九
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岡見学園の道場は、四つの校舎のうち北と東の合間に建てられていた。
多くの場合、学校にある武道場は体育館の中にあるが、ここはどうやら体育館とは別に武道場が建てられているようだ。弓道部用の射的場の見える廊下(矢に注意等という冗談かと思うような物騒な看板がある)を抜け、一際大きな扉を鬼一が開く。むっと鼻に衝くような臭いは、剣道場独特のものだ。
視界一杯に杉の床が広がった。普段、一真が剣道部用として使っている剣道場の二、三倍の広さはあるだろうか。百人規模で稽古が出来そうだ。
「あ……」
だが、一真が思わず息を呑んだのはその広さ故にではなかった。長方形に広がる古杉から作られた床の隅、窓から微かに零れる陽の光の温もりに身を委ね正座する一人の女子生徒がいた。ふわりとした栗色の長髪、瑞々しい白い肌、端整な顔立ちには凛々しさと穏やかさの両方を兼ね備えている。瞑想の途中だったのか、瞼を閉じていたようだが、一真達が入って来るのを見て、ゆっくりと瞳を開いた。
「久しぶりね、沖君」
「常盤先輩……」
ふわりとした笑みに、一真は不覚にもくらっと来そうになる。実に一年ぶりの再会が苦々しい思い出と共に蘇った。問いかけるような一真の視線に、鬼一はフンと鼻を鳴らした。
「常盤、あまり優しくするな。上せてしまうだろう」
碧は片眉を上げつつ、一真に迫った。「どういうことなの」と言いたげに。だが、それはこっちの台詞だと一真は思う。師匠が陰陽師――正確には霊剣使だそうだが、一真には違いが分からない――であると明かされた驚愕からも立ち直れていないというのに、このタイミングでの常盤との再会。偶然であるとは思えない。だが、それを口にすることを一真は逡巡する。恐れとも驚きとも違う複雑怪奇な感情。
もしもこの感情を基にして物の怪が形成されるとしたら、とても珍妙な恰好になるだろう。そんな現実逃避気味な妄想まで浮かぶ。
「えっと、その、常盤先輩は……」
「その様子だともう知っているみたいね。私は先生の弟子よ」
申し訳なさそうに、常盤は自らの正体を明かした。一真はなんと答えていいのか分からなかった。常盤も他の道場仲間も幼い頃から一緒だった。皆、一真よりも一段も二段も強かったのを覚えている。
その実力に嫉妬し、または憧れ、魅せられた。それは単なる『甘え』であったと、冷静になった今では分かっている。分かっていたつもりだったが――。
――もしも先生の“弟子”になれていたら、なんて考えるのはやっぱり甘えだよな……
あの日、月と再会した時にあれ程不躾な態度を取る事もなかったかもしれない。もっと早く彼女に協力する事が出来たのかもしれない。だが、実際の所は分からない。力を手に入れていたとしても、嫉妬が傲慢に変わっていただけだろう。自分はそれ程出来た人間ではないと一真は自覚している。
――道場の仲間達が強かったのは、そういうことか、そう思ってしまう気持ちも全くないわけではない。
「その、いつからなんですか? 先生の弟子になったのは」
気持ちの整理がつかない中、どうにか、それだけ聞いた。常盤の口から微笑みが静かに消えた。
「あなたが道場に入ってきた頃、そうね五歳の時から」
「霊剣使に……?」
こくりと常盤は頷いた。月が自分の正体を明かした――いや、あれはむしろ一真の方が忘れていただけだったが――時と似た独特の雰囲気を、一真は肌に感じた。
使命を帯びた者の強さが表に、縛られるが故の儚さを裏に兼ねた者が浮かべる表情だ。
「妹の佐保も、彰君も鬼一先生の元で修行を受けたの。剣だけじゃなくて霊術の、ね」
「やっぱ、二人も!? てか、二人は今どこにいるんですか?」
訊ねるつもりは無かったが、つい口が滑った。聞くだけの権利が自分にあるかどうかも分からない。
別れも告げず、道場を飛び出すように辞めた自分がこうして常盤と口を利いている事自体が許されない事のように思えた。だが、常盤は答えてくれた。
