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2.「……すみ……ません……大丈夫……」「よかった/無理しないでね」

 週明けの月曜、午前十時。

 総務の奥にある会議スペースで、小さな騒ぎが起きていた。


「ちょっと、誰か来てくれませんか……!

 大西さん、倒れたみたいで……!」


 声を上げたのは入社2年目の女性社員で、顔色が完全に青ざめている。

 倒れたのは経理担当の大西──普段は穏やかで、決して無理を口にしないタイプの男性だ。


 千里は迷わず駆け寄る。

 だが、その横で、別の社員がすぐに言った。


「救急……呼んだほうがいいのかな?

 でも、本人いやがらないかな……」


「大西さんって、前も具合悪そうだったよね?」

「うん。でも“大丈夫、大丈夫”って言ってたし……」


(え……今それを気にするの?)


 大西は目を閉じ、呼吸は浅く、額には汗が浮かんでいる。

 明らかに“様子見で済ませる段階”ではない。


 千里が声をかける。


「大西さん、聞こえますか? 意識あります?」


 反応は弱い。

 千里はすぐに判断する。


「救急を呼びます。誰か総務の課長に伝えてください」


 そう言った瞬間、周囲に微妙な沈黙が走った。


「あ……でも、課長、機嫌悪そうだったしな……」

「月曜の朝から騒ぎにすると、あとで言われそう……」

「ほら、あの人、表面は優しいけど裏でグチグチ言うから……」


 千里は一瞬だけ呼吸を止めた。


(この人たち……“怒られたくない”が優先なんだ)


 それは悪意ではない。むしろ“優しさのテンプレ”に従っているだけ。


 ──決して衝突しない。

 ──波風を立てない。

 ──困っている人に“気を遣いすぎて”、必要なときでも踏み込まない。


 その優しさは、いざという場面では、責任を回避するための盾に変わる。


 ひとりが言う。


「でも、もし本人が『救急なんて』って嫌がってたら……

 ね? 気まずくなるし、かわいそうじゃん」


 その言い方は、あたかも“思いやりのある選択”のように聞こえる。


 しかし千里には、

 それが「責任を負いたくないだけの優しさ」にしか見えなかった。


(この会社……“優しいふり”が文化になってるんだ)


 千里はすぐにスマホを取り、救急へ連絡を始める。


「すみません、総務の大西という社員が倒れて……意識が不安定で──」


 その最中でさえ、周囲からこんな声が漏れる。


「うわ……本当に呼んじゃった」

「課長、絶対あとで言うよ……」

「まあ……中途の人だしね?」


(誰かが責任を取らなくて済むように——

 誰かが誰かの“あとで文句を言う人”の機嫌を守るために——

 必要な行動すら躊躇う会社)


 千里は、救急の指示に従いながら、静かに確信した。


 ここは、危ない。

 優しさの形をしているだけで、人を守れない。





 救急隊が到着し、状況を確認する。

 大西は担架に乗せられながら、弱く目を開いた。


「……すみ……ません……大丈夫……」


(大丈夫じゃないから、今こうなってるのよ)


 千里が胸の中で呟いた瞬間、

 周囲の社員たちが口々に言い始めた。


「よかった……意識戻ったね。

 大西さん、無理しないでね?」


「また元気になったら戻ってきてくださいね~」


 言葉はやさしい。声のトーンも気遣いに満ちている。


 だがその直後、

 千里のすぐ後ろで、小声でのやりとりが始まった。


「やっぱりこういう時、面倒よね……」

「救急来ると手続き増えるし」

「課長の機嫌も……」

「でも、まあ……大西さん、ストレス多かったしね。

 “自己管理”も仕事のうちって言うし」


(……ああ、そういう会社か)


 千里は、悟るように息を吐いた。


 大西が倒れた理由は、誰からも深掘りされない。

 責任が問われることも、改善が検討されることもない。


 ──“誰のせいでもない”という形にしておきたい。

 ──“優しく”しておけば問題は流れていく。


そんな《悪意なき無責任》が会社を覆っていた。





 救急隊が去り、フロアには何事もなかったかのように

 キーボードの音が戻る。


 周囲の誰もが、

 数十分前の出来事を“なかったこと”にするテンプレの笑顔を浮かべていた。


 千里は席に戻りながら、こう思う。


(この会社では——

 本当に人が倒れても、

 “優しい声”で表面を整えれば、それで終わりなんだ)


 背筋に、冷たいものが走る。


(ここに長くいると……私まで、同じようになる)


 千里は椅子に座り、まっすぐ前を見た。


 その目は静かで、

 しかし、もう後戻りできないほど強い警戒の色を帯びていた。

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