうち碧が選ばれたのは、当然の事、必然の事であったのだと、舞香は常に自分に言い聞かせるようにしてきた。自分は姉と比べて未熟なのだと。普段、彼女がどこかマイペースなようにふるまって見せるのは、ある種の諦め。
どれ程頑張っても姉のようにはなれないという感情がどこかに存在するからかもしれない。
だが、それでも、そんな舞香でも決して譲れない物もある。自分のせいでいなくなった友達を自分自身の手で救おうとした事。これは決していつものように姉に任せてしまえない事だった。
――そんな意地張った結果がこれだなんてなぁ
改めて視線を周りに向ける。地下牢と言うのが一番適した表現なのだろうか。が、それにしては広い。鉄格子に囲まれてはいる。だが、人を閉じ込めるだけならこれ程のスペースは要らない筈。床は石畳のよう。とても寝るのに快適とは言えない。
無様だ。そう思わざるを得ない。やっぱり姉のようにはいかない。そんな事は最初から分かっていたのに。
すぐ隣には蜃が横たわっていた。やはり力を封じられてしまったのか、ぐったりとしている。
「うるぅ……」
弱弱しいその声に、舞香は自分の不甲斐なさを呪った。ぐっと腕を伸ばし、その鬣をそっと撫でる。
「ごめん、蜃。私に力がないばっかりに」
蜃は触れて貰ったことがうれしいのか、尻尾を微かに振りそれに答える。その時だった。ふと、鉄格子の向こうで扉の軋む音が聞こえた。こつこつと軽い足音。一体何度目だろう。彼女はやって来た。
「あ、舞香ちゃん。起きてたの?」
まるで邪気のない声。鉄格子の扉を開けて中へと入ってくる。鍵は掛けられていないのか、それとも霊術での認証でもあるのかどうかはわからないし、わかった所でさして助けにはならない。どっちみち、今の舞香は、例え扉が開けっ放しにされていても出ていけないのだから。
「起きてたよ……」
ぎろりと夏樹らしき人影を睨む。声も姿も同じ、だが、そいつの身に纏う気配は異様だ。つい数日前までただの人間だった少女が、これ程の変化を迎えるその理由。
――怪異。それもどこかの馬鹿が故意に起こしたものか
一番最初に目が覚めた時、舞香は一人の男と出会っていた。赤い僧衣に身を包んだ彼は自身を「役小角」と名乗っていた。俄かには信じられない話だった。
役小角――呪術者であれば、その名を知らぬ者はいない。修験道の開祖とされる人物で、飛鳥時代から奈良の時代を生きた。言うまでもないが、既に死んでいる筈の人物、この現代に生きている筈が無い人物である。その名を騙る偽物か、それとも役小角の遠い子孫とでも言うのか。そんな舞香の疑念を見抜いたかのように、役小角は笑った。
「君が考えている事はわかる。だが」
感情の一切が抜け落ちた笑み。ただ、機械的に肉を動かしているかのような笑みだった。
「私が、役小角なのだ」
「その役小角さんが、私に……いや、吉備家に何の用なのさ」
舞香は臆さなかった。状況が呑み込めていないからなのかもしれない。威勢だけは良いなと、小角は再び笑う。
「察しが良くて助かる。六韜『虎の巻』それと変若水。この二つは吉備家が保管していると聞く」
唐突に出された二つの秘宝の名に、流石に舞香は開いた口が塞がらなくなった。何故、こいつはそんな事を知っているのか。そんな事を確かめてどうするのか。何かに使うつもりなのか。そもそも、あれがどういう霊具、霊薬であるのか分かっていて言っているのか。
