終 そして夢より醒める
†††
「で、今日はまたどうして、こうなったんだ?」
栃煌神社の境内。ミズナの大木が気持ちの良い風を運ぶ早朝。いつもであれば碧との鍛錬をしている時間だが、昨日の戦いで受けた傷の治療に専念すべく身体を休めていた。
身固め〈内丹〉を多用した反動が大きい。その事を一真は隠そうとしたが、碧は一瞬で見抜いた。一真があくまでも誤魔化そうとすると、体術を仕掛けられ、具体的に体のどこが損傷を受けているかを懇切丁寧に“体に”教え込んでくれた。おかげで、どこが痛いのかは分かったが、怪我が悪化した。
余談はさておき、今は目の前に差し出された弁当箱である。そこにあるのは、真っ白な卵が所狭しと突き詰められていた。熱湯の滾る鍋の底から掬い出されて間もない卵達は、その殻を白くつるっと輝かせていた。
「私、自分の過ちに気が付いたの。“黄身返し卵”あれは間違いだった」
巫女装束の幼馴染はそんな事を言って弁当箱を突き出した。その口ぶりはまるで、有能な化学者か何かのそれ。実験によって破壊力抜群な兵器作ったけど、あれは間違いだったのだーとそんなノリである。
誤解が無いように今一度確認するが黄身返し卵も、黄身と白身が入れ替わっただけのただのゆで卵である。見た目にインパクトがあると言う程度の違いしかない。ゲームで喩えるならば、出てきた敵のモンスターの色が普段と違うとかそんな程度の違いしかない。
詰まる所、目の前にあるのはゆで卵である事に相違ないのだが、だからどうしたと、いうのか。
「そもそも、卵の白身と黄身をひっくり返すなんて世界の摂理に反する事したのが、間違いだったの!」
世界の摂理と来たか。月にとっては太陽の日の出と沈みを逆転させてしまったくらい重要な事らしい。イースターの卵なんか見せたら一体、どんな反応を示すのだろうと一真はふと想像し、吹き出しそうになる。ただ、彼女が本当に心配しているのは、卵の中身と外の色の事ではない。
「私が普通のゆで卵を食べさせていれば、一真の人格が引っ繰り返るなんてことは起きなかった……」
「いや、待て。あの黄身と白身が引っ繰り返っていたやつなら、俺以外にも食べてたぞ。特に彩弓とか」
「うぅ……、いいから食べて!!」
キスできそうなくらいに弁当箱を近づけられて、一真は仕方なく受け取った。因みにここにいるのは月と一真の二人だけではない。外野が大勢いた。が、皆二人のやり取りが楽しいのか、さっきから一言も言わない。ミズナの木の横では、退屈そうに白虎が欠伸を噛みしめていた。
「見てないで、手伝ってくれよ……これ、全部俺で食べるのは無理だぞ……」
「あぁ……、見ていた方が楽しいし、のう?」
海馬が同意を求めると、碧と舞香が無言で頷き、彩弓はぴょこんと跳ねた。
「それ、私も食べる!」
「あ、駄目! これは一真に憑いている魔を払う為に作ったもので……」
「待て、ゆで卵はいつから魔除けの道具になったんだ」
空中を廻る弁当箱から、卵を一つ掴み彩弓の手に渡す。月がむすっと頬を膨らますのを見て、一真は気苦労に満ちた溜息を吐いた。
「別にいいだろ。卵くらい」
「ぐぐっ……卵を取られたのが悔しいわけじゃない」
「あ、じゃあ私も貰うわね」
ひょいと後ろから手が伸びて、ゆで卵が攫われていく。あー! と嘆く月に黒髪ポニーテールの少女はニコリと笑い、殻を剥いた。
「未来、もう大丈夫なのか?」
「ご心配なく。てか、私としてはあんたがそんなにピンピンしている方が、不自然に見えるんですけど」
いや、全く大丈夫じゃないのだが、と一真は心の底で返す。普通に生活する分には支障ないが、傷は時々、思い出したように痛み出すのが厄介だった。
だが、それを言うなら未来は未来で相当の無茶をしたのだ。あの夜、彩弓と共に一真の内なる幽暗に入り込んだ彼女だが、その直後、意識を失った。栃煌神社に戻り、碧の霊薬によってなんとか、事なきを得たのだが……。
「いやはや、あれは生きた心地がしなかったよ、永田さん。一真君を助けると言い出して、何事かと思う間もなく、気を失っているのだもの」
