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1.挨拶/うちのやり方/お願いできます?/気をつけます

 朝のメールチェックを終えたころ、

 フロアの入り口でパチンと手を叩く音がした。


「——はい、朝礼やりますよー。席の近くで聞いてくださいね!」


 総務課長の甲高い声が室内に満ちる。

 千里も姿勢を整え、周囲に倣って立ち上がった。


 課長は、白い書類を片手にこちらを見渡す。


「えー、まずは昨日の決裁まわりの件から……。あと、美浜さんですね。今日から総務に入ってくださいます。みなさん、よろしくお願いします」


 数名が軽く拍手をした。

 だが、その場の空気が千里に向く角度は妙に浅い。

 視線が合う人がほとんどいない。


(表面だけ……挨拶のテンプレート)


 そう思った瞬間、課長の口元から、やや刺さる言い方が続いた。


「美浜さんは中途採用なので、最初のうちは“うちのやり方”をしっかり見て覚えてもらえればと思います。余計なアレンジはしなくていいので」


 わざわざ言う必要のない言葉。

 笑いながら話しているのに、

 その笑顔自体が“注意喚起の札”のように固く見えた。


 千里は淡々と会釈した。


 課長は資料の読み上げに戻る。

 社員たちはうつむきながらメモをとる仕草だけを繰り返し、

 ほとんど誰も課長の言葉を真正面から受け取っていない。


(聞き流してる……慣れてるんだな)


 千里はその“慣れ”に、すでに小さな違和感を覚えた。






 朝礼が終わると、山川が千里の席へ寄ってきた。


「美浜さん、このファイル棚の整理お願いできます?

 分類はここに書いてありますので」


 山川の声は柔らかい。

 だが渡されたメモの書き方はどこか雑で、

 棚の中身も、前任者が“時間のないまま押し込んだ”ような乱れ方をしていた。


(……誰かが困ったまま放置していた仕事だ)


 無理に声に出す必要もないので、千里は静かに作業を始めた。


 ファイルをめくるたび、

 付箋が乱暴に貼られていたり、

 年度が混ざっていたりと、

 細かな違和感が次々に見つかる。


(忙しいだけ、ではなさそう。

 管理する人が“いなくなっている”感じ……?)


 そんな推測が浮かぶころ、

 背後でひそひそ声がまた聞こえた。


「新人さん、あの棚渡されたか……」

「山川さん、うまく押しつけたな」

「まあ、中途だしね」


(表では丁寧、裏で責任逃れ……か)


 千里は手を止めず、淡々と分類を整えていく。






 最初の週が終わるころには、

 千里にも、この会社の空気の“種類”が見えてきた。


 表向きは笑顔。

 言葉は整っていて、挨拶も丁寧。

 冗談も交わされる。


 だが、その裏側には

「互いに触れない」「踏み込まない」「余計なことを言わない」

という、分厚い“暗黙のバリア”が居座っている。


 誰かが困っていそうでも、それに気づかないふりをする。


 誰かが忙しくても、「大丈夫?」とは聞かず、「大丈夫です」と言われるのを待つだけ。


(……これ、テンプレ化した優しさの会社だ)


 千里はそう名付ける。


 昼休み、千里が席で静かにサンドイッチを食べていると、

 隣の席の女性が話しかけてきた。


「すごいね、美浜さん。初週であの棚片付けたんだ?」


「いえ、ただ順番に整理しただけで……」


「いや、あそこ、誰も触りたがらなかったから。

 ——あ、でも課長には言わない方がいいよ。

 手を出したって思われると、仕事回されるから」


(仕事をしたら、仕事が回ってくる……それは普通のことじゃ?)


 千里はそう返しそうになったが、その言葉を飲み込んだ。


 言ったところで、この会社では

「正しい意見」はむしろ浮いてしまう。


 代わりに、少し微笑む程度で答えた。


「気をつけます」


 女性はほっとしたように笑って席に戻った。


 千里の目元が、ほんの少しだけ曇る。






 金曜の退社前、

 フロアには一週間の疲れが沈殿していた。


「今週もお疲れさまー」

「じゃ、また月曜に」


 軽い挨拶が交わされる。

 そのどれもが、薄い膜に包まれているように温度がない。


 千里はパソコンを閉じ、静かに立ち上がる。


(この会社の“優しさ”は、なんだか……

 誰も傷つけないようで、誰も助けない)


 その感想は、喉の奥でひっそりと形を保つだけだ。

 言葉にしないほうが、ここでは正しい。


 蛍光灯の白さが少しだけ滲む。

 千里は無表情のままバッグを肩にかけ、静かな足音でエレベーターへ向かった。


 エレベーターの扉が閉まる瞬間、

 彼女の瞳にだけ、かすかに疲れた影が揺れた。


 そして、誰もそれを知らなかった。

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