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風味織(ふうみおり)~焦げついた執念は、世界を香らせる~  作者: 乾為天女


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第31話_パリの夜明け、温度差16℃

 11月25日、早朝のパリ・シャルル・ド・ゴール空港。

  飛行機を降りた瞬間、健斗の額に冷たい空気がぶつかった。

 「……さむっ」

  東京の温度は昨日、21℃。だが、ここは5℃。16℃もの温度差が、体温だけでなく感覚のバランスすら狂わせてくる。

 「わっ、鼻が……死んだ……!匂いが……わかんない!」

  祐輝が慌ててポケットからマスクを引っ張り出し、半泣きで鼻を覆った。

 「香りの立ち上がりも変わる。ソースの温度管理も見直さないと。リスクは多いが、対応すれば“差”になる」

  オスカーが落ち着いた声で話し、手帳にすでに気温と湿度の記録をつけていた。

  リリアンはスマホでフランス気象庁のページを開きながら言う。

 「この数日は雨続き。日差しも少なく、食材も冷え切ってると思ってくださいね」

  丈はコートの襟を立て、口元を覆いながらぽつりと呟く。

 「……冷えって、食材だけじゃないな。なんか……みんな、緊張してる?」

 「それは当然だろ」

  健斗は首をぐるりと回して、呼吸を整えた。

 「この“寒さ”に心を持ってかれたら、皿の中に“熱”が宿らない。今まで積み上げてきたものが試される」

  いつもより口数の少ない健斗に、さくらはそっと並んで歩く。

 「無理しなくていいよ。背負いすぎないで。決勝だからって、“勝ち負け”に全部を預けないで」

 「……でもさ」

  健斗は自分の手を見つめながら、続けた。

 「俺にとっての“勝ち”は、祖母の味を世界に残すこと。それってつまり、“誰かの記憶になる”ってことだろ。だったら、俺はこの寒さすら、“記憶に残すための味”にしてみせる」



 パリ市内の滞在先は、17区のアパルトマンだった。中庭付きの古い建物で、天井の高い部屋は料理の香りがよく回る。とはいえ、暖房の効きは遅く、誰もが上着を脱ぐのを躊躇っていた。

 「まずは下見。今日の午後には会場入りしよう」

  健斗の一声で、チーム〈風味織〉はパリ市内を歩き始めた。オスカーの案内で、凱旋門を越え、セーヌ川沿いのエッフェル塔が見える展望階へ向かう。そこが決勝戦の舞台となる特設キッチンの設置場所だった。

 「こんな……空の上で料理するなんて……!」

  裕美が思わず声を漏らした。まるで空中庭園。透明なパネル張りの壁と天井からは、パリの空が一望できる。だが、そこには強風と冷気、そして刻々と変わる湿度という“敵”も待っていた。

