【6】
耳が痛いくらいの静寂が支配するなか、自分の唇が柔らかなものに触れる。
キスなんてものはほんの一瞬で終わるのだと思っていたが、何秒重なっていたのか分からない。煩すぎる脈拍に邪魔されて数える余裕もなかった。
触れた箇所はふんわりと心地良く、律のことを愛しく想う気持ちは確かにある。それは幸福感であるはずなのに、私の瞳からは重苦しい涙がこぼれ落ちた。
泣き出した私を見て不安を覚えたのだろう。
律は慌てた様子で身を引いた。
「ごめん。泣くほど嫌だったなんて――」
「そうじゃないの! 私、律くんに恋してた頃みたいな感覚に戻っちゃってる気がして……そんな気持ちで律のことを見ちゃいけないって分かってるのに……どうすればいいのか分からなくて。自分でも頭の中がぐちゃぐちゃ」
「キスされたせいで嫌な気持ちになった?」
「それは関係ない。ただ、律のことを異性として見ちゃってる自分が嫌なの。律は望んで男の子のふりをしてるわけじゃないのに、私の勝手な願望を押し付けて」
溢れる涙を手で拭おうとすると、律に腕を掴まれた。手を引かれてローテーブルの前へ。そこにはティッシュの箱が乗っている。律は「はい」と微笑し、箱を手渡してくれた。ティッシュを受け取って涙を拭く。
「僕が嫌なのはあくまで〝母さんに強制される〟こと。『身も心も男になってくれ』って頼まれても無理だけど、美波が『彼氏役になってほしい』って言うなら喜んでなるよ。それは苦しいことじゃない」
「……私のこと嫌いにならなかった?」
「ならないよ。恋愛感情なのかどうかは、まだよく分かってない……というのが正直な感想だけど。キスしたら幸せな気持ちになったし、紅茶の甘い香りがした」
「や、やめて恥ずかしい!」
思わず自分の口元を覆う。
律は可笑しそうに歯を覗かせ、私の腕を抱き締めた。ようやく落ち着きかけていた心臓がまた揺さぶられてしまう。
「僕は美波とキスしてドキドキした。嫌悪は全くなかったよ」
「……私も同じ」
「他の女友達とキスできる?」
「……それは無理」
「僕も美波以外の女の子としてみたいなんて思わない。曖昧な気持ちで申し訳ないけど、受け入れてくれる?」
「それを言うなら私だって。元々律くんを好きだったわけで……最初から女の子だと知ってたらたぶん好きになってない。本当にそんな感情で平気?」
「好きになったきっかけが特殊だった、ってだけだろ?」
「……律のことを異性として見ちゃってるとしても?」
「美波がどういう目で見たって、僕自身は紛れもない女性だ。その事実をきちんと伝えても、美波の気持ちは変わらなかったんだよね? もう性別なんて関係ないってことじゃない?」
「……そうなのかもしれない」
「僕も美波と同じで、女性に恋をするっていうのがピンとこなかったわけだけど……。一度キスしたら、もっとたくさん触れてみたいと思った」
重なる目線も抱かれた腕も愛おしく、しばらく心の奥底で眠っていたのであろう感情が込み上げてきた。何度も何度も「好き」と言ってしまいたくなる。
「僕たち、今日から恋人同士になるってことでいい?」
「私は誰とも付き合ったことなくて、感覚がよく分かんないけど……。漫画とかだと『お友達から始めましょう』なんてあるから、私たちもそんな感じで?」
「じゃあ僕は美波の彼氏だね」
「そんな役柄いらない。どっちも〝彼女〟でいいの」
「さっきも言ったけど〝彼氏役〟なら嫌じゃないよ? ただ……美波が『やっぱり本物の男の子がいい』って心変わりしちゃったらと思うと心配」
「それはお互い様……って言うか、それこそ性別はあんまり関係ないんじゃないかな? 男女で付き合ったって、どっちかが他の人を好きになって別れることもあるでしょ? 気にしても仕方ない気がする」
「確かに。とにかく今は、美波の傍にいられれば幸せだよ」
少し形を変えた私たちの関係。
傍から見たら〝恋愛〟と呼べないような、淡い繋がりなのかもしれない。
それでも。
律が幸せだと言ってくれること、私も幸せを感じていること――こうして心が重なっているうちは一緒に過ごし、支え合っていく。
それが、今の私と律が出した結論だ。