疑問を並べ立てればキリが無い。だが、小角はただこう聞いただけだった。
「なんだ、違うのか?」
その言葉に舞香は激昂した。
「ふ、ふざけんな!! あれがなんなのか、わかってて言ってんのか!?」
「あるか、ないかを聞いただけだ。その様子だとあるようだがな」
ぐっと、舞香は黙り込んだ。小角の予想は半分程は当たっている。いや、それとも全て“理解した”上で納得したのか。勘違いしたまま納得したのか。男の顔からは判断出来ない。無表情というのが一番適切なのかもしれないが、それすらも完全にすんなりと当てはまらない。
無表情と言うのは、人間に対して使うものだ。この男には表情という概念がそもそも無いのではないか。人間を嘲笑う為に作られた表情という概念すらも無い人形。回りくどい言い回しだが、そう言うと一番しっくりくるかもしれない。
ともかく、役小角は舞香に“秘宝”の事を訊ねったきり、どこへかと行ってしまった。こうして何度か夏樹が様子を見に来るだけ。朝にはパンと飲み水を運んできてくれた。「舞香ちゃんは動けないから」と、口に持っていこうとするのを断固拒否し、腕だけ動かして自分で飲み食いした。パンはどうにか食べきったが、水は零してしまい殆ど飲めていない(それを拭いたのは夏樹だ)
霊術を使う云々以前に体力が底を尽き始めている。
「そんな怖い顔しないで」夏樹がくすくすと笑う。それが、舞香の神経を逆撫でする。
「佐保をどこにやったか、まだ聞いてない」
舞香は擦れた声を絞り出し眼に力を込めて問う。式部佐保――舞香、夏樹の友達だった少女もまた、舞香と同じく閉じ込められていた。壁を隔てた向こうにここと同じくらいの大きさの部屋があり、そこにいた。つい先程までは。夏樹や役小角がいない隙を見て、言葉を交わし合い、どうにか抜け出せないかと互いに知恵を絞っていたのだが、夏樹に連れ去られてしまった。
「儀式部屋にいるよ。小角さんが儀式に必要なんだって」
「だから、なんだその儀式ってのは!!」
夏樹の言葉に舞香は声を荒げる。もしも立てる状態だったら胸倉を掴んでいたかもしれない。今は縋り付く力すら出ない。夏樹の言う儀式とやらが、まともな物だとは微塵も思えない。だが、そうすると逆に一つの疑問も生まれる。
――私たちを攫ったのは、私たちを“力”から解放する為、なんじゃないのか?
夏樹自身の口からそう聞いた。舞香達を苦しめるのは、舞香達に力があるから。だから解放するのだと。だが、その解放の意味が舞香には分からない。
「大丈夫。佐保ちゃんを傷つけたりなんてしてない。ただ、今は眠っているけどね」
舞香は震えた。怒りと悔しさが嵐となって吹き荒れ、頭に駆け上る。佐保をどんな目に遭わせたのか、次は自分なのか。何故、自分はこうも非力なのか。そして、何より夏樹の口から邪気に満ちた言葉を聞くのが堪えられない。
――どうしてこうなったんだろう
振り返ってみると、やはりあの交換日誌の件に至る。舞香、佐保、夏樹の三人。何の隠し事もせず、日々感じた事や出来事を書き連ねていく。別段、珍しい光景ではない何気ない少女達の遊び。
だけど、その遊びには明確な「嘘」が含まれていた。勘違いだとか、見間違いだとか、そんな事ではない。三人の内一人に隠され続けていた「真実」
守る為の「嘘」で傷つけた。
隠した「真実」は歪に歪められた。
