悪役令嬢だから婚約破棄します。これって悪役令嬢っぽくない?
王宮の東棟、王太子殿下専用の談話室は、いつも穏やかだった。
香り高い紅茶。
磨き上げられた銀器。
午後の日差しを受けて淡く光る窓辺。
そして、書類を確認しながら眉間にしわを寄せる王太子アレクシス殿下。
今日も平和だった。
少なくとも、扉が蹴破られるまでは。
「殿下!」
ばあん、と扉が開いた。
正確には蹴破られてはいない。きちんと蝶番は生きている。ただ、開け方が完全に攻城戦だった。
現れたのは、公爵令嬢セシリア・フォン・アルベルト。
王太子アレクシスの婚約者であり、社交界でもっとも美しく、もっとも気が強く、もっとも警備兵を走らせる令嬢である。
その後ろには侍女ミラがいた。
ミラは顔面蒼白だった。
「お嬢様、どうか、どうか一度深呼吸を」
「もう十分したわ」
「先ほど廊下を走りながら『ふん、ふん、ふん!』とおっしゃっていたのは深呼吸ではなく、獣の呼吸ですよ!」
「細かいわね」
セシリアは堂々と胸を張り、窓辺のソファで紅茶を飲んでいたアレクシスを指さした。
アレクシスは、嫌な予感がした。
「セシリア。まず聞こう。今日は何をした」
「何もしておりませんわ」
「その言い方は、これから何かする者の言い方だ」
「さすが殿下。わたくしの婚約者だけあって察しがよろしいですわ」
「やめてくれ。その褒め方は胃に来る」
セシリアは一歩進み出た。
そして、王宮中に響くような声で宣言した。
「アレクシス殿下! わたくし、あなたとの婚約を破棄いたします!」
殿下が紅茶を吹いた。
横にいた側近が書類で顔を防御した。
侍女ミラは「ひゃっ」と小さく鳴いたあと、その場で綺麗に崩れ落ちた。
「ミラあああああ!」
セシリアが振り返る。
「なぜ倒れるの! ここはわたくしの見せ場でしょう!」
「見せ場ではありません。これは事件です、お嬢様……」
ミラは床に倒れたまま、根性で返事をした。
王太子アレクシスは口元をハンカチで押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。
「セシリア」
「はい」
「もう一度言ってくれ。聞き間違いであってほしい」
「わたくし、あなたとの婚約を破棄いたします」
「聞き間違いではなかったか……」
アレクシスは額に手を当てた。
その仕草が妙に慣れている。
「またいつものか」
「いつものとは何ですの」
「噴水に馬で突っ込んだときも、禁書庫で『禁書とは禁じられたからこそ読む価値がある』と演説したときも、君はその顔をしていた」
「どの顔ですの?」
「自分が正気だと確信しているときの顔だ」
「失礼ですわね。わたくしは常に正気ですわ」
床から復活しかけていたミラが、弱々しく手を上げた。
「お嬢様。その発言だけは、侍女として訂正させていただきます」
「ミラ、あなたまで」
「主人思いゆえです」
ミラは側近に支えられて立ち上がると、震える手で前髪を整えた。
「それで、お嬢様。なぜ、急に婚約破棄などとおっしゃるのですか」
「急ではありませんわ」
「いつから考えておられたのですか」
「今朝」
「急です!」
「朝食後からですもの。半日近く考えましたわ」
「大事な婚約を半日で破棄しようとしないでください!」
アレクシスは深く息を吐いた。
「セシリア。理由を聞こう」
セシリアは待ってましたとばかりに顎を上げた。
「だって、皆がわたくしのことを悪役令嬢と言うからですわ」
沈黙。
長い沈黙。
側近が小声で「理由ですか、今の」と呟いた。
ミラが即座に反応した。
「噂ごときで婚約破棄を言わないでください!」
「でも悪役令嬢ですわよ? 悪役令嬢なら婚約破棄くらいするものでしょう?」
「される側です!」
「え?」
「基本的には、される側です!」
セシリアは目を瞬かせた。
「そうなの?」
アレクシスが椅子に座り直した。
「待て。そこからなのか」
「わたくし、悪役令嬢は高笑いしながら婚約破棄を叩きつけるものだと思っておりましたわ」
「どちらかと言えば、婚約破棄を叩きつけられたうえで、妙な罪状を並べられる側だ」
「そんな理不尽な役なのですか?」
「そうだ」
「では悪役令嬢というより、被害令嬢では?」
「たまに私もそう思う」
ミラがこめかみを押さえた。
