Calling
電話なんて、するんじゃなかった。
「……そっか。うん、……うん、…………それじゃ、また」
受話器のマークのボタンを押したら、長くて重いため息が出た。ケータイの終話ボタンはいっそ、ため息のスイッチかもしれない。そう思うぐらい、良いタイミングだった。
「ごめん、話してる途中に電話なんかして」
「ううん、大丈夫。それにしても、やたら、つまんなそうに電話するよねぇ」
有加は不思議そうな顔でこちらを見ながら、スミノフを傾けた。わが友ながら、いい飲みっぷりをしている。梅酒をひとくち飲んで、それに答えた。
「うん、最近長電話ができなくなってるんだよ。わざわざ電話してまで話すことって何だろう、って考えちゃう」
電話の利点。遠くに離れていても、相手の声を聞けて、自分の気持ちを声で伝えられること。たとえ相手の表情を見ることができなくても、声から「どんな風に感じているのか」をある程度知ることはできる。付き合いが長ければ、その話しぶりから察せられることは自然と多くなるのだ。
けれど、電話にだって欠点はある。電話をかけるタイミングが、とても難しいということだ。相手が見えないということは、電話で話せる状況にあるのかこちらから把握できない。
相手が忙しいときに電話をかけてしまった時は最低だと思う。「ごめん、また後にして」「邪魔してごめん」……謝罪だけを言い合う会話の、なんと味気ないことか。
もしかして、今忙しいときなのではないのか。コール音だけでイライラするほど、せっぱつまっていたりしたらどうしよう。なけなしの勇気を振り絞って通話ボタンを押しても、応答するのは留守番電話だったりするのが実情だ。
携帯電話が便利になって。電話と、メールと、連絡手段が増えた今では、電話は「今すぐじゃないと」という連絡手段のように思えて、妙に苦手意識が増した。
便利なものにむしろ不便さを感じる自分が、なんだか嫌だと思う。
「何でもいいんじゃないの?内容がなくても、楽しければそれで」
有加の言うことはもっともだ。付き合い始めたころは、他愛のない電話で幸せをかみ締めた。毎日、毎日。
今はなんだか苦しくて、息がつまる。
声なんて、聴くんじゃなかった。
「最近、電話するのがすごく辛い。電話するどころか、話すのさえ辛いよ。これって、何?って感じ」
「気まずいの?気持ちが薄れたとか遠のいたとか」
「別に、そんなんじゃない……と思う」
会えなければ純粋に寂しい。だからきっと、まだ好きなのだろう…と思うのはごまかしなのだろうか?
お互い忙しくて会えないのなら、会えないなりに連絡を取るべき。だからせめて、メールなんて味気ないものじゃなくて、声を聞きたかった。
声を聞いたら、安心すると思ったのだ。電話であれば、耳元でささやかれているような気分になれると期待した。それなのに電波はせっかくの声をいびつに潰して、的確にその声を伝えてはくれなくて。
がっかりしたら、何を話せばいいのかさえわからなくなった。
「向こうがすごく忙しいのをわかってて、無理させてると思うのも嫌なのに。どうして、電話なんてかけたんだろう」
気をつけて、とか。身体こわさないでね、とか。そんなありきたりの台詞を吐くために、わざわざ「今、大丈夫?」と話しかけたわけじゃない気がする。でも、だとしたら私は何を言いたくて、何を聞きたくて電話をかけたんだろう。
何を、しているんだろう。
しばらく沈黙を保って、有加は話し始めた。
「うちのサブマネージャー、部署内では恐妻家で通ってるんだけどさ」
「ああ、町田さん?あの忙しそうな人」
マネージャーが放り出した仕事を一手に請け負う、大変に忙しい身の上らしい。それに負けず明朗快活に振舞う、部署にはなくてはならない人なのだそうだ。
「毎日夜八時を過ぎるたびに、電話で奥さんに平謝りしてるのよ。そんなに謝り倒さなくても、っていうぐらい」
――ごめんなさい、今日もまた遅くなりそうです。ハイ。……え、『ママ』ってちゃんと喋ったの?!うわー………聞きたいんだけど…帰る時間帯には起きてないよなぁ、流石に。うん、うん、娘の寝顔しか見られない父親で、申し訳ないです。晩飯?軽く食べたけど、帰ってからしっかり食いたいかも。おかず余ってたら、残しといて。うん、ありがと。
「半年前に子供生まれたばっかりで、奥さんも大変なんだろうなって思うんだけど。毎日電話も大変だし、怒られてるわりに町田さんにこにこしてるもんだから。ふと気になって、ある日訊いたのね」
「町田さんって、Mでしたっけ」
「え?いや、俺は軽くSだよ?坂巻さんも知ってるでしょ」
「軽くじゃなくて……いえ何でもないですよ。奥さんに電話で怒られてにこにこしてるから、おかしいなぁって思っただけで」
「ああ、そのこと。仕事で怒りすぎて疲れてるから、少しだけ怒られてみるとなんだか新鮮でー」
「それってMのはじまりじゃないですか」
「確かに。…とまあ、冗談はさておき。向こうが怒ってるとさ、ああ寂しいんだなってわかるから、逆に安心するんだよね」
仕事とパートナーとどちらが大事かなんて、愚かな問いを投げかけるためでなく。
ただ寂しいと相手に伝えるために、発せられる表面的な怒り。
手段は怒りでなくても構わないはずだけれど。
わたしは感情を、伝える努力をしていた?
いつも、抑えるばかりで。
自分にも、相手にも、尚更寂しい思いをさせてはいなかった?
「だから、さ。たまには怒ってみても大丈夫なんじゃない?」
すごく遠回りでごめんね、と言いながら有加はキッチンに空き瓶を置きに行く。次は黒ビールがいいなぁ、あったっけ、と冷蔵庫をあさる音をよそに、美沙子は立ち上がる。
「ごめん、有加。買い物、来週でもいい?」
腕時計を一瞥する。水色好きだよねと選んでもらった、澄んだターコイズブルーの文字盤は、終電より三十分後の時刻を指していた。手早く帰り支度をする美沙子を見て、二丁目の交差点なら三分でタクシー捕まるよ、と有加は笑った。
電話で寂しいを伝えてみるのもいいだろう。きっと、嬉しそうにするだろう。
けれどその表情を見逃してしまうのは、とても勿体無い気がするから。
「――あ、もしもし?」
真夜中でもいい、会いに行こう。嬉しそうに細める目を、ちゃんと見届けに行く。
だから機械越しじゃないその声で、名前を呼んで。
(07/12/09~12/15 推敲)