「夏樹は」と舞香はやっとのことで声を出した。夏樹の表情は影がかかっていてよく見えない。言葉が届くのかどうかも分からない。彼女は間違いなく、この学園で起きている怪異の核の一つ。負の感情を極限まで凝縮し昂っている状態の彼女に、こちらの思いが伝わる筈はない。
それでも、舞香は「夏樹」のパーソナリティを留めている彼女に問いかける。
「これが正しいことって本気で思ってんのか?」
或いは、本音を聞いてしまったら、舞香は本当にここで挫けてしまうかもしれない。二度と立ち上がれない程に。それまで何でも即答していた夏樹が、驚いたことに口を噤んでいた。内から湧き上がる感情を抑え込んでいるようにも見える。ふと、舞香には、夏樹がどんな表情を浮かべているのかが分かるような気がした。
「舞香ちゃんは、正しいと思っていたの? 私に隠し事して……」
今度は舞香が黙り込む番だった。舞香が、佐保が、夏樹に黙っていたのはそれが夏樹の為だと思ったからだ。自分達が相手にするのは、怪異、物の怪……その役目は――個々によって微妙にちがうものの――、陰陽の世界のバランスを保つ事だ。夏樹を巻き込まないようにと、舞香も、佐保もそのことは秘密にしてきた。
だが、所詮は子どもだ。ふとした拍子に襤褸が出る。夏樹は機敏にそれを感じ取り、二人が隠し事をしていることを見抜いた。
そして、夏樹が自分達の秘密を見抜いたその時、確かに舞香は罪悪感を持った。これは自分と佐保の責任。現陰陽寮の指示を待たずに、行動したのもそれが一番の要因だった。
「正しくは無かったんだと思う……、だけど、どうしろって言うんだ?! 夏樹ちゃんに全部話せば良かったって言うのか?! そうすれば、こんな事は起きなかった、て……?」
語気は一旦、荒くなりそして再び萎んだ。もう、限界だった。考える事すらも放棄したくなる。自分にはもう、どうする事も出来ない。佐保は連れ去られた。無事だという夏樹の言葉はあてにならない。後は、せいぜい誰かが助けに来る可能性にかけてみるのみだが、駆けつける頃には、舞香は此の世にはいないかもしれない。
――いや、あいつは吉備家の秘宝を求めてるって言っていた
それを手に入れるまでは生きていられるか、等と考えそうになり舞香は首を振るう。
――何、自分が助かることばかり考えてんだ。佐保を助けないと
だけど居場所も分からない。そもそも、ここから一歩も動けないのではどうしようもない。せめて、自分の霊気を封じた――正確には抜き取った――この“術”をどうにか出来ればいいのだが……と、そこまで考えて舞香はふと思い至る。
この“術”を掛けたのは一体誰なのだろうか、と。
恐らく、夏樹ではないだろう。彼女は確かに強大な霊力を扱うが、それは物の怪としての歪んだ、力を暴走させた結果だ。結界や相手を拘束するような精巧な術は扱えない筈。だとすると、これは役小角と名乗った男の術か。
「ふふ、もういいよ。その事は」
夏樹は笑い、舞香の頬を撫でた。ぞっとする程に冷たい手だった。静電気のように黒い霊気が肌を伝っている。舞香はそれをじっと目で追う。やはり、力の制御が甘い。
自身に溢れる負の霊気を抑えきれていないようだ。本人はその事を自覚していないのか、していてもさして気にしていないように見えた。
そっと、夏樹は舞香の耳元に口を寄せる。甘噛みするかのようにそっと甘い言葉を囁きかける。
「舞香ちゃんはもう苦しまないんだ。お姉ちゃんを捕まえたからね」
霊気の流れを追っていた舞香の目が見開かれる。
――あの姉ちゃんが……?