「お嬢様。そもそも、ご自分が悪役令嬢だと言われたから、その評判に合わせて行動しようとなさったのですか」
「ええ」
「なぜ合わせるのですか」
「せっかくなら期待に応えたほうがよいかと」
「舞台役者ではございません!」
「でも皆、噂しているのでしょう? アルベルト公爵令嬢は悪役令嬢だ、と」
アレクシスの顔が少し真剣になった。
「一体だれがそんなことを言った」
セシリアは、何の悪気もない顔で答えた。
「リーナちゃんが」
室内の空気が凍った。
一拍後、ミラが絶叫した。
「リーナ様ああああああ!」
リーナ。
王女リーナ。
アレクシスの妹であり、セシリアの親友であり、王宮内に混乱を持ち込む才能だけなら兄を超える姫君である。
アレクシスは片手で顔を覆った。
「リーナか……」
「はい。今朝のお茶会で『セシリアお姉様って悪役令嬢みたいで素敵』と」
「素敵」
「ええ。だからわたくし、なるほどと思いましたの」
「なるほどと思わないでくれ」
ミラはすでに扉へ向かっていた。
「すぐにリーナ様をお呼びします!」
「ミラ、走るな。転ぶ」
「この状況で歩いていられますか!」
ミラは侍女服をひるがえし、廊下へ飛び出していった。
残されたセシリアは、不満そうに頬を膨らませた。
「殿下は驚きすぎですわ。もう少しこう、悪役令嬢らしい婚約破棄に対して、毅然とした態度を取ってくださらないと」
「婚約者に突然婚約破棄を宣言されて毅然としていられる男は、君に愛情がないか、心臓が石でできているかのどちらかだ」
セシリアは少し黙った。
「……では、殿下は驚いてくださったのですか」
「紅茶を吹いた」
「かなり驚いてくださったのですね」
「王太子としては不名誉なほどにな」
セシリアはなぜか満足げに頷いた。
「なら、悪役令嬢らしさとしては成功ですわね」
「成功ではない」
そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
ばたばたばた、という音。
ひとり分ではない。
ミラが戻ってきた。
その後ろに、桃色のドレスを揺らした王女リーナがいた。
さらに、なぜか数名の侍女と警備兵、通りがかった貴族までついてきている。
「お兄様! セシリアお姉様が婚約破棄って本当ですの!?」
リーナは目を輝かせていた。
完全に見物客の顔だった。
アレクシスが低く言った。
「リーナ。君が原因らしいな」
「わたくしですの?」
「君がセシリアを悪役令嬢と言ったと聞いた」
リーナは両手を合わせた。
「言いましたわ!」
「認めるのが早い」
「だって、セシリアお姉様は悪役令嬢みたいに格好いいんですもの。堂々としていて、強くて、怖いもの知らずで、気に入らない相手には笑顔で逃げ道を塞いで」
「最後のは褒めているのか?」
「もちろんですわ!」
セシリアは胸に手を当てた。
「リーナちゃん……」
「お姉様……」
二人は感動的に見つめ合った。
ミラがその間に割って入った。
「美しい友情の場面に見せかけないでください。王家の危機なんですよ」
リーナは首を傾げた。
「でも、悪役令嬢ごっこなら婚約破棄される場面ではありませんの?」
セシリアは衝撃を受けた顔をした。
「リーナちゃんもそう思うの?」
「ええ。お兄様が『セシリア、君との婚約を破棄する!』と言って、わたくしが『お兄様、最低ですわ!』と叫び、セシリアお姉様が扇を開いて『あら、ようやくですの?』と微笑むところまで想像していましたわ」
アレクシスが呻いた。
「妹よ、なぜ私を最低役にする」
「盛り上がるからですわ」
「王太子の評判を舞台装置にするな」
セシリアはゆっくりとアレクシスを見た。
「殿下」
「何だ」
「わたくし、重大な勘違いをしておりました」
「ようやくそこに到達したか」
「悪役令嬢は、婚約破棄をする側ではなく、される側」
「そうだ」
「つまり、わたくしが悪役令嬢らしくあるためには、殿下に婚約破棄を言わせなければならなかったのですわね」
「違う。そこではない」
ミラが両手で顔を覆った。
「お嬢様、学びの方向が最悪です」
セシリアは真剣な顔でアレクシスに向き直った。
「殿下。今から言ってくださいませ」
「何を」
「セシリア、君との婚約を破棄する、と」
「言わない」
「なぜですの」
「したくないからだ」