宿坊の方から、笹井城阪が、歩いてくる。その身なりは最初に会った時とは違い、清潔なシャツとスーツを着込み、それと何故か伊達眼鏡、キャリーケースを引いていた。大雑把だった髪や髭は散髪屋にカットしてもらい、整えられている。身形でこんなにも印象が変わるのものかと、一真は驚く。
最初に見せた弱弱しさなど微塵も感じられない。尤も、あれだけ異常な状況を切り抜けられたのだから、精神的にタフとなっていても不思議ではないのだが。
未来が無駄と知りつつも、尋ねる。
「行くんですか。やっぱり」
「あぁ。ネタも仕入れたしね。あぁ、後。あの音声の部分だけど、名前の出ているところはすべて編集でカットするから、安心してください。公には出さない」
オカルト関連の記事を書く事を生業とする彼の、次の目的地は京都だという。もしや、そこにあるという現陰陽寮の事でも取材するつもりなのだろうかと、一真は勘繰ったが、あえて聞かないことにした。
「そっかぁ。ちょっと残念。面白い怪談を色々聞けると思ったのに」
「いやまて、未来。お前、そういうの苦……なんでもありません」
ぎろりと睨まれ、一真は委縮した。未来は昨日の一件で見違える程に強い精神を持ったと思う。が、それでも根本的な「怖がり」な性格は矯正されていない。昨日の夜、霊薬で目が覚めた後は大変だった。夜も遅いしそのまま一真や彩弓、笹井と共に泊まろうということになったのだが、未来は障子に何か映っていると言っては一真を起こし、何か物音が聞こえると言っては、一真を起こし……おかげで一真は傷も癒えないのに加えて目の下にくまを作る羽目になった。
「ま、それは雑誌を見ていただければよいかと。あぁ……気がかりがひとつ、彩弓ちゃんの今後はどうなります?」
この質問は一真達にというよりも、海馬に向けられたものだった。一真もそこは気になっていた。彼女は今のところ、どこの誰の『家族』なのだろうか。
「彼女の身柄は今のところ、現陰陽寮お預かりとなっとる。まぁ、非公式やけどな」
それは安堵していいのか、一真は少し不安だった。が、月が大丈夫というように微笑んで、ゆで卵を一真の手に押し付ける。ひとまずは安心かと一真は思いつつ、殻を剥いた。
「でまぁ、これはまだ仮の話やけど、吉備の家の養女とする話が出ておる」
これには一真だけでなく、碧と舞香の姉妹も驚いた。寝耳に水の話だったらしく、二人は腰を浮かせた。
「えぇ!? つまり、私に妹ができるの?」
舞香が素っ頓狂な声を出した。突然、妹が出来る等と言われ、いつもはマイペースな彼女も流石に動転している。
「そういうことやな」
海馬が事も無げに言う。碧は無邪気に首を傾げる彩弓に戸惑いつつも、食い下がった。
「突然、そんな事を言われても……」
「お前さんらが作っとる霊薬は、彩弓の持つ力を抑えることが出来る。好都合やろ」
「都合の良し悪しでそんな重大な事を。彼女の将来を左右するかもしれないのに」
碧の責任感の強さを、一真は素直に尊敬した。彼女は本気で彩弓の事を心配している。だが、同時にその心配の裏には自分自身への自信の無さもあるのかもしれない。彼女を家族として受け入れられるのか。或いは本当の家族と彩弓が認めてくれるかどうか。
困った海馬がふと彩弓を見た。 困った海馬がふと彩弓を見た。彼女は必死な顔で一同を見回した。緊張に満ちた声でそれでも彼女は訴える。
「その、えっと……彩弓はいつも誰かに家族を決められてけど」
拙いながらも、つっかえながらも、彼女は自分の言葉で自分の意思を伝えようとする。
「それが普通なんだって思っていたけど。だけど、今度はちゃんと自分で決めたい。それで、それでね、家族になれるかは分かんないけど、私この神社のみんなと一緒にいたい」
彩弓の必死の言葉は、吉備姉妹の心にも響いたようだ。碧の固かった表情は解れ、普段は決して見せないような優しい笑みが浮かび、舞香は満面の笑みを浮かべて彩弓を抱きしめ――
「という事で、ひとつ、よろしゅう」
――海馬の余計な一言で、台無しになった。