「彰君は、山籠もりしているとか聞いたわ。お坊さんの所で修行しているとかって。そして、佐保はここの学生であり、現陰陽寮にも所属している巫女。今はここで起きている怪異“と思われる”事件を探っている所なのよ。陰陽寮の命ではなく、学園長の命でね」
眦を伏せるように下げた。冷徹さすら感じさせる硬い無表情から一転、悲しげに肩を落とす。
「私も一緒にいるべきなのでしょうけど、学長は、あんまりここで騒げば陰陽寮の他の重鎮達に付け入れられると……あぁ、ごめんなさい碧さん」
振り向くと、碧が非常に申し訳なさそうな顔で俯いていた。祖父であり、陰陽寮の重鎮だと鬼一は言っていたが……。
「その、この学園、陰陽師関係の人が、やたらと多い気がするんですが」
さっきから成り行きを静かに見守っている神楽と歌乃を見やりつつ、一真が問いかけると、その場にいた少女達は、皆黙った。言うべきかどうかお互いに顔を見合わせている。
「それは、この地が霊術の修行に適しているからだろう。五龍の“元住処”ともなれば霊気も豊富だしな」
鬼一の声だ。道場の奥、師範室と書かれた暖簾を潜り歩み寄ってくる。
それはどういうことなんですかと訊ねようとした一真は、その手に一本の太刀が握られている事に気づき、ぎょっとした。常盤達と話している最中に取ってきたらしい。
そういえば、さっき「稽古をつけてやる」とは言われたが……。
「さてと、だ。何処から語ったものか……それとも問答無用で稽古を付けた方がいいのか」
ぶつぶつと独り言のように鬼一は太刀に向かって語りかける。常人が見れば、奇行に感じただろうが、次の瞬間、どこからともなくしゃがれた翁の声が頭に響いた。
「うむ、どちらでも儂は構わぬぞ。どっちを選ぶにしろ、この少年には同情を禁じ得ないが」
破敵之剣、天と同じ類の霊具だろうか。天の場合は使い手か使い手だった者としか交信しようとしない。それは、単に、天が面倒臭がりやな事もあるが、使い手との間に交わすやり取りを第三者に読み取られないようにする為の行為でもある。
――て、前に天が言ってた気がするけど、要するに人間不信なだけじゃねぇかな
「聞こえてんぞ、一真」
天が一真にだけに聞こえる声で言った。寝起きなのか酷く機嫌が悪い。しまったと思いつつも、悪びれずに一真は返す。
――やれるか、天?
「問題は俺じゃないだろ。お前だ。相手をちゃんと見ろ。めっちゃ強そうだが?」
天がこんなことを言うとは、と一真は苦笑する。ただ、一真にしてもこの目の前の相手に勝てる気がしなかった。それは剣でこの男に、一度も勝てた事がないという苦手意識からなのか、今、現実的な力差としてそう感じるのかは分からない。
「そして、あっちは“吠え丸”だったか? また、とんでもない奴を相手に選んだもんだ」
鞄の中か今にも苦笑が漏れだしてくる気がした。今まで何も口出しして来なかった癖に、状況だけは判断出来ているらしい。冗談の混じったその言葉には緊張感の欠片もない。
「ま、ならば稽古を先にしよう。一真、お前が破敵之剣の所有者である事は聞いている。抜け」
そう言って、しかしこの霊剣使は自分の太刀を抜かない。だらりと右手は垂らしたまま、左手こそ腰の太刀の鞘を握っているが鯉口は切られていない。どう動くべきか決めかねている一真の横で碧が叫んだ。
「先生! 一体、何をなさるおつもりですか!!」
「稽古だと言っただろう」
煩げに鬼一は躱した。視線は一真の目に付けられている。普段はブラックな冗談ばかり言っている鬼一だが、勝負事においては一切の妥協を許さない。止めてくださいと言って止める性格でもない。となれば、一真は戦うしかない。だが。
「先生は抜かないんですか?」
これだけは聞かなければならないと思い、確認した。一真が予想した通り、師匠は口の端に挑発的な笑みを浮かべて答えた。
「私にこの太刀を抜かせたら、お前の勝ちというのはどうだ?」
「俺が破敵之剣で斬りかかって、先生は素手で戦うわけですか」
「そういうことだ」