その一言で、室内がまた静かになった。
セシリアの頬が、わずかに赤くなる。
リーナが口元を押さえた。
ミラが『今です、お嬢様、今だけは黙ってください』と小声で祈った。
だが、セシリアは黙らなかった。
「……殿下、それは悪役令嬢の筋書きとしては不適切では?」
「君との婚約に筋書きなど求めていない」
アレクシスは立ち上がり、セシリアの前まで歩いた。
「君がやんちゃなのは知っている。無茶をするのも知っている。たまに王宮の警備計画を根本から見直す必要が出るのも知っている」
「最後のは責めています?」
「半分は」
「もう半分は?」
「君がいなければ退屈だと思っている」
セシリアは目を丸くした。
アレクシスは頭痛をこらえるように眉間を揉んだ。
「だから、噂に合わせて私を捨てようとするな。悪役令嬢らしさなど知らん。君は君らしくしていればいい」
ミラが小さく拍手しかけ、途中で「いけない、まだ職務中」と手を下ろした。
リーナは遠慮なく拍手した。
「お兄様、今のはよかったですわ!」
「黙れ、発端」
「はい!」
セシリアはじっとアレクシスを見つめた。
そして、ふっと笑った。
その笑みは、社交界で噂される悪役令嬢のものに少し似ていた。
美しくて、不敵で、逃げ道を塞ぐ笑み。
「仕方ありませんわね」
「仕方ないのか」
「ええ。殿下がそこまでおっしゃるなら、婚約破棄は取り下げて差し上げます」
「それは助かる」
「ただし」
セシリアは扇を開いた。
ぱしん、と小気味よい音が鳴る。
「今後、わたくしを悪役令嬢と呼ぶ者がいたら、訂正していただきます」
アレクシスは頷いた。
「もちろんだ」
「わたくしは悪役令嬢ではありません」
「そうだな」
「婚約破棄を勘違いして自分から叩きつけた、少々前衛的な公爵令嬢です」
「その訂正でいいのか?」
ミラが即座に言った。
「よくありません」
リーナが目を輝かせた。
「でも、そのほうが唯一無二ですわ!」
「リーナ様は黙ってくださいませ!」
扉の外に集まっていた貴族たちが、ざわざわと囁き始めた。
「婚約破棄はなくなったらしいぞ」
「いや、そもそも令嬢側から破棄を宣言したとか」
「悪役令嬢というより、破天荒令嬢では」
「殿下、意外と愛が重いな」
「王女殿下が一番楽しそうだった」
アレクシスは鋭い視線を扉へ向けた。
見物人たちは一斉に背筋を伸ばした。
セシリアは満足そうに頷いた。
「ご覧なさい、殿下。やはり公開の場というのは大事ですわ。噂の訂正が早いですもの」
「君が公開の場にしたんだ」
「結果的に成功ですわね」
「成功の定義を見直してくれ」
ミラは疲れ切った顔で言った。
「お嬢様。本日はもう、悪役令嬢らしい行動は禁止です」
「では、明日は?」
「明日もです」
「つまらないわ」
リーナがそっと手を上げた。
「では明日は、悪役令嬢ではなく、断罪回避令嬢ごっこを」
「リーナ様?」
ミラの声が低くなった。
リーナは素早くアレクシスの後ろに隠れた。
セシリアは少し考え込んだ。
「断罪回避……つまり、先に証拠を集めておけばいいのね」
「お嬢様?」
「殿下、明日、王宮内の不正を洗い出しましょう」
「なぜそうなる」
「断罪される前に、こちらが断罪するのです。これなら悪役令嬢というより、正義の令嬢っぽくありません?」
アレクシスは天井を仰いだ。
「……またいつものか」
セシリアは晴れやかに笑った。
「ええ。いつものわたくしですわ」
その笑顔を見て、アレクシスは小さくため息をついた。
困っている。
確実に困っている。
けれど、その口元はわずかに緩んでいた。
ミラはそれを見て、今日何度目かわからない頭痛を覚えた。
この婚約は、きっと破棄されない。
破棄されないが、平穏でもない。
王宮の午後は、再び騒がしくなる。
そして翌日。
王宮では新たな噂が広まった。
公爵令嬢セシリアは、悪役令嬢ではない。
ただし、悪役令嬢っぽいことをしようとして、王太子と侍女と王女を巻き込み、王宮全体を半日止めた令嬢である。
なお本人は、その噂を聞いてこう言った。
「まあ。前より具体的でよろしいですわね」
ミラはその場で、また少しだけ倒れかけた。
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