女性陣の冷たい瞳によるオールレンジ攻撃を受けて、海馬は後ずさる。
「え、なんでぇ?! 今、いい雰囲気やったのに!! ま、待て碧!」
蛟が一匹。どこからともなく飛び出して、海馬を襲った。それを紙一重で避けるのは流石は白虎と言ったところではあるが、威厳はまるでない。
「やれやれ、儂が“知恵”をいくら授けても、この体たらくでは名が泣くぞ」
白虎がのしのしと歩み寄って来て告げた。どうでもいいが、今この時に参拝客でも来たらとんでもない騒ぎになるのではと一真は思う。
「うっさい! 女心の掴み方の“知恵”を、授かった覚えはないで!!」
言い争う一人と一匹に、呆れ碧は蛟を引っ込めた。何はともあれ、彩弓をこの神社で預かる事に関しての異存は消えたようだ。舞香と彩弓がすっかりじゃれ合う様子を見て、未来は安心と落胆が入り混じった表情になる。一真は聞くべきか迷いつつも尋ねる。
「なんだ? 寂しいのか?」
「う……うっさいわね。そりゃ、確かにちょっと心のどこかで期待はしちゃってたわよ? 私、妹って存在に憧れていたし」
既に妹のいる一真としては、その憧れが具体的に分からない。ふと、月も一人娘だよなと思い、「そういうものなのか?」と尋ねた。
「んー、私はそんなに」「それよりも夫という存在の方が数千倍は憧れ」
月の声に被せるようにして、日向がいたって真面目な口調で告げた。びくっと月の肩が震える。一真はじりっと後ずさった。聞きつけた未来の顔に、青い一つの筋が浮かんだ気がした。
「日向ぁ……」
「あ、おはよ、月! いやぁ、昨夜はきつかったよ。一真君が激しすぎて」
それ以上はやめろと、一真は彼女の口を縫いとめたい衝動に駆られる。月が鬼のような形相で彼女の体に手を入れた。
「ひぃい!! ま、待って月! 私まだ起きたばかり!!」
「おやすみなさい」
血も涙もなく、日向は一枚の護符と戻る。それを懐に収め、鬼のような形相を今度は一真へと向けた。
「で、日向と何があったの?」
「何も、ナイヨ」
嘘だー!! と月は一真の襟首を思いっきり締め上げた。それを碧と未来が引き剥がした。げほげほと咳き込む一真の背中を、笹井がハハハと笑いながら優しく叩いた。
「君も気苦労が絶えないね」
「えぇ、本……そんなことないです」
涙目で睨む月に気圧されて、一真は慌てて本音を飲み込んだ。笹井は含んだ笑みを浮かべ、それから神社にいる全員の顔を温かな表情で見回した。
「ここにいる人達なら、安心して彩弓を任せられると思う。助けておいて、最後は人任せってのは、何とも心苦しいけども」
「そんなことないです。笹井さんが助けてくれなかったら、今も彩弓はあの神社に囚われていたかもしれない。そうでなくても、とても大切な物を失っていたかもしれません」
未来の言葉に、笹井はありがとうと目を細める。キャリースーツから手を離し、彩弓の前で屈み、彼女の肩に優しく手を置いた。
「元気で」ただ一言。その手を握り返し、彩弓は花の咲いた笑みを返す。
「うん。また会おうね」
「また何かの縁があれば、それも叶うだろうね」
それでは、と笹井は立ち上がり会釈し、神社を背にして歩き出す。旅立ちを祝すように、鳥居から差し込む日の光が照らし出すその姿を、一真はいつまでも眺めていた。
†††
笹井が行ったそのすぐ後、海馬もまた神社を出た。「俺は嫌われ者みたいやからな」と苦笑交じりに一真に耳打ちしたが、一真はそうではないと思う。海馬は彼が思っているよりも慕われている。
碧の言動や行動が厳しいのは彼女自身の性格による所だし、彩弓が吉備家の養女になると告げられて、驚きはしたもののそれは決して、嫌悪ゆえの事ではない。むしろ彼女達は喜んでいた。
上に立つ者であるが為に、下の人間から負の感情をぶつけられる事が多いのかもしれない。だが、そうなのだとしても彼には皆の正直な気持ちを読み取って欲しいと思う。
「お待たせ、一真」
未来が宿坊の方から走ってきた。月から私服を借りて着替えた彼女は、デニムシャツのワンピースで春らしい感じが出ていた。