「夏樹、お前……」
「あ、私じゃないよ? 捕まえたの小角さん。私じゃとても敵わなかった。とても強かったなぁ」
舞香の怒りを和らげようと慌てて付け加える夏樹。だが、完全に彼女は間違っている。舞香の怒りの方向を見誤っている。誰が傷つけたか等、舞香は聞いていない。だが、しかし舞香はそれを指摘はせずに淡々と訊ねる。マグマのように熱くドロドロとした感情を内に渦巻かせつつ。
「あぁ、そうか。で? 私のお姉ちゃんを捕まえて、どうするつもりなんだよ?」
答えは無い。夏樹が答えようとしなかったわけではない。答えられなかったのだ。その手首、タトゥーのように呪言が刻まれた腕に舞香が喰らいついていた。
「い!? ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああ――!!」
少女の物とは思えない引き裂くような悲鳴。一瞬、罪悪感が過るものの、舞香は決して力を緩めない。
渾身の力を顎に込め、夏樹の腕を引き千切ろうとせんばかりに、首を振るう。パニックになった夏樹は負の霊気をあたりに撒き散らしている。舞香の思惑通りに。黒い稲妻のように放出され、のた打ち回っている。当然、舞香にもそれは降りかかった。
負の霊気、それは濃度の高い瘴気とでも言うべきか。精神に作用する毒と言うとしっくりくる。それにあてられたように舞香は笑っていた。代わりに夏樹の顔からあの不気味な笑みが消え、肌からすっと呪言の文字が薄れる。
「ひっ、放してッ!!」
必死の形相で夏樹は立ち上がり、後ろへと引き下がり、腕を取り戻す。だらだらと赤い血が滴っていた。それを見て、夏樹は更に青ざめた。だが、次の瞬間少女の顔に浮かんだのは憤怒の形相。そして、再び浮かんだ呪言の文字。文字、文字、文字、文字、文字。
舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香舞香
「なんで、なんで、なんでっ!! お前も、お前も、あいつらと同じように、私を、私を!!」
舞香は答えない。口に含んだ“霊気を内包した血”で指を濡らし、素早く床に印を描く。
「解呪――おん・るたなへいていら・そはか」
唱えると同時、舞香の四肢に力が流れ込んだ。いや、感覚としては少し違う。血を抜き取る注射器を取り外したかのようだ。今のいままで霊気を抜き取られ続けていたわけだ。残念ながら、一度取られた霊気は元には戻らないが、それなら別の所から貰えばいい。
「呪言――おん・ていいきほき・そわか」
口の中に残った血の雫を飲み干し、舞香は再び唱える。それはいわゆる陰陽師が用いる霊術とは体系が異なる“修験道”による真言の霊術。吉備家に伝わるとある書に記された霊術の一つでもある。それは見事に役小角の張ったであろう修験道による呪術“不動明王の金縛り”を解き、舞香の四肢に立ち上がるだけの力を与えた。
――私を拘束したのが、役小角なら、もしやって思ったけど大当たりだったなぁ
とはいえ、舞香自身の霊気だけでは不可能だった。“不動明王の金縛り”は、“鬼”をも縛る霊術と言われている。いくら解き方を知っていても、力が不足している状態では勿論のこと、万全であっても成功する確率は五分五分だったかもしれない。
だから、舞香は物の怪として暴走状態にある夏樹の霊気を、かなり強引な手段で奪い取った。物の怪に喰らいついて、その身体の一部から霊気を得るなど、恐らく他の陰陽師や呪術者なら思いついても実行には移さないだろう。
夏樹が自身の霊力を上手く制御出来ていないからこそ成功した荒業と言える。とはいえ、負の気――邪気、瘴気と言った類の霊気は強力だが、その代償も決して小さくは無い。現に舞香の顔は、眩暈と吐き気に青ざめていた。本来自分の物ではない霊気を奪って使い、拒否反応にも似た感覚に襲われる。
だが、同時に惹き寄せられてもいる。その強い力に。これさえあれば、この状況を脱せるのだ。使わない手は無いだろう。
目の前にいるあいつは、佐保を幽閉したばかりか、姉をも手に掛けようとしている。脅威は今すぐ排除すべきだ。今の自分なら出来る。護符は捕えられた時に全て没収されているが、戦装束はそのままだ。袖に手を突っ込む。裏には印が記されている。金気の霊術が瞬時に発動。袖から抜いたその手には小太刀が握られていた。
知らず、息が乱れる。興奮に。床を蹴り、一気に懐へと迫り、少女の首を刃で頸動脈を掻っ切る。血が噴き出すその光景を、舞香は脳内ではっきりと想像できた。
まさにその想像通りに、やれという頭の中での声に導かれるように、飛び掛かろうと身構え、舞香は愕然とした。
――私は、何やってんだ?
