第3話_雨と出汁のテイスティング
2025年7月15日、午前10時。
築地場外市場は、梅雨の名残が色濃く残る空の下で静かに湿気を湛えていた。午前中なのに湿度はすでに85%。長靴を履いた観光客がポンチョを揺らしながら細い路地を行き交い、アーケードの端では荷運び用の小型トラックが軒並み待機している。
健斗は、レインコートのフードを被ったまま、路地裏に佇む一軒の古い店の前に立っていた。白木の看板には、筆文字で「山庄鰹節本店」。創業百三十年の老舗だ。
戸を開けると、店内には乾いた出汁の香りと古木の湿った匂いが混ざっていた。
「失礼します。予約していた、風味織の佐伯です」
「お待ちしてました。二階の試食室、使っていいよ」
出てきたのは、白衣姿の年配の男性。店主・山庄五郎は無口だが、鰹節と昆布への愛が凄まじく深いと、築地では有名だった。
二階の和室には、低いテーブルとIHコンロ、試食用の椀が並べられていた。すでに里実が先に来ていたようで、白い割烹着を着た彼女が黙々と昆布を水に浸している。
「早いな」
「……出汁って、気温と湿度に影響されやすいから」
彼女は小さく呟いた。窓の外からは、ときおり屋根を叩く雨の音。和室の中は静まり返り、ただ湯の沸く前の鈍い音と、彼女が昆布を掴む音だけが響く。
やがて、昆布を浸した鍋が温まってきた。70度になったところで火を止め、昆布を静かに引き上げる。その手際はまるで、舞台の演者がタイミングを合わせて退場するようだった。
「一番出汁。飲んでみて」
健斗は黙って椀を手に取る。唇をつけた瞬間、じわりと舌の奥に広がるのは、淡くも力強い旨味。後から鰹節の香りが鼻へと抜ける。派手ではないが、確かに残る。
「……うまい。いや、これは“沁みる”味だ」
「昆布は利尻、鰹節は枕崎産の本枯節。比率は6:4」
「6:4……黄金比ってやつか」
「でも、今日は湿度が高すぎるから、鰹節の香りがいつもより鈍ってる。逆に、昆布のぬめりがやや強く出た」
健斗は驚いたように彼女を見た。
「……そこまでわかるのか」
「空気は、味を変える。料理は五感で作るって、私の親がいつも言ってた」
「なるほどな。だからお前の料理は、“空気を映す鏡”みたいに感じるのかもな」
健斗はつぶやき、ふと外を見た。細い雨粒が斜めに舞い込んでくる。
「なあ、もしこの出汁を“屋台で出す”としたら、どう変える?」
「湿度が高いなら、香りを立たせるにはもう少し酸味を足す。柚子皮の香りか、ミョウガを刻んで添えるだけで、鼻抜けが良くなる。あと、少し白味噌を落とすと雨の日には合う」
即答だった。健斗は思わず、笑みをこぼす。
「お前、俺より“料理オタク”じゃねえか」
「違う。私は“環境オタク”。今、この天気、この時間、この温度の中で、一番ベストな味にしたいだけ」
その瞬間、二人の視線がぴたりと合った。
「環境オタクって、初めて聞いたな」
健斗が椀を置き、立ち上がってコンロの火を再点火した。鍋には今度、違う種類の鰹節を足してみる。視線の端で、里実の手元にあるノートが開かれているのに気づいた。
「それ、レシピか?」
「レシピってより“環境記録”。気温、湿度、材料の状態、水の硬度、だしの香りと味の残り方まで全部書いてる。時間ごとに分けてあるの」
「……職業病みてえだな」
「うん、たぶん病気」
さらりと答える彼女の顔には、まるで自嘲のような柔らかい笑みが浮かんでいた。だが健斗にはそれが、確固たる意思の表れに見えた。
彼女は「状況に応じて変化する」だけではない。すでにそれを自らの強みに変えている。
「じゃあ、今度はこれでいこう。昆布は利尻そのまま、鰹節を本枯節から荒節に変える。水は軟水のミネラルウォーターにした。塩は少しだけ」
「面白い組み合わせ。香りは弱いけど、旨味が前に来るかも」
二人は一緒にテイスティングを繰り返した。
鍋を沸かしては止め、出汁をとっては比べ、香りの立ち上がりや舌の残り方をメモする。雨は降り続き、時折天井からポツリと落ちる音すら、彼らの味覚に影響を与えるような気がした。
「これで、予選のベース出汁は決まりだな」
健斗がそう言ったとき、階段からコンコンと足音がして、ユウキが顔を出した。
「うわ、なんだここ。理科室みたいな匂いすんな。うちの調理実習のときは、こんなに真剣な空気じゃなかったぞ」
「ユウキ、今来たのか?」
「いやー、さくらに“試飲部隊”として呼ばれてさ。何してるか気になって」
健斗は椀を差し出した。
「飲んでみろ。出汁、二種類。こっちが本枯節、こっちは荒節。どっちが“食べたい気分”に近いか教えてくれ」
「味の批評とか、俺ムリだって。好き嫌いしか言えねえぞ」
「それでいい」
ユウキは肩をすくめてまず一口目を啜った。眉を上げる。
「……うまい。けど、なんか、澄みすぎてる。緊張する」
二口目。
「お、これの方が“なんかほっとする”。ちょっと苦味ある気がするけど、これがいい」
里実が「面白い」とつぶやいた。
「一般の舌には、少し雑味があった方が“安心”に近いってことかも。雨の日は特に」
「出汁に雑味……普通は避けるとこだけど、場と時間を考えれば“選択肢”になるってことだな」
健斗は椀をテーブルに置き、真顔で言った。
「これだ。この天候、この都市、この湿度。この一瞬を一皿に入れる。
“今しか作れない味”を、浅草に持ってく」
静かにうなずいたのは、里実だった。
「じゃあ、それを“味の下敷き”にして、全体を組み立てていくってことね」
「そうだ。ベースが決まれば、あとはそこに“記憶”を重ねるだけだ」
その“記憶”を届ける役目は、別の誰か――そう、さくらの出番だった。
雨音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
築地の空はまだ曇天だが、彼らの味覚の中には、確かにひとすじの光が差し込んでいた。