さっさとしろと言わんばかりに、鬼一はぞんざいに手を振る。碧がまだ言い足りない模様だったが、一真の返答を待っている。神楽と歌乃の二人は心配げに顔を見合わせ、常盤は無表情で成り行きを見守っている。
「つい一か月位前まで、俺はただの馬鹿でした」
独白し、一真は鞄のチャックに手を掛ける。俄かに四肢に流れる霊気が活気づき、肌の周りを見えない防護で固め始める。
「今も馬鹿な事に変わりはないかもしれませんが――俺は変わった」
しっかりと閉め、鞄を碧へと渡す。「ちょ、ちょっと」と戸惑う碧を置いて、一真は道場の真ん中へと足を踏み出した。
「先生が素手で戦うってなら、俺も素手です」
ほうっと、鬼一の目の色が変わった。出来の悪い生徒への躾程度にしか見ていなかったそれが、興味の対象へ。
「勝負にならん。分かっているんだろうな?」
「いいえ、必ず勝ってみせます」
焚き付ける師と、燃え上がる弟子。
素手での戦いは碧に簡単な体術を習っただけで、実戦では一度も試したことがない。はっきり言って、それだけならば喧嘩慣れした不良に勝てるかどうかも怪しい。馬鹿だなと一真は自分の行動を笑う。だが、馬鹿さ加減で言うならば、この師も相当のレベルだ。勝負にならないと断じた戦いに本気で臨もうとしているのだから。
合図は無かった。すっと歩み寄った鬼一の姿が、忽然と視界から消える。不味いと思った時には遅い。消えた時と同じ速さで拳が眼前に広がっていた。
「ぐはっ!?」
額に拳がめり込んだかのような感覚。衝撃のままに後ろに吹き飛び、天地が引っ繰り返る。一真は頭から激突する直前に手を突いて宙で一回転、脚をついて必死に勢いを殺す。頭を上げると、鬼一が既にそこにいた。
「お……、おおおおぉおお!!」
形容しがたい恐怖、それを振り払おうと一真は、裂帛と共に拳を振り出すが。
「ハッぁああああああああああ!!」
それを上回る裂帛が師の腕から発せられた。霊力をアッパーのように腹に叩きつけられ、一真は宙を飛んだ。霊力をかき集め、必死に流れを変える。ふわりと後ろ宙返りを取り、それから床へと無様に落ちた。着地失敗だ。
――くそ、何なんだよ、今のは
理不尽なまでの強さに一真は、歯噛みする。
だが、同時に理解もする。今のは遠隔力場。遠距離の敵に向けて霊力を放つ技の基本だ。師の強さは決して幻想ではない。確かに土台となるものがそこに存在する。それを揺るがすには、あまりにも一真は低い。
技も、力も、胆力も。彼の瞳を見たその時に。師の揺るぎない強さを秘めた眼を見たその時から、圧倒的な差がついていた。以前の自分ならば、たとえ師が口にしてそれを指摘しても分からなかっただろう。だが。
「勝つ」
呟いた。言葉にした途端、身に掛けた固めがより強くなった気がした。勢いのまま、踏み込む。鬼一の身体が迫ると同時に拳を繰り出す。鬼一は半歩後ろに下がるだけでそれを躱した。紙一重。諦めずに追撃。右脚が弧を描き鬼一の腹を掠める。続けて再び拳を、今度は頭目掛けて繰り出すが、これも軽く首を振っただけで躱される、と。唐突に返された拳が一真の頭を捉えた。
「ぐはッ!! が……」
続いて繰り出された蹴りの一発が腹を捉え、二発目が足を捉える。一真はその場の床に頭を強かに打ち付けた。
「それで変わったつもりか?」
怜悧な視線の刃が一真の双眸を貫き、縫い止めた。
霊術も無い。
剣術も無い。
ただ、拳が重力に引き寄せられるままに、振り下ろされる。
「あぁ、少しだけ」
一真はどうにかそれだけ答え、半身になりながら思いっきり脚を振り上げた。拳と脚が交差し、一方は身体を捉え、もう一方は身体を捉えなかった。
「ハハハ……」
乾いた笑みが漏れる。一真の口からだった。ごとっとその身体が、今度こそ床に落ちる。
「やっぱ強いな、師匠は……」
意識が薄れる中、ガシャンと言う金属的な音が聞こえ、一真は満足げに目を閉じた。
再び意識が戻ったのは、それから何分後の事だったのだろう。気が付くと身体の節々がじりじりと痛んだ。ゆっくりと起き上がると、毛布がひらりと体から落ちた。
