序
細い細い雨が、世界を濡らし行く。世界を優しく包む恵みの雫で彼女は踊る。
水無月も、もうすぐ終わろうかと言うその日は、一日中薄い霧雨が降り注いでいた。人間は、雨を避けあるいはいかにして防ぐかに腐心してきたと、彼女は思う。雨に趣があると感じる人間よりも、鬱陶しいものと考える人間の方が多いのが現実。
世界をちょっと上の所から見下ろしてみれば、それは分かることだった。人はどうして、いつも何かに急き立てられるように、動くのだろう。彼らは何かしらの法則に縛られ動き続ける。まるで機械の歯車のように。いつ頃からか、彼女の中で生まれた疑問は今もなお廻り続け、辿りつく事が無い。季節の流れがどこかに辿りつくわけではないように。
幾つもの雫が波の如く寄せては、揺れる髪を濡らして、銀に染める。ハラハラと舞う葉が衣の袖に付いて、大地に根付く大木の記憶を描く。気まぐれに吹く風の音が、風に舞い上げられては落ちる石や木が、鼓笛代わり。この舞に規則性は無かった。意味も無い。ただただ、自然の霊気に身を任せて、踊り続ける。
一人きりの舞台に、一人の乱入者が舞い降りる。
「やあ、混ぜてよ」
それは一人の少女だった。真っ赤な、肩に掛かる程の髪、橙色の衣に、朱の色の袴。人の姿で現れたが、彼女には分かっていた。彼女が人為らざる者である事を。かつては、霊鳥の長であった者であることを。
「踊りたいと? あなたは太陽に向け羽ばたいていた方が、お似合いですよ。鳳凰殿。ここは地上、あなたにとっては狭すぎやしませんこと?」
「地上は地上で退屈しないなーなんて、最近は思っているよー」
鳳凰殿と呼ばれた少女が舞う。手にはいつの間に握られていたのか、真っ赤な扇。扇を広げ、くるりと廻る。たったそれだけで、彼女を中心に風が舞う。
「そういうことではありませんわ。私が躍ってたのにー……」
子どものように頬を膨らませ、それでも舞うのを止めない彼女に、赤い髪の少女――あるいは、式神は笑う。
「いいじゃん、そろそろ見納めだなーっと思っていた頃だし。春が終わるのが嫌で、舞っていたんでしょ? 春霞のお姫さん」
「うぐ……」
春霞の姫君は呻いた。少女は、寂しいなら付き合ってあげるよと言った。姫君は、季節を司る自然神の加護を受けし巫女。春が終われば、夏、夏が終われば秋、秋が終われば、冬、冬が終われば春と、季節を告げし巫女である。
とはいえ、彼女自身はあくまでも人間だった。季節でどれが好きと聞かれれば真っ先に、春と答えてしまうそんな少女だった。
「もうすぐ、水無月も終わって、次は夏木立のお姫さんになるんだよねー。陰暦だったらとっくに夏だけど」
「い、言わないでくださいまし。夏は暑いし、汗がべっとりとして、それはもう……嫌いです」
「素直なのは、良い事だよ」
うんうんと頷く少女に、春霞の姫君は首を捻る。なんでこの元は霊鳥の長だった少女は、こんなにもお気楽なんだろうと勘考してみたが、分からない。千年も生きていると感覚はかえって柔軟になるのかもしれないくらいに思っておけばよいかとすら思う。
――千年
悠久の時を過ぎて、彼女の心の何がそんなに地上に惹きつけられるのだろうと思う。同時に彼女のその奔放さを、姫は羨みもする。
春は霞にと
夏は木立にと
秋は紅葉にと
冬は白雪にと
世界を染め上げる。それが四季の神々より受けし役目。受けし呪縛は、「土地への束縛」物理的に束縛されるわけではない。役目と持つ力によってこの地に縛られる。姫の不満の大きなところはそこに集約される。
この霊鳥にはそれがない。否、この世界の殆どの人間が、自分とは違う。こんな役目を持った人間が他にどれだけいる?
――何故なんだろう
この霊鳥は知っているのだろうか。さて、とはぐらかされるだろうなと、思いつつ尋ねる。
「ねぇ」
「ん? 何、春霞のお姫様」
「……その呼び名はやめてちょうだい。表向きはただの女子高生なんですから」
紅葉はまだ先だというのに、少女は季節外れにも頬を赤く染めた。しかし、それをからかう様子は式神にはない。少女が何を言おうとしているのか、それを悟っているかのようだった。返すべき言葉も、この質問が何を齎すのかも分かっているに違いない。
そして、それを理解した上でそれでも、聞かずにはいられない少女の気持ちも。たぶん、千年もの間、少女が発するような疑問を何度も何度も受けてきたに違いない。自分自身でもしてきたのかもしれない。
「なんで、選ばれたのが私だったのかな?」
式神は答えなかった。たぶん、これまでも何度もそうしてきたのかもしれない。答えないという選択肢を。答えられないのではないと、少女は直観する。多分、自分は答える為の条件すら満たしていないのかもしれない。あるいは自分で見つけろということか、あるいは……、
「考えすぎ」
式神はそう一言。何の事を指しているのか分からず少女は、やはり考え込んでしまう。
ただ、いくら悩んでも、答えが出ようと出まいと――少女は踊る。それが役目だから。
雨はしばらくやまなかった。




