第17話_釜揚げうどんと、さくらの記憶
2025年11月9日、イタリアから帰国後すぐのこと。
健斗とさくらは、香川県・丸亀にある小さな製麺所にいた。
「うどん……ですか?」
イタリア帰りの荷ほどきもそこそこに、健斗が向かった先が“麺”の現場と聞いて、さくらは目を丸くした。
「香川の釜揚げうどんは、祖母の“料理ノート”の最初に貼られてたの。『世界を目指すなら、最初に戻れ』って書いてあってさ」
健斗の言葉に、さくらはふと微笑んだ。
「……あの頃、よく食べたよね。銭湯の帰りに。あつあつの湯気が、湯冷めした心に沁みた」
二人が訪れたのは、創業百年の製麺所〈川西うどん本舗〉。
職人の川西弥一は、鍋をかき混ぜながら語る。
「釜揚げうどんはな、“完成形じゃない”のがええ。湯の中で、まだ“続いてる”。そいつを、つゆの中で“選ぶ”んや」
「選ぶ……って、どういう意味ですか?」
さくらが尋ねると、弥一は器を指さす。
「つゆの温度、量、薬味、食べる速さ。全部が“その人のやり方”になる。それが釜揚げの面白さなんや」
「……料理って、“正解”を決めない方が奥深くなるんですね」
「お嬢ちゃん、ええこと言うやないか」
健斗は、一口すすって頷いた。
「この“余白”……どこまでも優しいな」
その晩、宿の囲炉裏端で、さくらはふいに語り出した。
「私ね、勝ち負けにあまり興味がなかったの」
「知ってる」
「でも……“残したい”って気持ちは、ずっとあった。味でも、思い出でも、誰かと一緒に笑った時間でも。何かが残れば、意味があるって思ってた」
健斗は、黙ってその言葉を噛み締めた。
彼女が“勝ちに興味がない”とよく言っていたのは、諦めでも冷淡でもなかった。
それは、“記憶と共に残るもの”を大切にしたいという強い意志だったのだ。
翌朝、〈風味織〉の面々も香川に集合した。
健斗は皆に向かって、こう切り出した。
「次の海外試合に向けて、もう一度“原点”に戻りたい。だから今日は、うどんを打つ」
「うどん……! パスタじゃなく?」
「小麦と水と塩。どこにでもある材料。でも、“どこでも同じじゃない”。それを思い出したい」
里実はうなずいた。
「確かに、素材がシンプルなほど、地域性と人柄が出る」
「で? 誰が踏むの? 俺、裸足になるの苦手なんだけど」
祐輝が半笑いで抗議するが、丈がすでに黙ってビニールを敷いていた。
「人が踏んだ分だけ“強くなる”って……まるでチームみたいだね」
裕美がそう呟いたとき、弥一が小さくうなずいた。
「踏むときな、“心を空っぽ”にするのがコツや。考えごとしながら踏むと、コシが乱れる」
「料理って、考えるばかりじゃダメなんですね」
「ちゃう。考え尽くしたあとに“手放す”時間がいるんや」
黙々と踏み、寝かせ、切る。
その一連の動作のなかで、チームの会話が減っていく。
そして、できあがったうどんを釜から引き上げ、つゆにくぐらせる。
「……うんま」
「シンプルなのに、沁みるなあ……!」
祐輝とオスカーが声を揃える。
だが、さくらだけは、器を前にして手を止めていた。
「……なあ、どうした?」
「……この味、十年前におばあちゃんと一緒に来たときのまんまだ」
彼女の目の奥が、わずかに潤んでいた。
「そうか。……じゃあ、忘れられない料理って、本当にあるんだな」
健斗はその横顔を見つめ、静かにそう言った。