碧や常盤達はいなかった。師匠もいない。そして、道場の隅で一真は寝かされていたらしい。誰かが来たらどうするんだと思いつつ、一真は身体の怪我を確かめる。そんなものはどこにも無かった。
――加減されてたんだな
当たり前と言えば当たり前。だが、師は決して手抜きをしていたというわけでもなかった。正確には“師”として、“弟子”の力を引き出すべく、本気で戦っていたのだと一真は思う。無論、そう見えただけという可能性も無いわけではないが。
そんな事を考えているうちに、ふと人の気配がして、一真は立ち上がった。
「やっと起きたか」
暖簾の向こうから、鬼一が言った。素足で音も立てずに、すっと床を歩いてくる。胴着ではなく、使い古した感じの灰色のスーツに着替えていた。一真が起きているのを見て、少し安堵したような表情を浮かべていた。
「どこにも異常はないと思うが、大丈夫か?」
「えぇ、ま。頭がくらくらする以外は」
ならば良いなと、鬼一はすっと表情を消す。
「さて、勝負の事だが――ひとまず、お前の勝ちということにしておこう」
「え?」
鳩が豆鉄砲を喰らったかのように、一真は目を丸くした。確かに意識を失う前、一真は満足していた。それは勝負に勝った――鬼一に刀を抜かせた――からではない。あれで勝ったとするのは、聊か屁理屈過ぎる。
「最後の一撃が、刀に当たって鯉口を切らせ、刀を“抜かせた”お前の執念も、ここまで来ると大したもんだよ」
「い、いや……だけど、俺殆ど同時に気絶させられましたし」
するとこの師匠は、何が可笑しいのか、くくくと笑った。いつも道場で生徒をからかう時に浮かべていたのと同じ笑み。
「気絶したら負けと誰が決めたんだ?」
あっと一真は思わず、声を漏らしそれから、苦々しく唇をゆがめた。鬼一は、一真の勝利条件を決めていたが、自分自身の勝利条件は決めてはいなかった。
――初めから勝つつもりじゃなかったのか
或いは何をどうしても勝てないという状況を自ら作り出したというべきか。
これではどんな方法で勝っても、誇れはしない。もしかしたら、それこそが狙いなのかとも思う。自ずと力量の差を思い知るようにと……。だが、師はぞんざいに、別に何か企んでいるというわけではないというように、手を振って答える。
「ともかく、お前は勝った。霊剣使の剣をどんな形であれ、抜かせたんだ。もう少し誇れ」
「それ、ちっとも誇りにならないのを分かっていて、言ってますよね」
少しばかり強気に返す。昔の生意気さが少しばかり戻った気がした。だが、鬼一は一転、ニヒルな笑みを引込め、至って真面目に問う。
「なんだ? やはり、当たり所が悪かったか?」
「それ以前に、頭が悪いんですよ。昔と変わらず」
一瞬、高まった緊張が二人の間で帯電する。だが、先に折れたのは鬼一の方だった。
「ふん、力差を埋められるとでも思ったのか? 私が言っているのはそういうことではない。お前が私に追いつくなど、千年早い」
力では追いつけないと言っているにも関わらず、さっきの戦いが「勝利」だったと認める。それが、一真にはよく分からなかった。だが、逆に鬼一はそんな一真に苛立っているように見えた。
「お前は“勝つ”と言った。そして、結果的に“勝った”これが単なる偶然であると、お前は思うか?」
「だけど、先生は……」
「“勝負にならない”とは言った。そして、事実、勝負とは言えなかっただろう?」
そう返されてしまっては、一真は何も言えない。そんなもの、お互いに勝利を望んだらどうなっていたというのだろう。
「霊剣術――京八流の極意は、剣術の腕ではない。霊術の才でもない」
「京八流……?」
耳慣れない単語に、一真は首を傾げた。師は、あぁと答えるのも面倒だと言うように、口にした。
「私の先祖が開いた剣術だ――で」
「え、開いたぁっ!?」
「なんだ、五月蠅いぞ。そんなに意外なことか?」
鬼一は質問をさらっと流そうとしたが、いや、これはさらっと流せるものではない。自分は剣術の開祖の末裔から剣術を教わったことになるのではないか。
