第1話:はじまりは、推しとの再会から。
月曜日の朝。まだ5月なのに、もう夏の匂いがしていた。
「……っし!」
私は通勤途中のコンビニで買ったペットボトルのカフェラテを片手に、自分に気合を入れた。今日は、私にとって大きな山場だ。3ヶ月前から準備してきたプロジェクトの契約日。緊張で手のひらが少しだけ汗ばんでいるのがわかった。
広告会社・エイトリンクスに新卒で入社して3年。やっと自分の名前で任された案件が、ようやく今日、契約締結を迎える。
「大丈夫、やれる……!」
自席に戻って書類を最終確認し、取締役の一人と同行してクライアント先に向かった。契約は無事に終了。先方の部長さんも笑顔で「これからよろしくお願いします」と言ってくれて、私は一瞬、目頭が熱くなった。
その日の昼休み、私はひとりで社内の小さなラウンジにいた。あまり人が来ない場所。こっそりコンビニで買っておいた小さな紙パックのぶどうジュースを取り出し、ストローを差す。
「よく頑張った、私。乾杯──」
そう、呟きながらストローを口にくわえた瞬間だった。
「……あれ? 君、なんか見たことある気がする」
後ろからふいにかけられたその声に、私は思わずストローを吹き出しそうになった。
振り向くと、そこにいたのは──
黒のスーツを着こなし、端正な顔立ちにどこか見覚えのある、けれど初対面のような…そんな不思議な既視感を覚える男性だった。
「ご、ごめんなさい……初めまして、ですよね?」
「……そっか、こっちの勘違いかな。でもなんか、君の目……見たことある気がしたんだけどな」
その人は、少し寂しそうに笑った。
その瞬間、私は確信してしまった。
──この人は、「Flare★Star」のKOSUKEだ。
あの、今やチケット即完売の国民的アイドルグループ。その中でも、最年長でクール系ポジション。私が中学の頃からずっと応援していた人。
けれど彼の名前は、確かに「灥 耕助」ではなかった。芸名は別だった。でも、顔、声、身長、雰囲気……すべてが一致していた。
「……あの、もしかして──」
私は思わず口を開きかけて、すぐに言葉を飲み込んだ。
(言っちゃダメ。これ以上は、アイドルとしての彼を壊してしまうかもしれない)
そして私は、笑ってこう言った。
「いえ、私もそういうこと、よく言われます。人の顔、覚えるの得意じゃないんですよ」
嘘だった。嘘をついた。
けれど、そのときの彼のほっとしたような表情を見て、なぜか心が苦しくなった。
彼は一礼して、そのままフロアに戻っていった。
私はただ、立ち尽くした。
(どうしよう……私の“推し”が、目の前にいるなんて)
⸻
その日の夜。私は学生時代からの親友・里英にLINEで報告した。
まって、りえ…やばいかも
今日から会社に入ってきた先輩、絶対KOSUKEなんだけど
本名ちがうし、名字も変えてるけど…顔が、声が、ぜんぶ一緒
え、嘘でしょ!? え、やばくないそれ…やばいやつじゃん
てか、それって運命じゃん?
いやいや、ただの偶然だってば…
いやいやいや、絶対行けるって!あんた昔からずっとKOSUKE推しだったじゃん!
告白しちゃえって!てか彼、まだグループやめたって発表されてないでしょ?
それなんだよね…休止中ってだけで、まだ在籍中なんだよね…
なんで会社に…?
⸻
その夜、私は何も食べずにベッドに倒れ込んだ。
何もなかった一日だったはずなのに、心臓はずっと早鐘を打ち続けている。
あの声。あの目。あの距離。
(夢でも、幻でもない……)
彼が、私の会社にいる。
しかも、私の2つ上の先輩として。
(もう、絶対にバレちゃダメだ……好きってことも、推しだったってことも)
そう心に誓ったはずなのに──
「……どうしよう、やっぱり、好きだ」
ぽつりと、呟いてしまった。