「巫女の服しか持ってないのかと思ってたら、意外といい服持ってたわね。お母さんが買ってくれるそうだけど」
「そりゃ、巫女装束ばっかってわけじゃないだろ」
流石に失礼というものだ。その月だが、また台所で何やら料理を作り始めたらしく、見送りには来ない。まぁ、一旦帰って花音に顔を見せるだけのつもりだから、それは良いのだが、問題は料理の方だ。一応碧達もついているので、卵しかないなんてことはないだろうが、卵があるのは「確定」だ。
鳥居をくぐり、石段を下り、そしていつもの道を歩いていると、一真は懐かしさすら覚える。ぼんやりと、青空を見上げていると、未来が唐突に切り出した。
「なんかね、私、月の事をどこか別次元の人間のように思ってたわ」
「そう思ってしまうのは仕方がないと言えば、仕方ないな」
なにせ、現代に生きる陰陽師なのだから。それも、占いが専門ではない、物の怪の退治を生業とする武闘派の陰陽師。別次元の人間というのは、そういう意味であれば間違いではない。
「でもさ、やっぱり女の子だよ。月は。うん」
一人納得し、頷く未来に一真は怪訝な顔になる。月と何か話したのだろうか。そういえば、常社神社で散り散りになった時、月は未来と一緒にいたらしい。その時に何かあったのだろうか。
「そこのところ、一真はちゃんと考えてる?」
「ちゃんとって……いや、それは」
返答に困る。月が“女の子”であることは分かっている。だが、だからといって何をしろと言うのだろう。
彼女の事は、確かに好きだ。それは変わらない。あの時に結んだ契りも破るつもりはない。けれども、未来が聞いているのはそういうこととも違うようだ。
未来のしびれが切れると同時に、質問の制限時間切れとなる。
「あぁ~だから、一真は一真なんだよ」
「どういうことだよ」
天を仰いで大袈裟に嘆く未来に一真は不機嫌になる。ただ、なんとなく分かる。未来が言わんとしていることが。
「ま、これだけは言っておくわ。優柔不断な男は、嫌われる。今はあんたの事好きでも、いつか離れて行っちゃうわよー?」
「ご忠告どうも」
初めて物の怪と遭遇した公園を過ぎ、分かれ道に差し掛かり、ようやくこの話題にも終止符を打つ事になる。
「あぁ、最後にもう一つ」
「手短に頼んだ」
りょーかいと未来はにやっと笑う。なんだろうと思わず身構える一真だったが、結果的にこれは無意味だった。未来が落としたその言葉は、身構えた所でどうにかなる類のものではなかった。
「私も一真の事が好き」
青空に鳴く鳥の声が、どこか遠くで聞こえた。思考が追い付かず、なんとかその言葉に答えようと口を開け閉めしたが、無駄な足掻きだった。
「……え?」
「だよね。うん。分かってる。あんたには月がいるわけで」
「いや、そういう事じゃなく――『いる』ってどういう意味だよ!?」
もはや混乱の極み。
――こ、これはいわゆる告白というやつなのか?!
が、よくある告白というのは――と言っても、それは漫画とかアニメの類の至極狭い知識の中から集めたものだが――顔を赤らめながらあったり、勢いにのって言ってしまったりとか、極限状態の所で言ったりだとか、そんなものだろうと、一真は思っていた。
そのいずれにも該当しない。未来はむしろさばさばとした調子で
「――なんてね。ほら、これが手本。あんたも休みが終わるまでに実行してみなさい。じゃあね!」
風のように去って行った。取り残された一真の横を、近所のおばさんが乗るママチャリが鈴の音を後に残しながら通り越していく。
――えっと、今のはつまりなんだったんだ? 手本? つまり、本気の告白ではなかった? 実行しろ? 誰に?
一気に高まる胸の動悸をどうにか抑え、一真は帰り道をとぼとぼと歩き出した。歩き出して、しかし、やはりさっき掛けられた言葉が頭から離れない。いや、告白が、ではない。月に対する自分の気持ち。
それをはっきりと示せと、未来は言っているのだと……思う。少なくとも、一真は今まで自分の気持ちを、良いか悪いかは別として、率直に月にぶつけてきたつもりだった。
――だけど、それじゃ足りない?