「大した歴史なんざない。学者の中には実在なんざしてなかったと言う者もいるくらいだ。ある意味でそれは正解なんだがな。この陽の界において、この京八流ってのは剣術という枠には収まりきらん力だ」
だからこそ、ただの剣術ではなく、霊剣術。霊術と剣術を併せ持つ術ということなのだろうか。だが、そこを深く語りたくないのか、鬼一はふと我に返った。
「で、どこまで話したか、そうそう。で、だ。極意はだな――言霊だ。言霊は知っているな?」
頷いた。元々、陰陽師関連の知識は興味本位で調べもしたし、月達と共に戦うようになってからも、陰陽師やその術に関係しそうな事は、自分で調べもした。その言霊――、簡単に言えば、言葉に宿る霊力の事だ。
良き言葉は吉を呼び、
悪しき言葉は凶を呼ぶ。
「霊力を宿した言葉、叫び、それが幻想を現実へと変える力の根源だ。お前が勝利を引き寄せたようにな。その京八流の基礎を、お前はたった今学んだわけだ」
反射的に、一真の顔が強張った。この師は一年前の出来事を持ち出そうとしているのだろうか。いや、その出来事に触れずにこのまま、話が進むと思っていた自分こそが甘かったのではないか。どうにか跳ねる心臓を抑え、一真は問う。
「先生、ふと疑問に思った事があるんですが」
師は、言ってみろというように、僅かに顔を引いた。一真は一呼吸、覚悟と共に息を吸い、そして言葉と共に吐いた。
「俺があなたの道場に入ったのは偶々の出来事だったんでしょうか」
一真が、鬼一の剣道場へと父に連れて来られたのは、五歳の頃。その時の頃の記憶を明確に覚えているわけではない。
ただ、幼い子どもには似つかわしくない荒々しさが有ったという事だけ。それをどうにか発散させる為に、剣道を習い始めた。
“内なる幽暗”、その中に眠るもうひとつの自我が原因であると、一般人である沖家の人間に分かる筈が無かった。栃煌神社の陰陽師達でさえ分からなかったのだから。分かっていたのは、博人だけ。
「初めて会った時」淡々と、鬼一は言葉を選ぶように紡ぐ。
「私は驚いた。これ程の闘気を溜め込む事が出来る子どもがいるものかと、な。鬼でも憑いているのかと疑ったが、どうも違う。身体の中に莫大な空間が広がっているかのような感じだ」
月は初めて会った時、何を感じ取ったのだろうか。ふとそんな事が頭に浮かんだ。月と再会してから、沙夜と戦うまでの間、碧や舞香はどこか自分を避けるようにしていた。それはやはり、一真の中に得体の知れない何かを感じ取ったからだろう。
月の母である蒼とは、殆ど言葉を交わした事が無かったが、どこかこちらを気遣うようだったのを覚えている。刀真に関しては、今も昔もあまり月に近づけさせたくないというような言動を取るが、恐れられているような感覚は、少なくとも今はしない。
だが、月は……。
「少なくとも、出会いは偶然だ。何のことは無い。お前の親父さんは出来るだけ厳しい場所に、息子を放り込んでしごいて貰おうと考えていた。それでウチの評判を聞きつけたというのは、ある意味必然と言えば必然か。ともかく、私は何も働きかけはしておらん。父が決し、息子は意を固めた。『ここでつよくなる』と」
当時の自分は何故、そこまで『つよくなる』ことにこだわっていたのだろうかと今更ながらに疑問に思う。『内なる幽暗』が、そこに溜め込んだ闇が自分を急き立てたのだろうか。
――何の為に
猛獣のような野生的な本能か。今でこそ、護りたい人がいるからこそ強くなろうと、自分自身のこの厄介な力を抑える為にこそ強くなろうと、一真は決意を固める事が出来ている。
だが、だから野性的な本能が一切ないのだと、果たして誰に分かるだろう。ただただ、月や神社の人達にもたれ掛り、彼らを護るという大義名分を掲げて自己満足しているのではないか。
今朝にしてもそう。一真の視線は、自然制服の内ポケットに入れた折り紙に向けられた。
月だけではない。神社の皆から一真は助けてもらっている。それに甘えてばかりいるのではないかと問われれば、否定は出来ない。
――俺は、皆から何かしてもらえるような人間か?
