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二幕――後編

 わざと会いに来たの。

いるのは判っていたから、わざと会いに来なかったの。

けれど、今日はわざと会いに来たの。


 自分の中にあるぐるぐるととぐろをまくような感情の答えを知りたくて。

顔を合わせれば、きっと何かがかわるような気がして。

けれど何も変わらなかった。影浦さんはいつもと変わらず、穏やかな微笑を湛えて余裕たっぷりの大人の顔で対応し、あたしを見ても喜んだり悲しんだり疎んじたりしなかった。


あたしはグラスの中の氷が溶けて、からんっと小さな音をさせたことでやっと体を動かした。腹式呼吸の要領でゆっくりと腹部に空気を溜めて、ついで唇の隙間から細く長く息をつく。

――なんだろう、この敗北感。なんというか、フラレタ感?

 ああ、腹たつ。

何が仕事だ、馬鹿野郎。どうせデートなんだ。いいですよ。きっと新里美晴二十五歳OL(決めつけ)と仲良く過ごしているんでしょうよ。そりゃそうですよね。友達と遊ぶより彼女と遊ぶほうがいいに決まってますよ。ああいうオトナは「お友達からはじめましょうね」なんてばかげたことなんてやってられないんでしょうよ。


ふんっだ!


 あたしはね、現在就活真っ盛りなんです。忙しいの。男のことなんぞにかかずらってなどいられません。自分の将来のことが大事です。

 麹菌と仲良く永久就職する為にも、ここで馬鹿げたことに思い悩んだりとか駄目なんだよ。


 きっと新里美晴二十五歳OLは影浦さんと並んで立っても見劣りしないくらい美人さんでそつがなくて、ミルフィーユだって綺麗に食べるのでしょうよ。って、もしかしてミルフィーユの食べ方を教えたのは新里和美二十五歳OLですか?


もう二度とあたしはミルフィーユを食べない!


「秋都ちゃん、ケーキそんなに美味しかった? よければもう一つ食べるかい?」

 あたしがいつまでもパイ生地の欠片をぐしぐしとつついていたのを見かねたように、影浦さんの飲んだカップを片付けているマスターが優しい声音がそう言ってくれたが、あたしは咄嗟にぎろりと相手を睨んだ挙句、

「もう絶対に食べない!」

とやけに力強く断言してしまった。

「だ、ダイエット中? えっと、ごめんね」

 うわ、何してるかな、あたし。

あたしはとりつくろうように笑い、

「ごめんなさい! あんまり美味しかったから。マスターのケーキはダイエットの敵だね。気をつけないと」

「今度はカロリーの低いものを考えてみるよ」

――なんというか、イロイロとごめんなさい。

 あたしは引きつった笑いをマスターに向けながら、残り少ないアイス珈琲をずずずっとストローですすった。


「ははっ、ご馳走様でした。幾ら?」

 いつもであればアイス珈琲だけなので値段は理解しているのだが、ケーキの代金は種類によってまちまちだ。だから値段を尋ねたのだけれど、マスターは軽く手をあげた。

「代金は影浦さんから貰っているよ」

「うぅぅ、そういうトコもそつがないよね」

「優しい彼氏さんだよね」

 さらりと言われた言葉に、あたしは苦いものを飲むような顔になって乾いた笑いを落とした。


「いやだな、ただの友達ですよ」


――自分の言葉が自分に突き刺さる。

あがいてあがいて、出口はいったいどこになるのだろうか。

見ているだけでいいなんて、嘘だ。


カロンっとカウベルの音を耳にいれながら扉をくぐり、あたしはどよんっとした冬の空を見上げた。今にも泣きそうな、ふいをついて雪がゆっくりと舞い落ちて来そうな空を。

 持ち手を肩に掛けて、脇で抱えるようにしている鞄から携帯を衝動で引き出した。

電話をしたら、出てくれる?

メールを送れば応えてくれる?

ねぇ、無視されたら、あたしはどうしたらいいか判らない。


「うさぎは……寂しくて死んじゃうらしいよ?」


 ぽつんと落ちた言葉に、あたしは溜息をついて携帯をしまいこんだ。

馬鹿みたい――あたしはうさぎじゃないし、うさぎは寂しさで死ぬなんてありはしない。


 うさぎはもっと(したた)かな生き物。

もっともっと、強くて、野生でも立派に生きていける生き物なんだ。



 沢和泉酒造の東京支社に内定をもらったのは本当にぎりぎりの二月間近。就職浪人が確定するのを覚悟して、焦りよりも諦めが滲み出したころ。どうやら先に決まっていた相手が内定を蹴ったというなんとも罰当たりな話で、幸運があたしの足元に転がり落ちて来たのだった。内定が決まり、一度説明の為に東京支社に挨拶に行けば、そこは日本酒とはまったくかかわりがないのではないかという程に整然とした研究所に他ならない。

 自社ビルというにはちっぽけな三階建てのこじんまりとした建物で、むしろ倉庫として作られている離れのほうが随分と大きい。

 東京支社は研究施設、そして主に商談と宣伝の為に使われているのだという。

「忙しい時は忙しいけど、暇なときは暇だよ」

と、あまり説明にならない説明を同じ部署で働くことになる先輩から聞き、それでもあたしは精一杯がんばりますと頭を下げた。

「ほどほどにね」

 ほどほどでも何でもよい。帰宅途中、真新しいスーツのぱりっとした裾を意味もなく引っ張り上機嫌で報告の為に携帯を鞄から引き出し、ついで困惑した。


――誰に報告するべきか?


