第34話_丈の涙、塩加減を救う
パリ大会の本戦を三日後に控えた夕刻、貸し切りの厨房アトリエに、静かな緊張が流れていた。
キッチンの壁には、各国代表が作る予定のテーマ「笑顔を引き出す一皿」に関する資料が貼られ、健斗たち〈風味織〉のメンバーは、それぞれの担当食材の最終調整に集中していた。
「塩、どこ?」
裕美の問いに、祐輝が投げやりに指さした。
「そこ。っていうか健斗、今日の出汁、昨日より香り薄くない?」
「……そうか?分量は一緒だ」
「でも、感じが違う。気のせい?」
「……じゃねぇな。何かが足りねえ」
健斗は眉をしかめ、鍋の前で腕を組む。
「塩味の粒立ちがない」
里実がぽつりとつぶやく。目は鍋の奥を見つめたまま。
「バターじゃなく、塩のミネラル感が曖昧だってこと?」
「たぶん。昨日と違って、味が“閉じてる”感じがするの」
オスカーは、フランスの天然塩を手にとって言った。
「この塩は水分を含みやすい。湿度で結晶が潰れてるのかも」
丈は静かに調理台の端から見つめていた。ふと、健斗の目が彼に向いた。
「丈、ひと口、味見してくれ」
「……いいよ」
レンゲを口に運んだ丈は、しばらく黙っていた。やがて、小さくうなずいたあと、深く息を吐きながらこう言った。
「……俺さ。正直、みんなの情熱についていけてるかわかんなかった。ずっと、調整役に回ってただけで、俺自身が何か“味”になってるのか不安だった」
その言葉に、一瞬、空気が止まったようになった。
「でもな、いま、スープ飲んで……ああ、俺、この塩分を感じないことが、ちょっと寂しいって思ったんだ」
丈の目に、うっすらと涙が浮かんでいた。
誰も笑わなかった。誰も軽口を叩かなかった。
静寂の中、健斗がそっと鍋を火から下ろす。
「その涙、舐めてみてもいいか?」
「えっ!?な、なんだよ、急に」
「バカ。塩分量、確認だ」
丈が目元を指でぬぐい、苦笑した。
「……お前は相変わらず変だな。でも、いいよ。目元、貸す」
健斗が指にとったその涙を、ぺろりと舐める。次の瞬間、彼の顔がピシッと変わった。
「決まりだな。天然塩にちょっとだけ、涙のミネラルが必要だったらしい」
「……それ、怖いくらいしっくりきてる」
里実が苦笑し、リリアンは小さく拍手を送った。
「日本語に“涙の味”って言葉があるの、わかった気がするよ」
丈は、鼻をすすりながら微笑んだ。
「こんな形で役に立てるとは思わなかったな……」
彼の感情が、そのまま“塩加減”に昇華した瞬間だった。
その後、リリアンがふと口を開いた。
「……感情の“しょっぱさ”って、英語にはない表現かもしれない。でも、今の丈の涙は、確かに料理の“味”になってる。伝わってくるよ」
オスカーは真剣な顔でメモを取りつつ言った。
「僕の国では、“喜び”や“悲しみ”を“味”に例えることは少ない。でも、感情を食材に置き換えるという日本の哲学……とても好きだ」
さくらが頷いた。
「料理って、舌で感じるものだけじゃなくて、心で噛みしめるものでもあるんだよね」
丈は照れくさそうに笑ったが、その瞳の奥には確かな決意があった。
「なら、俺はこれからも“調和”だけじゃなくて、“感情”を届ける仕事をするよ。俺にできること、ずっと考えてたけど……今、少しわかった気がする」
健斗はその言葉を真剣に聞いていたが、不意にキッチンの奥に視線を向けた。
「……塩、買い直そう。いまの湿度じゃ、結晶がまともに残らねえ」
「ボン・マルシェまで?俺、行ってくる!」
祐輝が勢いよく名乗りを上げた。
「いや、俺が行く。祐輝、お前は次の仕込みに回ってくれ」
「ええっ?また俺、地味担当かよー!」
「地味って言うな。お前がいないと時間が回らねえ。これは命令だ」
祐輝がぶつくさ言いながらも手を動かす姿を見て、丈は笑った。
「なんだかんだ、まとまってきたな。俺たち」
「まだ油断はできないけどな。決勝まであと三日、全員、気を抜くな」
健斗の声に、皆が黙ってうなずいた。
厨房の窓の外には、夕暮れのパリの街が広がっていた。サクレ・クール寺院の塔が赤く染まり、セーヌ川の水面には光が揺れている。
その光を見ながら、丈はひとつ深呼吸をした。
この街で、この仲間と、この料理で、何かを残せる。
そう信じて、もう一度、鍋を火にかけた。