未来が示した手本は、古典的な告白。それこそが重要なのだと示した。だが、一真は彼女のように、さらりと言ってしまうこと等出来ない。それこそ、よくあるドラマの中の不器用な男のように。具体的に今までと何を変えればいいのかが、見当もつかない。
一真は歩く。一度家に戻って、それからまた神社へと赴く。そして、出来るならば、碧との稽古もしたい。月への告白は……出来ないだろう。未来には悪いが、この課題は一真には重すぎた。
――こうして、答えばかりを先延ばしにしていく
沙夜と対峙した時も、影夜との時も。
先延ばしにし、事実に目を瞑って。
だが、いずれ答えを出し、対峙しなければならない時が来る。彼らとは因縁を通じて繋がっているのだから。少なくとも、その覚悟だけを今は持とう。
空を舟のように大きな雲が流れていくのが見えた。風に乗って天を漕ぎ、やがて栃煌神社の向こうへと消えていった。
――そして、季節は巡る。
†††
京格子と瓦屋根の町家風民家が並ぶ下地区と昔ながらの茅葺きの農家が多い上地区で趣の異なった二つの地域の丁度、中間の辺りに一軒の茶店があった。
かつては出会い茶屋として栄えたという歴史を持つ店だが、今は特に男女が出会う為の場所というわけではなく、憩の場として栄えている。それでも、やたらとカップルが多く客としてくるのは、この茶屋の宿命なのか否か。
真相はさておき、この茶屋が出会いの場として昔より栄えてきたのは確かな事だ。一つ一つ仕切られた部屋と、たとえ聞かれてもまず広がる事のない街の人間の独特な気質。誰かとこっそり出会うのにこんなに最適な場所もないだろう。
その茶屋の一室をある一人の女性が借り切っていた。そこは茶屋の中でも特に奥の奥の方。
襖の仕切りは二つ。その奥の広い部屋で他の部屋と比べても、その忍びやかさは違う。豪奢さ自体は他の部屋とは大差ない。質素なテーブルに、座敷。他と違う所があるとすれば、壁に掛かった力強い作風の掛け軸がある事と、窓から見える景色の映え具合位なもの。それと掛かる料金の違いか。
ここを普段使うのは、政治家や芸能人、スポーツ選手等、あまり人目に触れずに、観光を楽しみたいという人々だ。ただ、その女性はそのどれでもない。当てはめるとすれば、芸能人の類に当たるだろうか。
身に着けているのは着物だというのは、一般人でも分かるだろう。金箔が施された白と朱の着物。朱色の部分には白の友禅、白の部分には朱の友禅模様が浮かんでいる。
腹の辺りは紫色の帯で、背筋から腰に掛けてのくびれを強調するように留められていた。ちらりと露出する肩に黒く艶やかな長い髪が垂れ、しかしその髪は決して無造作に散らばっているわけではなく、大部分は結われ頭の後ろに垂れている。肩に垂れているのは結いきれなかった或いは、あえてまとめなかったのか。
答は後者だ。肌の露出もその着こなしも全て計算尽くされた上で行われている。故に、品も良く、だがどこか奇抜な雰囲気もある。
奇抜な事を素で行ってなお美しい。それがこの女性の最大の魅力だった。テーブルに置かれているのは、この店でも評判な餡蜜クリームそれを盛っていた皿だった。数分前に食べ終え、彼女は退屈しのぎに本を開いていた。
『日本神話』この国の成り立ちを伝説という形で、纏めた書――ではなく、その神話の一部をモチーフにした劇の本だ。黙々と読み始め、天の岩戸を舞台にした話の半ばまで来たところで、襖がすっと開いた。一人の男が淡々と歩いてくる。彼女は気づいていたが、本に夢中だった為、顔を上げなかった。
男は黙って座敷に上がると、彼女に対面する形で座り、そしてテーブルの上にある物を置いた。それは灰色の細長い機器だった。
「中々、上手くやれたわね。初めてにしては」
「そう簡単に言わないでください。死ぬかと思いましたよ」
男は伊達眼鏡の奥で瞳を細め、彼女を微かに睨んだ。
「やり遂げると信じていたわよ。卜部にもそう出ていたし」
彼女の楽しげな言葉に男はフンと鼻を鳴らした。彼女がそのほっそりとして指で取ったのは、ボイスレコーダー。この中に彼女の望む物が入っている。男はただ、その声を取ってきただけで、それが実際何の役に立つのかは知らない。