今自分が何をしようとしたのか、それを思い起こして、まるで今自分が立っている所に床が無い事に気が付かされたかのように、満足に立っていられなくなる。
「あいつらのように、私を、私を化け物みたいに言うのかっ!!」
怒りに夏樹の顔が歪み、小さく収束された瞳孔が揺れる。その言葉に、舞香は表情を強張らせた。その言葉を聞き、初めて彼女が、『夏樹』であると、それが彼女の中にある偽りの無い『本音』であると悟る。彼女はずっとある事を恐れていたのだ。大事な友人の事をしつこく問いただし、自身で必死になって調べたその核にあるものを。
「……違う」
それを受け取り、理解した上で、吉備の巫女の片割れは否定する。謝る相手は“夏樹”であって、この“夏樹”ではない。
「私は、姉ちゃんを助けたいだけだ……どこにいるのか、教えろ」
「あははは、何? 私を組み伏せて聞き出してみる?」
その手には日誌がある。三人で回したあの日誌からインクが漏れ、床に滴る。浮かび上がった文字は意味があるようで、ない。本来の形を意図的に崩しているといっていい。霊術の存在自体を否定、壊そうとする強い意志を動力とし、場の霊気を歪に、五行のバランスを大きく崩す怪異。
「そんなことしたくない、できない。だけど、力づくで道を切り開く位はさせてもらう」
霊術を否定する事で、霊力を引き出す、その矛盾を孕んだ怪異に対して、宣言――そして。
「起きよ、蜃」
舞香が霊気を送り、呼びかけると蛟――蜃がゆらりと立ち上がる。掛けられていた金縛りは、最初に舞香が解呪した時に解けている。少女達の短いやり取りの間に、蜃は力を取り戻していた。
「急々如律令――蜃の水気変じて、霧と化し、楼閣を建てませい」
蜃の吐く息は、幻を描く。夏樹が戸惑いの声を上げ、てんで違う方向に向かって術を放つ。舞香は蜃を傍に呼び寄せ、夏樹のすぐ横を駆けた。
夏樹はハッとした表情で、振り向くが遅い。鉄格子の扉を抜け、廊下へと出る。左右を見回してみると、舞香が入れられていたのと同じような牢の部屋が幾つも並んでいる。
夏樹がいつもやってくるのは左からだ。夏樹が後方から影の触手を放った。あの日誌を基にしたものだろう。身を翻して、躱す。再び、霊術が飛んでくる前に走り出す。鉄製の扉が見えた。その取っ手に手を伸ばした時、廊下に出た夏樹が呼び止めた。
「待って! 舞香ちゃん!!」
その言葉は罠だったのだろうか、それとも逃げられる事に焦りを感じたのか。切羽詰まった声が引っ掛かって、舞香は足を止めた。結果的に、それは彼女の命を救う結果になった。
扉に線が走った。それが斬撃によるものだと舞香が気づく暇も与えず、扉が内側から吹き飛んだ。扉の破片と共に衝撃に呑み込まれ、後方へと吐き出される。受け身を取る間も無く尻餅をつき、強かに背中をぶつけて床を転がる。
「うがっ……!!」
夏樹が立っている場所を通り過ごして、ようやく止まる。仰向けに引っ繰り返った舞香はそれでも、すぐに立ち上がろうと背を起こす。身体中が痺れるような感覚だった。
蜃も衝撃で吹き飛ばされたものの、途中で踏ん張ったのか、舞香よりも少し前の位置で主を守るように漂っている。逆向きに生えた鱗をぴんと立たせ、戦う気は満々だ。だが、蜃の姿は、力を抑えた仮の姿のままだ。力を解放する為の宝珠は、姉と喧嘩別れした時に投げ捨ててしまっている。
「何をやっておる、夏樹」
