第3話:土曜日の出社と、動揺の朝。
――その夜、私はあまり眠れなかった。
頭の中を、先輩……耕助さんのメモの文字が何度もリフレインする。
「帰って風呂、ちゃんと入るんだよ」
ごく当たり前の、でもすごくあたたかい言葉。
そして、あの唇に残る感触。
(……あれは、気のせいじゃなかった)
キスをされた――そう、思わずにはいられない何かが、そこにあった。
でも、怖かった。
恋が始まることじゃない。
それ以上に、「推しだった彼」と「職場の先輩」が同一人物であるという、この現実を受け止めきれなかった。
(この気持ちがバレたら、すべてが崩れてしまう)
私はそう思いながら、眠る努力をしようと目を閉じた。
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朝、携帯の目覚ましが鳴る前に、私は目を覚ました。
部屋の時計は8:20。
(やばい、ギリギリだ)
慌ててベッドから飛び起き、顔も洗わず、化粧もせず、髪もボサボサのまま、ワンピースにカーディガンを羽織って家を出た。
電車に乗りながら、自分の顔を窓に映して確認したけれど、もう間に合わない。
(とにかく会社に行こう。遅刻するわけにいかない)
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ところが――。
会社に到着すると、様子が違った。
いつもより静かで、オフィスに誰の気配もない。エレベーターも止まったまま、フロアの明かりも部分的にしかついていない。
(……あれ?)
一瞬、不安が走った。
まさか、全員リモート?もしくはシステム障害?
そのとき、廊下をモップがけしていた清掃のおばちゃんが、私に気づいて声をかけてきた。
「お姉さん、今日は出勤日じゃないでしょ。土曜日よ?」
「……えっ?」
私はフリーズした。
携帯を取り出し、画面を確認する。
確かに8:20。けれど、見落としていた。
画面の左上に、ちゃんとこう表示されていた。
[土]
「……え、ええええええええっ!?!?」
思わず叫びそうになる声をなんとか飲み込んで、私はその場でしゃがみ込んだ。
(昨日の疲れと……耕助さんのキスのせいで、完全に曜日を見落としてた……!)
私は立ち上がり、上司に恐る恐る電話をかけた。
「す、すみません……土曜なのに会社に来てしまいまして……一応、契約見直しの資料が気になって……」
電話の向こうの部長はしばらく黙ってから、苦笑まじりにこう返した。
『休日出勤手当、検討しとくよ。だけど、ちゃんと休め。今週は十分働いたろ?』
「……はい」
気まずさと同時に、ほんの少しだけ救われた気がした。
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デスクに戻り、私はひとり契約資料を広げて再確認を始めた。
再提出後の返答は月曜以降だが、私はどうしてもミスの再発が怖くて仕方なかった。
ふと、内線のある回線が光った。
「……はい、香坂です」
『あっ、お世話になります、◯◯印刷の小田です。実は……昨日ご連絡した件で』
(あ、よかった。あちらは土曜も営業してるんだ)
私は思い切って事情を伝え、相手の若い女性社員と資料の内容を改めて確認し合った。
30分ほどで問題点が明確になり、次の一手が見えてきた。
電話を切る頃には、少し心が軽くなっていた。
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時計を見ると、11:00を回っていた。
ようやく少し落ち着いて、自分の状態に意識が戻る。
(……そういえば、化粧してないんだった)
窓ガラスに映った自分の顔は、ひどく疲れて見えた。
けれど、少しだけ頬が赤いのは、なぜだろう。
私は、昨日のことを思い出していた。
耕助さんのメモ。
あの声。
あの、たぶん、キス。
(好きだと思ってるだけでいいって、思ってたのに……)
静かなフロアの片隅で、私はふとつぶやいた。
「ほんとに……どうしよう」
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■香坂眞衣の心の声・昼のメモ:
「今日が土曜じゃなかったら、
たぶん私はもう少し冷静でいられた気がする」
「動揺って、怖い。
……そして、恋って、もっと怖い」