そんな一真の心中の葛藤には気づいているのか、いないのか、鬼一はフッとその頃を思い出すように、可愛い子どもを見て思わず漏れたというような笑みを浮かべた。
「五歳児の言う強くなる等、当てにはならんと思ったのだがな。中々、お前は強情だった。素振りにも、ひたすら摺り足と踏込をするだけの練習にも耐えた。そこで、私はお前を鍛える事を決めたのだ。だが……」と、鬼一は笑みを消した。我に返ったように一真を見る。
「長話が過ぎたな。どうにも年を取ると駄目だ」
鬼一は顎で、鞄をしゃくった。碧に先程手渡した鞄だ。
「お、退屈な想い出話もこれで終わりかぁ?」
天が笑いながら茶化した。相棒の変わらない態度が、今は少し嬉しい。
「さて、お前には仕事があるんだったな。先程の戦いぶりから、物の怪が来ようとも多少は持ち堪えられるだろう事は分かった。学校内を案内してやるから、来い」
「あ、碧達は?」
「もうとっくに、校内を調査しているところだ。ま、これまで通り何も見つからないだろうがな」
自分よりも遥かに腕の立つ陰陽師達が探しても見つけられない。その怪異の元を自分が見つける等、果たして出来るのだろうか。今更ながら、一真は思った。碧いわく、この怪異は人為的なものであり、一真は学園内にある違和感を見つけさえすればいいとの事だが。
「俺が探しても、それは変わらないんじゃ?」不安が思わず、口を突いて出た。途端、師匠の目の色が変わる。
「ほほう」
「あ……」
――やべ
一真はぎくりと肩を震わせた。師匠は怒っているわけではない。だが、例えば怒鳴られるとかされる方がまだ、気分としては楽な方だろう。
重力が一気に強くなったかのような圧力を、一真は鬼一から感じ取っていた。手足が金縛りにあったかのように強張る。
失言であった事にはすぐに気が付いたが、それをすぐさま撤回させてくれるような雰囲気すらも、鬼一は与えてくれない。
「自信が無いのであれば、今すぐ帰っても構わないぞ?」
「い、いえ、大丈夫です!! すみません、ちょっと不安になっただけで……」
だが、この師はその具体性のない不安をこそ、嫌う。ただただ、今為すべき事のみに集中する。他の要素も、未来に何が起きるかさえも考えない。
直感を信じるタイプかと聞かれれば、そうだが、そこには合理的な思考も含まれている。
「二つの大怪異の解決に貢献したお前が、何一つ掴めない等という事があるとは思えんな……。そしてこれは、一番重要なことだが、陰陽寮は“表立った介入”は出来ない。その代りとして、碧は“お前”を選んだ。お前は、自分が陰陽寮の陰陽師と同じ責任を負っているという自覚くらいは持った方が、お前を選んだ彼女の為でもあるのではないか?」
慰めや励まし等と言う生易しいものでは決してない。持てる実力は全て発揮しろと鬼一は要求してくる。昔からそうだった。手抜きを一切許さない。
そして、今は確かに甘い事を言っていられる状況で無い事を、一真は分かっていた。女子生徒が一人消えた。碧と舞香の仲が引き裂かれた。少女を現実の、陽の界に引き戻す事が出来るか、姉妹を彼女らの仲を元通りにさせる事が出来るのか。
それが、一真の手に掛かっているのかもしれない。
「すみませんでした。俺、やります」
師の答えは無い。やったかどうかは、結果でのみ判断される。上等と、一真は思う。
「……約束は果たす」
願いは果たして言霊と成りうるか。元師弟である二人は、何事も無かったかのように朝日を受ける道場を後にした。




