第32話_マルシェで拾った優しさ(00)
パリの朝は冷え込んでいた。十一月中旬、外気温は一桁。だが、ル・アル市場は活気に満ちていた。青果に香草、チーズ、パテ、オリーブ、パン……あらゆる食材がぎゅうぎゅうに並び、人々は言葉よりも匂いと熱量で交渉を進めていた。
「すごい……まるで食材の万華鏡みたい」
さくらは目を輝かせ、カゴを両手に持ってゆっくり歩いていた。目的は、メイン皿のアクセントとなるチーズの選定。だが、それだけではない。地元の人々の表情、身振り、やり取り……その一つひとつを見逃すまいとしていた。
「おい、はぐれるなよ」
少し離れた場所で祐輝が声を上げた。
「だって、こんなに面白いんだもん」
笑って返したさくらだったが、次の瞬間、肩をすり抜けた通行人に押されて、カゴを落としてしまった。
「きゃっ……」
リンゴが一つ、転がっていった。追いかけようとして、さくらはふと足を止めた。石畳の端、泣きながらしゃがんでいる小さな女の子が目に入ったのだ。
「……ママ……」
フランス語だったが、表情と雰囲気だけで意味は伝わってきた。周囲の大人たちは皆忙しそうで、気づいているのかいないのか、素通りしていく。
「大丈夫?」
さくらは日本語のまましゃがみ込み、手を差し出した。
少女は小さく首を振った。だが、さくらの目をじっと見つめる。泣き顔ではあるが、拒否ではない。
「うーん、待ってね……あ、これ」
さくらはポケットから、昨日オスカーにもらったミントキャンディを取り出した。銀紙をはがし、ひょいと差し出す。少女の目がほんの少し丸くなる。そして、そっと手を伸ばした。
その瞬間、遠くから女性の呼ぶ声が聞こえた。
「Émilie……!」
さくらが振り返ると、焦った様子の若い女性が人混みをかき分けてやって来る。母親だとすぐわかった。エミリーと呼ばれた少女も、安心したように立ち上がり、駆け寄る。
母親は少女を抱きしめ、さくらの方に何度も頭を下げた。言葉が通じなくとも、礼の気持ちは充分に伝わってきた。
その様子を、斜め後方から見ていた老紳士が、一歩前に出た。彼はチーズ屋の店主だった。大きな白髭を撫でながら、さくらにフランス語で話しかけた。
「Mademoiselle, vous avez un cœur doux.(お嬢さん、あなたは優しい心をお持ちだ)」
リリアンがすぐに通訳する。
「“きみにこのチーズを渡したい”って。すごく貴重なやつみたい」
彼が差し出したのは、白カビの生えた手のひらサイズのチーズ。横にいたリリアンが驚いた表情でささやいた。
「これ……地元でもなかなか手に入らない。“サン・マルスラン”の冬熟成。熟成度が高くて、外はとろけてるけど中はねっとりしてる。パリのシェフも順番待ちするくらいよ」
さくらは一瞬、驚きすぎて手を出せなかった。だが、紳士のまなざしは真っすぐだった。
「……ありがとうございます」
両手でそのチーズを受け取ったとき、さくらの胸の奥に、じわりと温かいものが広がった。
勝ち負けでも、戦略でもない。この場所、この人たちと過ごす「今」の重み。皿の向こう側にいる人々の人生。それが、今日の食材に宿っていた。
市場からの帰路、さくらは手にしたチーズの重みを何度も確かめるように抱え直した。
「ねえ、見てこれ。すっごくいい香り」
さくらがそう言って戻ってきたとき、健斗たちは市場の外れで出店用のスパイス調達を終え、休憩していた。
健斗はチーズの香りを嗅ぎ、目を見開いた。
「これは……とんでもないな。芳香が三層ある。ミルクの甘さ、白カビの熟成香、そして最後にかすかに感じるナッツの香り……」
祐輝が茶化すように眉を上げた。
「また出た、こだわりセンサー」
「真剣な評価を邪魔するな」
「わーってるよ。でも、それどこで手に入れたんだ? 店頭には置いてなかったよな?」
リリアンが通訳がてら事情を説明すると、全員が目を丸くした。
「なるほどな。拾い物か、いや……“拾われ物”か」
丈がぽつりと漏らした言葉に、裕美が小さくうなずく。
「私たち、料理人として食材と向き合ってるけど……たまに、“人から託された”っていう意識を持つと、感謝がにじむのかもしれないね」
夕方の試作キッチンでは、早速このチーズが活かされた。前菜案として出されたのは、サン・マルスランを中央に据え、焼きリンゴと蜂蜜の泡を添えたシンプルな一皿。
「視覚で甘さを見せておいて、味覚でコクを追う。素材の力に頼った大胆な組み方だが……」
健斗がつぶやき、ゆっくりナイフを入れる。トロリと溶け出す中身に、全員が目を奪われた。
「これ、いけるんじゃない?」
祐輝が小声で言うと、丈がすぐさま同意した。
「心に残る味って、記憶と感情に直結している。それを、今のこの空気ごと届けられれば……」
「決勝が勝負なら、この一皿は“予告”になる」
健斗の目に、またあの執念の火が灯る。けれど、その奥にあるのは、焦りや競争心ではなく、誰かと分かち合う温度だった。
静かにリリアンが言った。
「人に親切にすると、いつか料理に返ってくる。ね、さくら?」
さくらは頷いた。確信をもって。
明日、このチーズが皿の上で語る物語は、数字では測れない力を持つだろう。それが、〈風味織〉というチームの輪郭を、また一つ確かにした。




