三幕――前編
携帯が鳴っている。
ゴジラのテーマ。
それはつまりあたしの兄貴からの電話で、あたしはこれを実に三回無視している。
最近無視するのは、このゴジラのテーマと見知らぬ携帯着信。以前から幾度か同じ番号から掛かってきているのだが、生憎とあたしは知らぬ番号には出ないように心がけている。
謎の因縁とかつけられてはたまらないからだ。
――エロエロサイトの料金払って下さいよ! などお断りだ。
ま、さくっと着信拒否設定しましたが。
「出ないの?」
夏木フミカが不思議そうに首をかしげ、あたしはシャープペンシルの先端をこつこつとプリント用紙に押し当てながら「んー」と曖昧な返事を返した。
「彼氏?」
「兄貴」
「なんだ、つまらなーい」
フミカは言いながら無造作にあたしの携帯を手にとり、あろうことか電話に出た。
「こんにちはー」
って、いったい何をするか。
あたしはうんざりとしながらフミカを睨んだ。まるで近所のおばさんよろしくフミカは兄貴とぽんぽんと会話を交わしている。あたしは溜息をつきつつ、提出用の書類を書き上げた。
「今ですかー? 秋ちゃんは新潟です」
そう、現在は新潟。
就職が決まった先の本社である新潟に研修の為に三泊四日で来ている。どうにも気楽な様子のこの会社ときたら「研修といっても、うちの酒を飲んで観光するつもりでおいで」
ときたものだ。実際来てみればそんなにお気楽なものではない――ということもなく、本気で皆気楽な感じで楽しんでいる。来た途端に案内されたのが某野球漫画のキャラクター銅像が立ち並ぶアーケードだった。
――本当に観光だった。
就職活動中の苦しさはいったい何だったのだろうか。
そしてこの研修も三日目。今夜もお酒を飲んで騒いで、明日の昼ごろには帰宅という寸法だ。
「よければ来てくださいよー。今日が最終日で打ち上げ宴会ですから、おいしいお酒ご馳走しますよ! 部屋は秋ちゃんと一緒でよければ布団入れますし」
けらけらと言うフミカは、実は就職先の酒蔵で酒を作っているいわゆる杜氏さんにして社長の娘さんだ。基本的に沢和泉酒造が作っている酒はオートメーション化が進んでいる。けれど本社では昔ながらの作風、手間と時間を惜しまずきちんと一級酒と言われる地酒を造っているのだ。
「結局ね、丁寧に作っても数は作れない。それを守るためには他のこともしなくちゃならない。イロイロと難しいんだよ」と、昨日の夜フミカは酒を飲みながら肩をすくめた。
「でもだからといって適当な仕事したいなんて思ってないよ。うちで働く人にはちゃんとそこを判って欲しいなぁ。うちの大プッシュは地酒の『和泉涼泉』だけどね、それと同じように美味しいお酒を機械でどんだけ美味しくつくれるかの研究、それがつまり秋ちゃん達の仕事なの」
ちなみにビールも造ってますよ。
「最近はノンアルコール。これは秋ちゃんは判ってると思うけど、結局醗酵させてないだけで原料はアルコールの入っているビールと一緒」と、フミカはお酒が大好きらしく切々と語ってくれた。
――一升近く酒を飲みながら。
そんなのに今日も付き合うかと思うと、死にそう。
勿論、あたしは途中からノンアルコールビールに移行しました。一番笑えたのは、自社以外の酒もばんばん出たこと。
――他社と飲み比べないと自分のトコの味に太鼓判押せないでしょ。
などと誰かが言っていたが、ただの酒好きだろう。
日本酒、ワインにウィスキーと酒の香りも千差万別。
「じゃ、またー」
ぷちりと電話を切ったフミカはにまにまと「お兄さんいい声してるねぇ」と言うが、あたしは苦笑した。
「声だけはね」
劇団の仕事で、時々ナレーションのようなことをすると聞いたことがある。最近はどうだかしらないが、以前は結構あの声が重宝したようだ。ただし、声は声。兄貴は顔と声とをあわせると途端に幻滅されてしまう生き物だった。
――無精ひげ剃ればもう少しどうにかなりそうだというのに。
「秋ちゃんのこと心配してたよ? どうしてこっちにいるって教えなかったの?」
「一緒に暮らしてないから」
「ああ、そっか」
フミカはどうやらあたしに関しての書類には目を通しているのだろう。一人で納得し、
「お兄さん来れたら来るって」
「いやいや、来ないよ」
ただの社交辞令。
兄貴は出不精だもん。あたしは苦笑しながらフミカの手から携帯を引き取り、自分のポケットの中に落としこんだ。
「じゃ、次は酒蔵の見学だけど、その前にちゃんと髪とか帽子の中に入れておいて」
係員の言葉に「はーい」と新入社員数名の声が重なった。新入社員の大半は新潟本社務めで、今年東京支社にはいるのはあたし一人だということだった。他の子達はこちらで勤務となる。
だが直接中を見ることは適わない。見学はあくまでもガラス越し、その手前でもしっかりと消毒作業がある。
「納豆菌とか入ると大変だからさー」とフミカは肩をすくめた。昨日の夜もそんなことを言っていて、ふいに顔をしかめて「納豆って美味しいの? うちじゃ危険物扱いで出ないんだよねー」と肩をすくめていた。
「そうそ、遠慮しないでね。濾してない濁り酒飲みほうだいだぞー」
……もういいって。
米の形がわずかに残る濁り酒は、まるで見た目は粥のようだったが、味も香りもやはり酒だった。
とろりとした液体に砕け、形を成さない米粒が踊る。
昼間から酒臭い面々は蔵の見学を経て昼食を済ませ、またしても朱鷺メッセコンベンションセンターなどの観光をさらりとすませた。
他の観光客があからさまに嫌な顔をしているのは、この集団がやたら酒臭かった為に違いない。ええ、きっと間違いありません。
昼間っから酒臭っ!
