第2話:崩れた契約と、あの日のキス。
月曜の夜、私は眠れなかった。
というか、眠れるはずがなかった。
推しが会社にいる。それだけでも十分現実感がないのに、「あれ?君、会ったことある?」なんて言われて、私は嘘をついた。
そしてなにより——私の“嘘”を、あの人は信じてくれた。
(ごめんなさい。でも……私、本当に、バレたくなかった)
心臓がずっとドクドクいっていた。
けれど翌朝は容赦なくやってくる。プロジェクト契約が無事完了した安堵感と、昨日の余韻を振り払うように、私はいつもより30分早く出社した。
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午前10時。
プロジェクトチームのリーダーから、社内グループチャットに唐突なメッセージが飛び込んだ。
【至急】契約先から連絡あり。
昨日提出した資料の一部に不備ありとのこと。再度確認を。
「はっ……!?」
驚いて席を立とうとした瞬間、内線が鳴った。
「香坂さん、すぐに会議室Bに来て。至急」
電話越しの上司の声は、明らかに焦っていた。
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会議室には、部長、課長、取締役、そして社長。まさかのメンバーが揃っていた。
私は契約時に担当したフローを一つひとつ冷静に説明する。相手側から送られた最新のフォーマットに合わせたはずなのに、向こうのチェックミスで前バージョンの仕様で処理されていたらしい。
(……つまり、こっちのせいじゃない)
けれど契約書類の修正には時間がかかる。それでも、私は手を挙げた。
「すぐに修正して、今日中に再送します。必要があれば、再訪問も可能です」
役員たちは顔を見合わせて頷いた。
「君、落ち着いてるね。よくやったよ」
……と、社長が静かに言ってくれたその一言で、張りつめていたものが少し緩んだ。
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時刻は午後7時。
契約書類の再提出も終え、資料を整えてようやく自席に戻ったとき、あまりの疲労に私はそのまま机に突っ伏してしまった。
(ちょっとだけ……目を閉じよう……)
—
……そして次に目を覚ましたとき。
時刻は21:13。
あたりには誰の気配もない。会社の灯りもほとんど落ち、静まり返っていた。
「やば……寝てた……!」
慌てて姿勢を戻した私の目に、ひとつの紙が映った。
それは、私のデスクの上に置かれていた。
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【がんばってたね。おつかれさま。】
【帰って風呂、ちゃんと入るんだよ】
— 耕助
直筆の、柔らかい字だった。
そのメモを見た瞬間、私の心臓はまたしても跳ね上がる。
(えっ……先輩、来てたの!?)
寝ている私に気づかず帰った? いや、気づいたからこそ、こんなメモを?
私は慌てて周囲を見回し、PCの電源を落とそうとした時、ふと、違和感に気づいた。
唇が、少しだけ、変な感触がする。
(……なんだろう、これ)
それは乾燥したとか、そういう問題ではなかった。
ただ——
「……まさか、キス……なんて、するわけないよね……?」
私は赤くなった顔を手で隠しながら、メモをそっとバッグにしまった。
(でも、あの人がこんなことする人……かな)
答えは出ない。けれど、心臓のドキドキは止まらない。
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帰り道、私は地下鉄のホームでぼんやりと電車を待っていた。
スマホを開くと、さっきの手書きメモの文字が頭の中に蘇る。
「帰って風呂、ちゃんと入るんだよ」
何でもないその一言に、なぜか涙が出そうになった。
(……優しい)
—
深夜、家に戻ってから、私は疲れた体をシャワーで洗い流し、簡単な夕食代わりにコンビニで買ったバナナスムージーを飲み干した。
そしてベッドに入って目を閉じた瞬間。
(……やっぱり、あれはキスだったんじゃないかな)
と、無意識につぶやいていた。
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■香坂眞衣の心の声・夜のメモ:
「私は、嘘をついた。
でも、あの人は……あのキスで、私の全部に触れてきた気がした」
「好きになっちゃ、ダメなのに」