紅に染まる京の姫君
常磐は、京の姫君に長く仕える侍女である。
主の名は清子。高貴な家柄の娘であったが、数年前、鎌倉の若武者・北条秀時と婚姻した。これは朝廷と幕府による政略であり、清子に選択の余地はなかった。
清子は生来身体が弱く、幼い頃からたびたび熱を出しては床に伏していた。そんなか細い身で、荒々しい武士の妻を務めるなど無理な話だ。主の哀れな運命に常磐は幾度も涙したが、どうすることもできなかった。
夫となった北条秀時は、時の執権の甥で、文武に秀でた美貌の若武者と聞く。だが一方で、冷徹にして非情、殺生をも厭わぬ恐ろしい男だとも噂された。両親を執権に殺され、自らも政の道具として政略結婚させられた不遇の身である。
京で形式だけの祝言を挙げたものの、夫婦が共に暮らすことはなかった。これもまた、朝廷と幕府による取り決めで、互いを人質とする策であった。
年に数度、秀時が京へ上り、幾日かを共に過ごしてはまた離れる。常磐は当初、野蛮な鎌倉武士に対して強い恐れと嫌悪を抱いていた。
だが、清子は次第に違っていった。初めは怯えていたものの、秀時の訪れを重ねるうちに、いつしかその再会を心待ちにするようになった。
深窓の姫である清子には、比較対象となる男などいない。ゆえに恐ろしげな男に惹かれるのだと、常磐は必死に諫めたが、清子の心には届かなかった。
「見た目は厳めしくとも、本当はお優しい方だと思うの」
優しいのは清子の方だ、と常磐は思った。
清子は、鎌倉から訪れる夫と従者たちのため、屋敷の者に細やかに指示を出した。温かな風呂、温かい食事、清潔な衣、更には庭を整えて馬を繋ぐ場所まで用意せよと命じた。侍女の中には驚きのあまり卒倒する者もいた。
初めは京方と鎌倉方の間で衝突もあったが、幾度かの訪問を経て互いに慣れていった。秀時も、粗暴な振る舞いはせず、清子に対して無体に及ぶこともなかった。
また、鎌倉に妾を持つような素振りもなく、清子の正室としての立場を脅かすことはなかった。彼は、清子を恐れさせぬよう配慮し、訪問時は従者を連れず、身を清め、帯刀もせずに現れるのだった。
ある日、秀時の到着を知らせる声を聞いた清子は、嬉しさを隠せぬ様子でそわそわとした。
「用意した装束の丈は、合うかしら……」
儚げな乙女は、いつの間にか、美しい恋する女人へと変わっていた。
清めを終えた秀時が清子のもとを訪れた。背の高い偉丈夫、鋭い眼差し、無表情。何もかもが清子とは正反対である。
常磐は平伏し、秀時が部屋に入ると緊張を募らせた。主が傷つけられはしまいかと、息を詰める。
やがて、秀時が部屋を出た。常磐は急ぎ中へ入り、清子の様子を確かめた。
「大事ございませんでしたか?」
「大丈夫よ。旅のお話を聞かせていただいていたの」
口数の少ない秀時は、清子の願いに応え、鎌倉や旅の話を少しずつ語ってくれたのだった。
常磐はふと、清子の口元に目を留めた。
「紅を……差されましたか?」
清子の頬に、ぱっと朱が差す。口よりも赤かった。
「秀時様が、旅の途中で買ってきてくださって……」
恥じらいに染まるその顔を見て、常磐は呆れた。
「旅の途中でなど言語道断。姫様は最高級の品を贈られるべき御方です」
「立場上、それも難しいのでしょう。それでも私のことを思ってくださったのが嬉しくて……」
「その腑抜けたお顔は何です?それに、紅をどうやってお一人で?鏡もお持ちでなかったでしょう」
清子の頬はさらに紅を増し、ついには首筋まで染まった。
「まさか……秀時様が?」
俯いたまま、清子は答えなかった。
そんな折、思いもよらぬ報せが届いた。
「左大臣家の宴を、秀時様が断られた?」
常磐は驚愕した。到着の夜は必ず宴に出席する手はずのはずだった。
「今宵は、こちらで休まれると……」
言伝に、清子はまた紅に染まり、常磐は渋々、清子の身支度を整えた。
「猛犬に可愛い子羊を差し出す気分です」
「秀時様は猛犬などではありませんわ」
夜着姿の秀時が現れたとき、その印象は一変していた。武士の威圧感は影を潜め、どこか静謐で気高い雰囲気すら漂わせていた。常磐は思わず息を呑んだ。
(これでは姫様が骨抜きに……)
翌朝、若い武士がひとり、寝所の前に現れた。
「秀時様が早駆けに現れぬ。間違いなくここにおられるのか」と騒ぎ立てる。
静かな朝に、なんとも無礼な男である。これ以上大声を上げられては困る。渋々ながら寝所の中へと足を踏み入れ、室内の様子をそっと窺った。秀時の機嫌を損ねて斬られでもしたらたまらない。
話し声に気づいたのか、秀時が奥から姿を現した。平伏していたため顔は見えなかった。
「どうしたの……?」
奥から、少し眠たげな声が響く。
清子が褥の上でゆっくりと身を起こしていた。
「姫様! ご無事で……。ああ、おいたわしや……」
清子はとろりとした表情で、黙って微笑んだ。
「紅が……落ちておいでです」
清子は指先でそっと唇に触れた。その仕草の艶やかさに、常磐は思わず胸を鳴らした。
従者を下がらせ、手早く身支度を整えた秀時が、再び寝所へと戻ってきた。
「悪いが、もう行かねばならぬ。起こしてしまってすまぬが……ゆるりと休まれよ」
「秀時様……」
清子は頰を染め、潤んだ瞳で夫を見上げた。秀時は引き寄せられるように清子の前に膝をつき、そっとその頰に触れた。ふたりはしばし、そのまま見つめ合う。
名残惜しさを無言で交わす姿は、まるで一幅の絵のようだった。
「今宵、また参る」
そうひとこと残し、秀時は部屋を後にした。
はぁ――
清子の吐息には、何とも言えぬ艶が宿っていた。
「姫様、姫様……?」
常磐が呼びかけると、清子は静かに答えた。
「姫様と呼ぶのは、これでおしまい。これからは“奥方様”と呼んでちょうだい」
常磐は納得がいかなかった。
「年に数度しかお逢いになれぬお方に恋をされても、奥方様が辛くなるばかりにございます」
常磐はそれが気がかりだった。離れて暮らすうちに、相手の心が移ろい、悲しい想いをする日が来るかもしれない。
「私も、鎌倉へ……逢いに行こうかと」
清子の呟きに、常磐は思わず息を呑んだ。
「外の世界に興味があるのなら、一度鎌倉に来てみたらいい――そう、秀時様がおっしゃって」
か弱い姫君にとって、危険な旅などもってのほか。何を吹き込むのか、と常磐は憤りを覚えた。
「秀時様が話してくださる海や山……死ぬまでに一度は、この目で見てみたいの」
生き生きと語る清子の顔を見て、常磐はあきらめ半分、呆れ半分でつぶやいた。
「奥方様がお幸せそうなのは、何よりでございます」
かつてはか弱かった姫君が、またひとつ大人びた笑みを浮かべた。