 「試作は……何度も繰り返す。香りの立ち方、温度変化、舌の収れん……全部、やり直しだ」

  健斗はリストを取り出し、段取りを確認する。

 「え、また? もう何十回も作ってきたじゃん……」

  祐輝がぼやくと、すかさず里実が遮った。

 「でも、ここはパリ。しかも展望階。“仕上がり”が変わるなら、“仕込み”を変えなきゃでしょ?」

 「その通り」

  健斗はうなずき、厨房の備品一覧に目を通した。

 「持ち込めるのは限られてる。特に熱源と調理器具の出力、あとは冷却設備の違いも計算に入れなきゃ」

 「執念が過ぎるって」

  さくらが笑って小さくつぶやくと、健斗は振り返らずに答えた。

 「過ぎるくらいでちょうどいい。“焦げ付く寸前の香り”まで、俺はやる」



 午後三時、外気温は摂氏5度。日本を発つ前日、東京は21度だった。16℃もの差が、肉の締まり方や野菜の発汗、香りの持続時間を激変させる。

 「俺、この部屋出たくねぇ……」

  祐輝は分厚いセーターに顔をうずめながら呟いた。

 「冷えると体力持ってかれるもんね。でも、こういうときのための“食”でもあるよ」

  丈が穏やかな笑みを浮かべ、ポケットからナッツと干しイチジクを取り出す。

 「エネルギー補給とミネラルのバランス。これ、昔、旅先で教えてもらったんだ」

 「ほう……なるほど。じゃあ俺はチョコでカフェインを!」

 「違う意味でテンション上がるのよね、あなたは……」

  裕美が小さく苦笑しながらも、真空パック入りの乾燥ハーブを点検していた。

 「湿度が下がる分、香りが立ちやすい。でも、暴れる。ブレンド変えなきゃ」

 「……リリアン。フランス語の香草表現で、どれくらいの強さなら“心地いい”ってされる?」

  里実がノートを持ち出しながら尋ねると、リリアンは少し考えたあと、仏語の香り形容語をいくつかメモして手渡した。

 「『doux』は“穏やかに香る”ね。逆に『envahissant』は“香りが支配的すぎる”って印象。審査員がどちらに反応するか、国によって微妙に違うわ」

 「へえー……そういう言語的解釈も影響するんだ……」

  祐輝が口をぽかんと開けたまま感心すると、オスカーが肩を竦めた。

 「僕らが料理で伝える“気持ち”も、結局は誰かの語彙に翻訳される。それが“言語”だとすると、こだわる価値はあるだろ?」

 「つまり……俺たちの料理を、審査員の言葉に翻訳させる。そんな料理ってことか」

  健斗が小さく頷きながら、祖母のレシピ帳を開いた。

  そこには、かつて冬の朝に作った“鶏出汁雑炊”の記述があった。湯気にまぎれて残る、淡い生姜の香り。そして、炊き上がり寸前に加える焼き海苔のほろ苦さ。

 「焦げる寸前で、温かくなる」

  健斗は呟き、視線を窓の外――凍てつくセーヌ川へと向けた。



 セーヌ川に映るエッフェル塔の影は、どこか頼りなく揺れていた。だが、健斗の眼差しは静かに燃えていた。

 「一度、全部リセットする」

  そう口にして、彼は手元のレシピ帳を閉じた。

 「……って、どういう意味?」

  さくらが訊く。優しく問いかけるその声に、健斗はきっぱりと答えた。

 「ここまで試作してきたレシピも、食材も、構成も。一旦、全部なかったことにして、気候に合うレシピをゼロから組み直す」

 「ちょ、マジで? さっき完成しかけてた試作品、捨てる気か?」

  祐輝が声を上げた。半ば呆れ、半ば怒り。だが健斗の視線は真っすぐで、揺らぎがない。

 「うん。この気温と湿度、そして今の自分の味覚を全部反映させる。そうしないと、勝てない」

 「……いや、勝ち負けだけじゃねぇだろ?」

  祐輝の指摘に、健斗はしばし沈黙した。

 「そうだな。でも、“残す”には、勝たなきゃいけない」

  誰も返せなかった。

  その場の空気を変えたのはオスカーだった。彼は自分のノートをパタンと閉じて言った。

 「君のやり方、嫌いじゃない。じゃあ、僕も“パリ版・一鍋メニュー”に切り替えよう」

 「え、それって……?」

 「一鍋で出汁からメイン、デザートの仕込みまでできる構成。工程をすべて連続化すれば、温度差の問題を逆手に取れる」

 「連続……」

 「“冷えた鍋で仕込んだ出汁”は“温め直し”ではなく“熟成”になる。温度差は敵じゃない、武器にする」

  その言葉に、リリアンがふっと微笑みながら呟いた。

 「焦げと香り、境界線の話……また出てきそうね」

  健斗はうなずいた。

 「今夜、もう一度食材選びから始める。朝のル・アル市場で仕入れて、午後には一度目の仕込みに入る」

 「よっしゃ、徹夜の準備だな……!」

  祐輝がどこか吹っ切れた表情で、袖をまくった。

 「寝袋は二階の荷物の中にある。湯たんぽも……」

 「ありがと、丈。さすが和を守る男」

  笑いが広がった。冷たい夜が、ようやく、温まり始めていた。

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