七
大臣の執務室という想像は決して大袈裟ではなかったかもしれないと一真は思う。床に広がるのは朱色のカーペット、応接用のクリーム色のソファは、いかにも座り心地が良さそうだ。壁際に置かれた本棚に綺麗に仕舞われた本はどれも分厚い。栃煌市や岡見学園の歴史に関する物であるらしい。
そして窓際に置かれた机。手元を照らす蛍光灯、万年筆や定規が仕舞われた小瓶、そして書類は種別に整頓されていた。建物の外観と同じだ。決して豪奢でも芸術的なのでも無い。この部屋には一切の無駄が無い。
咳払いが一つ。しばらく、部屋の中に気を取られていた一真だが、ようやく窓際に立つ老人の姿に気が付いた。灰色のスーツ、色素がすっかり抜け落ちた白髪に長い頭。背は高く、体つきも決して貧弱ではない。余分な肉はないが痩せすぎというわけでもない。
振り向いたその顔は、まるで彫刻の像に魂を吹き込んだかのようだ。厳格さで塗り固めた生きた像。どことなく狼を思わせる。
「来たか。碧、そしてそこにいるのが」と男は一真を見た。後ろに控える二人の女子生徒には目もくれない。
急に一真は服についたありとあらゆる埃を叩き落としたい衝動に駆られる。
いつもの制服姿は、月に一度クリーニングに出して、申し訳程度に汚れを落としはするものの、目の前の男の成りには到底及ばない。尤も、上等なスーツを着込んだ所で、釣り合うとも思えないが。この男が発する雰囲気は単なる着こなしから来るものではない。
「沖一真君か」
「はい、そうです」
問われたことに返すのだけで、精一杯だった。問い詰められたらすぐにでも、嘘が露見してしまいそうだ。いや、既にこちらの嘘を見破っているのではないか。そんな想像すらも浮かんだ。
大芝居を打って出る筈が、台本を忘れた大根役者のように一真が震えた、その時だった。
「話は聞いている。この学園で起きていると“一部で”噂されている“怪異”の調査に君のような者を送り込んでくるとは、真二は何を考えておるのか」
「いや、はい…………え?」
――今、なんて言った?
男もとい校長は、一真のその反応を何か勘違いしたらしい。それとは分からない程に、微かに眉間にしわを寄せ、不快を露わにした。
「貸し等、作る物ではないな。こうして付け入れられる隙を与えかねん。ここに怪異はない。この岡見の聖域に君のような者を入れて、こちらが得をする事等、一つとしてない」
話しぶりからして、彼は“陰陽師側”の人間なのだろうか。助けを求めるように碧の顔を見た。だが、碧はこれに答えるだけの余裕はないようだった。ぐっと決意を呑み込み、一歩前に出る。
「申し訳ありません、校長。しかしながら、ここ数日の我が校での奇妙な流行遊び、そして三日前の女子生徒の失踪と、怪異が絡んでいる可能性は高いのではないかと思いますが」
「あの失踪は単なる家出、若者の一時の迷いだ。今、式を発して探させておる。問題は何もあらんよ」
――式……式神のことか
やはり、この爺さん……と一真は思う。だが、同時に納得もする。畏敬の念を思わず抱いてしまうほどに圧倒的な雰囲気を放つ、その力がどこかから来るものなのか。
碧は苛立ちを仄かに込めながら、早口に切り返す。
「私の妹、舞香はここで敵意のある式神を見たと言っております。人為的な怪異の可能性だって……」
「その妹は、今どこにおるのかね?」
碧は勢いのまま、固まった。震える口から言葉は出ない。昨日、妹にしでかした事を思い出したのか、満足に答える事も出来ず、そんな彼女に対して更に校長は追い打ちを掛けようと口を開く。
「やめてください」
一真が一歩前に出て言った。碧が驚いて視線で引き留めようとしたが、一真は止まらなかった。
更に一歩前に足を踏み出す。口調こそ丁寧だが、それだけだ。彼は引き下がるつもりはこれっぽちも無かった。
「今日一日で構いません。俺……私をここに置いてください。それで怪異の兆候を見つけられなければ二度と来ません。ただし――もしも、見つける事が出来たら」
言葉を区切る。わざと間を空けたみたが、そこは腐っても校長、教職に就く者と言うべきか、答えが出るまで忍耐強く待つ。仕方なく、一真は訊ねた。
「出来たら、校長先生はどうされます?」
「……、君が望む物をやろう」
