第1話_焦げ付いた執念
2025年6月25日、東京・墨田区。蒸し暑さが夜になっても残る午後十時すぎ。
細い路地に面した木造の食堂「おかめ食堂」では、古びた天井扇がかすかにうなりを上げていた。厨房の奥で包丁を握る健斗は、誰もいない店内に黙々と刻む音を響かせている。
タマネギを刻み、ネギを刻み、人参を刻み……白いまな板の上で均一に並ぶその断面は、機械のような正確さを感じさせた。調理台の脇には、一冊の古びたレシピ帳が開かれている。表紙には「おばあちゃんの味ノート」と手書きの文字。ページにはびっしりと、細かい字と油染みが交錯していた。
火加減、中火→弱火→とろ火。
だし汁の分量、小さじ1/2単位まで。
「煮立ったら三秒数えて蓋。せっかち厳禁」などというメモまで、祖母・光江の几帳面さが滲み出ている。
「……この通りやっても、あの味には届かない」
健斗は眉間に皺を寄せ、味見用のスプーンで汁をすすった。昆布と鰹節の香りが広がるが、記憶にある“あの味”にはまだ遠い。
彼は迷いなく鍋を火から外し、再び一から出汁を取り直す準備を始めた。
そのとき、玄関の引き戸がカラリと開いた。
入り口に立っていたのは、涼しげな白のシャツワンピースを着た女性。長い髪を一つに束ね、肩からエコバッグを提げている。
「……やっぱりいた」
彼女の声に、健斗は顔を上げた。
「さくら?」
「遅い時間にごめん。でも、たぶん今も仕込みしてると思って」
さくらは靴を脱いで、厨房の手前にある客席にそっと腰を下ろした。彼女の視線は、鍋に注がれたままの昆布と、散乱した材料たちをなぞる。
「相変わらず、真っ直ぐね。燃え尽きそうなくらい」
「無駄な火は使ってない。温度管理も、タイマーも、完璧に――」
「違うの。そういう話じゃないのよ」
さくらは、そっと彼の手元にあるレシピ帳を見つめた。
「光江さんの味を、全部再現したいの?」
「いや、超えたい。ばあちゃんが目指してた“笑顔になる一皿”を、自分の手で世界に出す。それが、俺の――」
言葉を止め、彼は口をつぐむ。
「世界料理王決定戦、でしょ?」
さくらの口元がやや歪んだ。それは微笑とも、呆れともとれる中間の表情。
「去年も応募して、締切に間に合わなかったんだよね?」
「今年は違う。八月、浅草ホール。地区予選に出る」
健斗の瞳は、焦げつきそうなほど熱を帯びていた。
さくらは一瞬、言葉に詰まった。かつての彼を知っている――まっすぐで、引くことを知らず、追い詰めてでも進む彼の姿を。
「勝ちたいんだね」
「ああ」
「でも、あの時――光江さんが私に言ってたの。健斗は“勝ち”に囚われやすい子だから、料理は“心に残す”ものであってほしいって」
健斗の手が、ぴたりと止まった。スプーンを持ったままの指が小刻みに震えている。
「……そんなこと、言ってたのか」
「うん。負けても、誰かの記憶に残る料理。それがいちばん素敵だって」
健斗はしばらく無言で、まな板を見つめていた。だが次の瞬間には、いつもの執拗さで包丁を再び握った。
「心に残す料理ってのも、悪くない。でも、その前に、俺は勝たなきゃ気が済まないんだ」
さくらは、黙って彼の背中を見つめていた。その背中には、火傷のような執念が、確かに燃えていた。
「じゃあ、せめてさ。私にも味見させて。光江さんの味を知ってる人間として、ね」
さくらは立ち上がり、カウンター越しに小鉢を手に取る。健斗は無言で、試作中の汁をよそい入れた。立ち上る湯気が二人の間をふわりと揺らし、湿気とともに懐かしさを運んだ。
「……あ」
さくらがすする音と同時に、瞳がかすかに見開かれた。
「これは……まだ途中。でも、なんか懐かしい」
「途中、か」
「うん。まだ“思い出の味”には届いてないけど……健斗の“今”が加わってる。そういう意味では、進んでる」
健斗は黙って鍋を見つめた。さくらの言葉は、過去と今の距離を測る物差しのように響いた。
時計の針が、午後十一時を回る。厨房の隅で鳴る古い壁掛け時計の音が、ふたりの間に静けさをもたらした。
「光江さんが亡くなって、もう三年だね」
さくらの声は、少し遠くから聞こえた。健斗はうなずいた。
「思い出すと、いつも同じ夢を見る。光江さんが、台所で出汁を取ってて、俺が焦って見てる。火加減も、塩の量も分からなくて、汗だくだくで……」
言葉が詰まる。手の中の包丁を置くと、健斗はレシピ帳をもう一度見つめた。
「世界料理王決定戦で、あの味を世界に出す。それだけが、今の俺の意味なんだ」
「じゃあさ」
さくらは声のトーンを落とした。
「私、手伝うよ。味じゃなくて、記憶を繋ぐ方で」
「記憶?」
「私、光江さんから“食べ方”をたくさん教わったの。“出汁の香りがしたら、すぐ口に入れないで、一拍待つ”とか、“噛んだあとで飲み込む前に、誰かを思い出すと味が変わる”って。意味わかんないでしょ?」
健斗は噴き出しそうになったが、ぐっとこらえて苦笑した。
「そんなの、レシピに書いてねえな」
「だからよ。記録に残らない味の記憶、私が言葉にして伝える。予選に出るなら、それもきっと武器になる」
健斗は、さくらのまっすぐな目を見た。勝ち負けにこだわらないはずの彼女が、なぜここまで言うのか。だが、今の彼にはその問いよりも――
「チームを組むってことか?」
「そう。でも私は、料理はしないよ。味と記憶の“語り部”。それでいいなら」
「……いい。むしろ、それが要る」
ふたりの間に、目に見えない拍手のような空気が流れた。厨房の電球が一度だけチカッと明滅し、ふたりの顔を柔らかく照らした。
その夜、健斗は仕込みをやめ、初めて椅子に座った。さくらは、台所の隅に置いてあった急須でほうじ茶を入れると、ふたりで静かに茶をすすった。
厨房の熱気も、鍋の焦げつきも、少しだけやわらいだ。
そして、健斗の目の奥に再び宿ったのは、ただの執念ではない。“誰かに残すための味”という新たな炎だった。
――次の朝。
陽が昇ると同時に、健斗は紙と鉛筆を握り、作戦を練り始めた。目指すは、八月十日の浅草ホールでの地区予選。残された時間は、わずか四十七日。
「やるしかない。なら、やり抜くだけだ」
鍋の焦げは落とせる。だが、心に焦げ付いた執念は、彼を前に進ませる炎となって燃え続ける。