「卜部で何でも分かるのでしたら、こんな手間を掛ける必要も無かったのでは?」
「卜部で何でも分かるわけじゃないから、こうして頼んだんじゃない。そりゃ、分からない事もあるわよ。例えば現陰陽寮がここまで出来る連中だったとか」
分からなかったと言いつつ、その事こそが楽しいのだと言わんばかりに、彼女は顔を綻ばせた。男にしてみれば、そんなことはどうでもいいのだろう。早々に自分の話題を切り出した。
「これで、あなたの言葉が信じるに値すると分かりましたよ」
「そう、なら協力して貰えるわよね。前に言っていた通り」
顔も上げず、彼女は聞いた。頼むという態度は微塵も見せない。男はそれを無礼だと咎めることもしなかった。短期間ではあるが、彼女のその気まぐれかつ奔放な性格は矯正のしようが無い事が分かっていたからだ。彼女といつも一緒に生活している者がいるとしたら、男は同情した事だろう。
男もまた、断りなく席を立ち、鷹揚に手を振って答える。
「あぁ、その時が来たら連絡ください。いつでも駆けつけますよ」
「あぁ、それから」
ふと思い出したように、彼女はその背を引き留めた。
「“回収”を終えた後、なんでさっさと逃げなかったの?」
男が振り向くと、彼女は顔を上げていた。本の内容に対する興味を上回るだけの興味はあるらしい。それを別段光栄とも思わず、男は伊達眼鏡を指で押し下げた。平凡な顔立ちだが、その眼の奥に宿る芯の強さは本物だ。
「あの娘に、自分を重ねでもした?」
何も言わない男に、彼女は痺れを切らして、そう訊ねた。実際、彼女にとっては、唐突に湧いて出た興味本位に過ぎない。さて、全部語って聞かせようかと男は思ったのかどうか、しかし、彼はこう言っただけだった。
「ご想像にお任せしましょう」
「そ、でも次からは困るわよ。命あっての物種なんだし。途中でバレたら水の泡」
彼女の興味はそこで尽きたらしい。瞬きの間に、本に視線が落ちている。やる気のない注意は、効果等ない。それを彼女は分かっているのだろうかというように、男は肩を竦めた。
「えぇ。私の復讐を果たすまでは、死にませんし、ヘマは起こしませんよ」聞いていないだろうと思いつつも、彼は答えた。自分の決意を添えて。
男が出て行った後もしばらく、彼女は本に没頭していた。文を目で追い、静寂の中で頁が捲られる音だけが聞こえるのみ。数分が経ち、首も痛くなってきたところでふと顔を上げる。目の前のボイスレコーダーを手に取った。
丁度、その頃店の外でも男がボイスレコーダーのスイッチを入れたところだった。
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笹井城阪の記録(余談)
――あれから二日の時が経った。あれとは、すなわち栃煌市で起きた怪異の事。詳しく説明する必要はないだろう。何しろ、これを聞くのはただ一人、私だけだからだ。或いは録音しても聞かないかもしれない。ただ、これから話すことや出来事を“消してしまう”つもりもない。それは私の信条に反する。
「真実を真実のままに伝える」それが私の信条。虚実を伝えるよりも、黙っていた方がましだ。だからこそ、私は栃煌神社の人達には黙っていた。いままでの記録の中でさえ一言もそれについては言及しなかった。不審に思った者がいないか、今でも少し不安だが……。
率直に言おう。私は偶然あの神社の噂を知り、偶然にして彩弓と出会ったわけではない。あそこに潜んでいるのが、何なのかを知らなかったわけでもない。しかし、それでも私が物の怪にも陰陽師達にも、疑いを掛けられなかったのは、単に私が「ただの人間」だったからに過ぎない。本物の怪異の経験との遭遇もこれが初めて。だから疑われなかった。
――だからこそ、私は雇われたのだ、あの人に
体よく利用されているのかもしれない。だが、構わない。
相手はこちらの心情など分かりもしない。だが、それがどうした。
これは最初から、私個人の問題。
時が満ちれば私の復讐は果たされる。後はどうなろうとも構わな――。
「本当にそう?」
――華胥之夢 終