低く、陰気な声だった。その姿は異様だった。端的に言うならば、そいつは“鬼”だった。血に濡れたように紅い肌とそれに密着している甲冑。手には長い柄の斧を持っている。ここ最近、何度も見かけた鬼の姿がそこにある。
護符を形代にした鬼の式神、舞香が何度も何度も屠った相手だ。だが、今まで相手にしてきたのと明らかに違う点が幾つかある。
「外に決して出すなと命じられていた筈ではないか。そもそも、この小娘、どうやって逃げた?」
今まで倒した式神は、自我など持っていなかった。作りを簡略した贋物、粗悪な大量生産品だった。
「……まぁ、いい。術を破るだけの実力があるというなら、手足を削げばいい」
そして何より、発する霊気の量が尋常ではない。まだ殺気は込められていない筈なのに、その鋭い眼光に射竦められてしまう。
「や、やめて。私が油断していたから、だからなの」
驚いたことに、夏樹が青ざめた様子でそう言って、立ち塞がる。分からない。
夏樹は佐保の事を傷つけ、姉の事も始末しようとしているのではなかったのか。事態の流れに混乱する舞香をよそに、紅い鬼――前鬼、妙童の義覚は手に持った斧を静かに振り上げる。
「そうか――ならば、よい。実を言うとな、お前をいつ処分するかで、小角様も悩まれておられたのだ」
一瞬、舞香は自分の耳を疑った。あっさりと事務的に宣告される処刑。斧を振り上げる動作は戦うという意志すら感じられなかった。ギロチンの刃が機械的に振り上げられるのと同じだ。夏樹は言い渡された言葉に思考が追いついていない。振り上げられた斧を目で追うのが精一杯。
見えない糸を切ったかのように、斧が落ちる。物の怪と化した少女の頭目掛けて。その少女が友達を酷い目に遭わせたとか、姉を殺そうとしたとか、今回の怪異の核の一つになっているとか。
――だけど、大好きな友達でもあるとか
そんなことを思う暇は無かった。夏樹の背中へと殆ど抱き着くように腕を回し、後ろへと倒れる。刃が夏樹の髪を僅かに散らし、舞香の戦闘装束の袖を切り裂く。
どっと、二人は石造りの床に倒れた。夏樹は起き上がれなかったが、舞香はすぐさま立ち上がった。同時に、手に持った小太刀を逆手に持ち替え、跳躍。
義覚の頭上で宙返りを打ち、背後を取る。喉笛を切り裂くつもりだった。首目掛けて刃を突き立てる――筈が、振りかぶった斧に受け止められる。腰を捻り、義覚が振り向く。顔面に張り付いた仮面の奥から覗く眼光が炯々と輝いた。
「がっ!!」
左手が舞香の髪をぞんざいに掴み持ち上げる。身体が宙に浮く。義覚の右手に握られた斧が横薙ぎに振るわれる。
舞香の首を身体から切り離すその直前、蜃が義覚の身体に喰らいつき、壁へと叩きつけた。掴んでいた手が緩み、舞香は着地。すぐさま義覚から距離を取った。荒くなる息を抑える。膝がガクガクと震えた。式神が間に合わなければ死んでいた。その事実が、舞香の精神をズタズタに引き裂こうとする。しかも脅威はまだ終わらない。本音を言えば、何もかも棄てて逃げ出したいところだ。とても勝負にならない。
万全の状態で当たっても、勝てないだろう。そして、今は万全とは程遠い。
霊気の総量も、武術の腕もあちらの方が数段上。護符は無い。蜃と二対一で当たれるのがせめてもの救いだろうが、少しも気持ちは鎮まらない。
「それで終わりか? その程度で、我が主秘法の金縛りを解いたというか?」
壁に叩きつけられた義覚は、無傷だった。