一拍置いて答えた校長の口元には、微笑が浮かんでいた。表情は相変わらず読めないが、一真はそれを挑発と見てとる。だが、その意味を此方が噛みしめる頃には、彼は口を開き別の話題へと転換している。
「そうそう、君に会いたいという男がいる。君が一体何を調べるのかは知らないが、知人に会っていくだけの時間の余裕はあるのではないかね?」
「誰です……?」
男ということは、生徒ではない。教師だろうか。だが、いくら頭の記憶のリストを遡ってみても岡見学園に縁のある男の知人は、浮かんでこなかった。そもそも岡見学園自体に関わった事が無いのだから当然と言えば当然か。
「会えば分かる。武道場で君を待っているぞ」
「武道場……」
一真が経験のある武道と言えば、剣道しかない。そしてその中で、いい意味でも悪い意味でも深い関係のある男と言えば、ほぼ一人しか浮かばない。後ろめたさとも嫌悪ともつかない複雑怪奇な感情が、確信と共に流れ込んでくる。
「一真……?」
碧が後ろから心配そうな視線を送ってくる。今の自分はどんな顔をしているのだろう、一真の口元には引き攣った笑みが浮かんだ。
――碧の事をとやかく言う権利はないな、こりゃ
その男の名を一真は呟く。
「……鬼一眼徹先生」
「ほう、憶えているではないか」
世間話のように語る校長に、一真は苦虫を噛み潰した。この男に分かる筈がない。いや、一真の表情から、余程会いたくない人物なのだろうと察する程度はできるだろう。
――重く鋭い一撃一撃、「次」が全く掴めない恐ろしさ
かつて別れた生徒と対峙し、鬼一は何を話すつもりなのだろうか。いや、話などせずに問答無用で叩き伏せてくるかもしれない。一真にとっては、試合中もそれ以外も全て同じだ。緊張の連続であり、同時に自身の無力さを思い知らされる存在。
――それが嫌で逃げ出した
その後、校長と碧が二、三、言葉を交わし、一真達は校長室を出た。そして、武道場へと案内されるまでの間も一真は一言も発さずにいた。断首台に引っ立てられていく罪人の如く、絶望のオーラを放つ一真に少女達は、顔を見合わせた。
「その、大丈夫?」
碧が皆を代表して訊ねると、カクカクと一真は頷いた。全然大丈夫ではない。碧はそう判断してか、はぁと溜息をついた。
「鬼一先生とは、いつからの知り合いなの?」
「…………、五歳位からかな。道場で剣道をずっと教えて貰っていたけど、中学の時に辞めた」
その道場自体も、一真が辞めてから一週間程で畳まれた。元々、習う生徒が少ないせいもあっての事だが、自分が抜けたせいで無くなったのかもしれないと思うと、後ろめたい。だが、たとえ「お前がいなくなれば、この道場は無くなる」と脅されても、当時の自分は辞めていたかもしれない。
――常盤さんに……佐保、彰は恨んでいるだろうなぁ
憧れの先輩に、幼い頃から一緒だった悪友。その三人とも、今では連絡が付かない。
「そう……、まさか二人が知り合いだったなんて」
碧の言葉に引っ掛かりを覚えて、一真はふと現実に引き戻される。
「なんだ? あの人がどうかしたのか?」
訊ねてから、一真は少女三人の顔に全く同じ表情が浮かんでいるのに、気が付いた。
「あのですね、一真さん。鬼一先生は――」と神楽が切り出そうとして息を呑んだ。
「私がどうかしたかね?」
振り向いたその先――鬼一眼徹は、一真の記憶の通りの姿のまま、そこにいた。
†††
しとしとと降り続く雨の日の事だったと、一真は記憶している。中学生活も残り一年。鬼一が師範の道場は、やたらと厳しい事で近所では有名だった。それは体力的な面でも、精神的な面でもだ。強いか弱いか。それが第一であり、弱い者は師範の相手にもされない等という事はしょっちゅうだった。その方針のせいで、生徒の大半は入っても長続きがしなかった。一真等よりも余程強い者でさえもだ。
今にして思えば、何故あそこまで長い間、続けられたのか、一真は自分でも分からない。お前は我だけは強いと師匠には言われ続けたが――
その日は、市の剣道大会その出場者を決めようという事になった。
そこで一真は選ばれなかった。出場者に、ではない。出場者を決める為の道場内での試合に、である。
――今のお前じゃ道場内の誰にも適わんよ。私であれば竹刀なんぞ使わずに勝てる
そう言われたので、竹刀で叩きに掛かった。愚かの一言で済む話ではないが、結果は更に惨めだった。師は、素手で竹刀を受け流して取り上げた。
――言った通りだったろう?
