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家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


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第1話 気配の始まり

 昭和に入って間もない頃。


都会の外れに建つその家は、表通りから少し奥まった場所にあり、時代の変わり目の喧騒から取り残されたような静けさを保っていた。


朝には豆腐売りの声が遠くに響き、昼には人力車の車輪が乾いた音を残して過ぎる。夕刻ともなれば、硝子窓の向こうが淡く曇り、行灯の灯りが廊下ににじむ。


外では新しいものが増えつつあるのに、この家の中だけは、どこか旧いまま時間が流れていた。


その家に、ひとりの女中がいた。


主人は帳面から目を上げ、ふとその存在を思い出していた。


思えば――

幼い時分に農村から預かった娘だった。


来たばかりの頃は、袖に身体を持っていかれるように歩き、言われたことを覚えるのがやっとだった。水をこぼし、火を消し、叱られては小さく頭を下げる。


それが今では、家の中を音もなく動き、茶を淹れる手つきにも迷いがない。客の前でも、視線の落とし方ひとつに乱れがない。


――それだけなら、何の問題もなかった。


主人が気づいたのは、別の変化だった。


少女から女へと変わる、その境目。


それは、ある日を境に、急に輪郭を持つ。


所作の端に、わずかな“間”が生まれる。

視線の落とし方に、意識の滲みが混じる。

声に、ほんの少しだけ湿りが宿る。


どれも取るに足らない変化だ。


だが、それらが重なったとき、見過ごせないものになる。


派手ではない。

むしろ、静かで、逃げ場がない。


気づいてしまえば、もう元には戻れない。


仕事先で、同業の男に言われたことがある。


「その女中、もう嫁に出してもいい頃合いじゃないか」


軽口のようだった。

だが、その視線だけが妙に粘りつく。


主人は笑って流した。

流した、はずだった。


だが、その言葉は消えなかった。


昼の座敷でも、似たようなやり取りがあった。


「いい働き手だ」


礼を返すと、客は続ける。


「働き手、だけじゃないな」


意味を問うと、笑いながら言った。


「早く決めてやらんと、どこぞに取られるぞ」


主人は「まだ子供だ」と答える。

だが、客は首を横に振った。


「……あれを見て、そう言えるか?」


返す言葉がなかった。


やがて席を立つと、背後から軽い声が飛ぶ。


「冗談だ」


しかし、続く一言だけは軽くなかった。


「家の中ほど、目が届かんものはないからな」


廊下に出ると、夏の気配が入り込んでいた。


その先で、女中と出会う。


「旦那様、お茶を……」


一瞬、目が合う。


その瞬間、先ほどの言葉がよぎる。


主人は視線を逸らした。


「そこに置いておけ」


「はい」


女中は静かに膝を折り、湯呑を置く。

その動きは変わらず丁寧だが、立ち上がるとき、わずかに衣擦れが耳に残る。


以前なら気にも留めなかったはずの音が、妙に意識に残る。


女中はそのまま下がっていく。


ただの女中だ。


そう思えばいい。


だが、その言葉はどこか頼りない。


一度「それだけではない」と知ってしまえば、その位置には戻れない。


夏の昼下がり。


湿った風が縁側を抜ける。


女中は額と首筋に汗を浮かべていた。

働く手は止めないが、時折、胸元に風を送る。


無意識の仕草だった。


だが、その無防備さは、見る側にだけ意味を持つ。


主人は思わず声をかけた。


「かなりの汗だな。着替えたらどうだ」


女中は少し困ったように答える。


「着替えを重ねても、洗い物が増えるばかりで……」


主人はわずかに考え、


「なら、濡らした手拭いでも当てておれ」


と言った。


「では、この手拭いを」


差し出された布を受け取り、主人は井戸へ向かう。


「水を飲むついでに、濡らしてこよう」


「いえ、そういう事は私が……」


「いい。ここは風が通る。待っていろ」


井戸端で、手拭いを水に沈める。


そのとき、手が止まる。


――ぬるい。


布に、体温が残っていた。


さらに、かすかな匂いがある。


土とも、汗とも違う。

乾いた陽の中に、わずかに湿りを含んだような匂い。


それは、まだ完成していないものの匂いだった。


少女でもなく、完全な女でもない。


その途中にだけある、曖昧なもの。


主人は、わずかに息を止める。


ただの布だ。


そう思えばいい。


水で洗えば消える。


――そのはずだった。


だが、気づいたことで、逆に輪郭が浮かび上がる。


手拭いを絞る。


水滴が落ちるたび、さきほどの感触が蘇る。


何かに触れてしまった、という感覚だけが残る。


縁側に戻ると、女中が待っていた。


「……あの、やはり自分で」


「いい。もう終わった」


手拭いを差し出す。


その瞬間、指が触れる。


ほんのわずか。


だが、それだけで、さっきの感触が確かなものになる。


「ありがとうございます」


女中はそれを首筋に当てる。


濡れた布越しに、肌がわずかに透ける。

汗の引いたあとに残る、細い線。


見てはいけない。


そう思うほど、目に残る。


「どうだ、少しは楽になったか」


「はい、おかげ様で」


「では……仕事に戻れ」


「はい、ありがとうございました」


女中は静かに去っていく。


その後ろ姿は、以前と同じはずなのに、どこか違って見えた。


主人は視線を落とす。


あれは、ただの一瞬だ。


――だが。


その一瞬が、どこまで続くのか。


この時の主人は、まだ知らない。


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