ずんっと沈んだあたしだったが、フミカはばしばしと陽気にあたしを叩いた。元々彼女の性格が明るいのか、それとも酒のせいなのかは完全に判らないところだ。
「この仕事に入ったら酒臭いのは当たり前! 気にしない気にしなーい」
と絶対に気にせずにはいられないような話をする。挙句、マイクロバスを運転していた梶原さんはお酒を飲んでいないというのに、警察官に職質を受けていかめしい顔で「息を吐いて」という意味合いの言葉を向けられていた。
最後に海沿いで綺麗な夕焼けを眺めて本日の観光が終了――研修らしい研修といえば、酒蔵を見学した時くらいのものだった。
ゆっくりと沈む太陽の淡いオレンジが滲んで海と交わり消えていく様を見つめながら、あたしは溜息をついた。
就職が決まって半月。あたしはあれ以来『つゆねぶり』に顔を出すことも、影浦さんに電話をすることもない。もともと、自分から電話をしたこともメールを送ったことも無かった。いつだってあの人からの電話を受けていただけで、そしてメールに返信をしていただけ。
つまりそれは――この半月というもの、あの人からは一切連絡が無いということだった。
迷って、すごく迷って買ったバレンタインのチョコ。
可愛らしいハートのボックスにも手が出せず、ただありきたりの四角い箱に少し大人びたボンボンの入った外国製のチョコレートを選んだ。手作りとかちらりと浮かんだ考えは簡単に捨てた。
それはつまり、イイワケなんだって気付いてる。
ただの義理チョコみたいに処理してもらえればいい。それ以上の気持ちを、汲み取って欲しい。
下らない自己保身。
本当に下らない。
最後、どんな会話をしたっけ……他愛も無いことだったと思う。
他愛も無い、つまらないこと。
――友達の距離が判らない。
些細なことで電話をすればいいように感じるのに、その些細なことの線がわからない。
「今日はいい天気だね」
なんて、言われても困るでしょ。
――就職が決まりました。
――研修で新潟に行くんです。
……そんなこと、友達に言うのかな。言うかな。言わないかな。そんなことに興味なんかないかな。
そんな下らないことに悩んだあたしは、結局見ないふりでやり過ごす。
溜息が、落ちた。
「だから?」
なんていわれたら、どうしたらいいの……
ふいにぽんぽんっと肩を叩かれ、あたしは慌てて目元をぬぐった。
「なに?」
「携帯、鳴ってるよ? お兄さんからじゃない?」
仲良しだね。なんてフミカは言いながらあたしの鞄を示し、あたしは慌てて鞄から携帯を取り出し、耳に当てた。
「わりぃな」
いつもの気楽な調子の兄貴の言葉に、あたしは何故かむっとしながら「なにが」と聞き返えした。
「いや、やっぱ行けなかったからさ」
「ああ、期待してないし」
「正直酒は残念だった」
本心かららしい言葉に、あたしは小さく笑った。
「明日帰って来るって?」
「うん。明日の昼の電車に乗って帰る」
「何時の?」
「正午に出るヤツ」
正確に言えば十二時十一分発、新幹線MAXとき324号――スゴイよね、二時間ちょっとで東京駅につくんだよ。と笑えば、兄貴もおざなりに「すげぇな」と返す。
それから、兄貴は口調を改めた。
「あのさ」
「うん?」
「なんか悩んでるとかあれば、ちゃんと言えよ? おまえ、最近ちょっとへんだわ」
……あたしは正直面食らった。
ずぼらな兄貴が、本当に兄貴なのだと妙に感じて、それから噴出した。
「愛してるよ」
だから喜びの気持ちを込めて言えば、兄貴はしばらく無言で「いや、それはまずい」などとわけのわからないことを言い出し、更にあたしは噴出した。
「馬鹿じゃないの!」
笑いながら電話を切って、それから……勢いにまかせた。
何も考えないで、相手のことも考えないで、勢いだけで電話をする。迷惑だとか、時間がどうとか考えない。いいじゃないか拒絶されても。
三度のコール音、電話が接続される音と、吐息。
「はい、もしもし」
低く心地よい声が、耳の奥をなぞる。
途端に胃の奥がきゅうっと締め付けられるような感覚で、あたしは泣きたくなりながらゆっくりと口を開いた。
「秋都です」
「うん」
「就職、決まりました」
「うん。おめでとう」
「今、研修で新潟に来てるんですよ。もう日が落ちてしまったけど、沈む夕日がとても綺麗でした」
「そう」
短い返事にへこたれたりしない。
「明日、会えますか?」
あたしは自分の心臓と戦いながらゆっくりと言った。
「会えますよ」
「――じゃあ、明日」
東京に戻って、いつもの時間に『つゆねぶり』に行こう。あたしは言いたいことを言い切り、ぴっと携帯を切った。
「秋ちゃん、バス行っちゃうよ!」
少し離れた場所でフミカが大きく手を振っていて、あたしは慌ててそちらへと走っていった。