悔しさの余り、道場を飛び出し、それから二度と顔を合わせる事は無かった。
――今日この日までは
†††
時が巻き戻るのは一瞬、その合間に、この師匠であれば一体何本の突きを入れる事が出来たであろうか。あの頃とは比べものにならないくらい強くはなったつもりだが、この男を前にして、身固めを全身に施したとしても勝てる気がしない。
背は180を超えているだろうか。白の混じった黒髪は獣の尾のように長く、頭の後ろでぞんざいに結ばれている。顔は細長く、眼は虎――それも群れの長――のようだ。常に戦いを求めるような血に飢えた猛獣ではない。この男は、そんな所構わず戦いを吹っ掛けるような安い矜持は持ち合わせていない。
戦わずしても伝わってくる。どんな敵にも打ち勝つ強さと、常に相手の上に立つ気高さで以て、己という存在を固めている。
引き締まった筋肉を覆うように着込んだ剣道着を朝日に輝かせながら、鬼一は歩み寄った。
「遅いから、てっきり校長の厭味たっぷりの長話でも聞かされているのかと思ったぞ」
一同の中でも、いち早く我に返った碧が咎めた。
「鬼一先生、それは言い過ぎです」
「ふむ、別に君のお爺様の悪口を言ったつもりはない。彼の日頃の行いから推測した事を述べたまでだ」
相変わらず口が悪いと、懐かしくも背筋が凍りつく感覚に襲われつつ思う。だが、それ以上に今の言葉の中には聞きのがし難い事実があった。
「え、あの人が碧の爺さん?」
「吉備影津……、吉備って苗字の時点で大体察しはついてたと思ってたのに」
「……え、あぁ、そうなんだ」
岡見学園の校長の名前等いちいち見ていなかった。そう言えば、ますます呆れられるだろうと思い一真は曖昧に笑って誤魔化した。それにしても、事前に教えてくれればいいものをとも思う。
「吉備影津、陰陽寮の重鎮の一人にして、岡見女子学園の二代目校長」
経歴を上げてから、鬼一はフンと鼻を鳴らした。
「厭味の一つや二つ、私だって言いたくなるとも。自分の学園で怪異が起きている等とは認めたくないが為に、陰陽寮の調査を拒み、挙句妥協案で半端者を入れる等、お粗末としか言いようがない」
びくりと少女達は委縮した。あの碧でさえも顔が強張っている。一方、一真はその口の悪さに散々鍛えられてきたおかげか、思った程のショックは受けていない。そもそも、この男の真に恐ろしいところは、その減らぬ口の達者さではない。
碧が校長に臨んだ時と同じく、一真は勇気を絞り出して訊ねた。
「先生、あなたは一体――」
「久々に会って挨拶も無しに質問か……ま、それも仕方がないが」
遮られて一真は黙り込んだ。久々と鬼一は言ったが、どうにも久々な気がしない。つい昨日別れたばかりのように、その態度には変化が無くブレも無い。ゆえにどう反応を示せばいいのかが分からない。おまけに話の流れからすると、この元師匠は、陰陽師であるのかもしれないと来た。
人間というのは、斜め上から来る衝撃に対しては反応が鈍るものらしい。碧は何故こんな重大な事を先に言ってくれなかったのだろうと思う。尤も、言ったら言ったで一真は「言わないでくれれば良かったのに」と思ったであろうが。
「はじめに言っておくが、私は陰陽寮の陰陽師ではない。霊剣使霊剣の使い手……というよりも、それにしか能が無い術士と言ったところか」
謙遜にしてはあまりに堂々としていて、どちらかと言うと挑戦的と言った方がいいか。剣の腕だけで、陰陽師と張り合えると暗に主張しているようにも見えた。そして、実際この男ならば、それが出来ても不思議では無さそうだと、一真は畏敬の念を込めて思う。細かい事を色々と聞きたかったが、それを言い出すよりも先に、鋭い言葉の刃が飛ぶ。
「それで、一真。お前は一体何だ?」
唐突に質問を返され、一真は息が止まりそうになるのを必死にこらえる。そうして、訊ねられた質問を冷静に頭の中でかみ砕いた。
――何だって……言われても
答えは出なかった。元不肖の弟子のそんな反応も予想済みであったのだろう。鬼一は答えを待たずして、手を一真の目の前に持ち上げ、人差し指を突き出した。
「巫女殺しの怪を解決し」そして、中指を「魂呼ばいの怪を解決し」更に薬指を上げ「その他小さな怪異を幾つかこの一か月で解決するのを手伝った」一真がこの一か月してきた事を無味乾燥に列挙する。
「という評判を私は聞いた。だが、そこで一つの疑問が浮かぶ」
眉唾物の武勇談でしかないと、その言葉の裏からひしひしと伝わり、それでも一真は何も言わなかった。認められようが認められまいが、師の語った事は、事実だ。人にどう見られているかどうか等と言う――今にして思えば馬鹿馬鹿しい――悩みは、月と共にあるという決意をした時から消失している。
「噂を運ぶ者は誰一人として、お前自身が何者なのかを知らなかった。お前自身は自分が何者であるかを、知っているのだろうか?」
「俺は……」
何者か。そんな事を問われても困った。陰陽師か? それとも師匠のような霊剣使とやらになるのか? 恐らくこの意地の悪い師匠は、どこに分類されるのかを聞いているのではないだろう。一真が問いかけたような事とは違う。
何故、そんな事をしてきたのか。何故、ここにいるのか。
「……碧の、舞香の友達としてここにいます」
余りにも幼いと思った。誰に言われるまでもなく、それは自分が良く分かっている。当然失笑されると覚悟していたが、鬼一は「ほぅ」とむしろ感心したような――聞きようによっては呆れているようにも聞こえる――声を漏らしただけだった。そして、何を考えたのかこちらが掴む間もなく背を向け、肩越しに命じた。
「ついてこい。久々に稽古つけてやる」