 父親は海外にいったきり。仕事の関係といいながら、おそらく父親ときたら日本に戻ったところで家には寄り付かないから、もしかしたら今は日本にいるのかもしれない。だから溜息を一つついてあたしは兄の春樹に電話を掛けた。

 二度、三度。コール音が鳴ったところで兄貴は電話に出なかった。四度、五度。そこで諦めて、仕方ないとメールに切り替えた。


――就職決まったよ。お祝い期待してる。


 書き様がなくて、文字はそっけなくなった。 さすがにちょっとそっけなさすぎかと最後にハートを二つだけつけた。


 これで報告は終わり。

氷見には……今度会った時でいい。だから、これで報告は終わり。あたしはじっと携帯を見つめた。


「就職決まりました」


――影浦さんは、そう告げられたらきっと「おめでとう」と言うだろう。でも、その次は?

それで終わり?

 それに、実はそんなことに関心なんてないんじゃないかな。

 就職決まったなんて言われても困る? 何か就職祝いをねだっているように見えない?

あたしは喉の奥から競りあがるものにぐっと口を閉ざして、道端だということを思い出して慌てて道路の端、壁に寄り添うようにして身を縮めた。


 ああ、あたしは壊れてる。

こんなの絶対にあたしらしくない。

こんなの――絶対にあたしじゃない。あたしはもっと物事を冷静にみられた筈で、あたしはもっと動揺とかしないで、全てに対処してきた筈。

 両親が離婚した時だって、あたしはただ静かに受け止めていた。


 ぎゅっと強く握り締めた携帯。時計の文字盤に息をついて、眦に浮かび上がるものを手の甲でぐいと押し留めた。

 今ならまだ、電車に乗って――ううん、タクシーで行けば十分間に合う。

あの人はきっといつもと変わらぬ様子であの席に座り、転寝を楽しんでいる。

あたしの眠り姫。

 あたしの……あの人。

 あたしは覚悟を決めると、狭い路地から出て大通りへと足を向けた。タクシーを拾うのに少し手間取ったけれど、問題は無い。

 あたしはタクシーの中でもぎゅっと強く握りこみ、まるで呪文のように繰り返した。


――会いたい。


 あれからずっと避けて来た。

就職活動を理由にして、自分は忙しいのだから、他に考えることがあるのだからと考えないようにしてきた。

 でもその枷はなくなってしまったのだから、あたしは……あなたと向き合おう。


 タクシーで二十分と少し、学生であるあたしにはほんの少しばかり痛い出費をかけて、胸元に左手を当てて喫茶店の木製扉に右手をかけた。

 カロンっと聞きなれたカウベルの音。心臓の鼓動を押さえ込むようにして店に入れば、いつもと同じように穏やかなマスターの声。

「やぁ、おかえり」

 あたしはその言葉に返事すらできずに、店の奥まった席を見た。


 置かれている観葉植物の向こう側、けれどあの人の姿は無くて、あたしは息を詰めた。

とくとくと耳に心臓が押し当てられるかのように鼓動を感じてしまう。

「秋都ちゃん?」

「え、ああ……あの、アイス珈琲をお願いします」


 そう告げる自分の言葉が、どこか遠くて、あたしは一旦伏せた瞼の下、もう二度とあの人に会えないのではないかという脅迫じみたものがじわじわと競りあがるのを感じた。


やばい、やばい……泣いてしまいそう。


 馬鹿だな、秋都。そんなことは無い。だってあたしはあの人の携帯番号だって知っている。会いたければ電話をすればいい。メールアドレスだって知っている。気安い口調でメッセージを送ればいい。

何の問題もないことだというのに。

「秋都ちゃん?」

 心配そうなマスターの声に、あたしは無理やり笑顔を浮かべて見せた。


「聞いて下さいよ! やっと就職決まりました」

「それはおめでとう! お祝いにケーキを一つサービスしようかな。好きなのを選んで――あ、カロリー控えめになってるから心配しないで」

 マスターが言いながら、カウンターの上にある陳列ケースを示した。

ショートケーキにチーズケーキにミルフィーユ。

口髭のマスターが作ったにしてはやけに可愛らしいケーキが三種。

女の子の戯言にカロリーとか気にしちゃう優しいマスター。

あたしは泣きたい気持ちで微笑んだ。


「ミルフィーユ」


 携帯番号もメールアドレスも知っている。

――でもそれは、拒絶されれば応えのない不安定なあたし達の関係そのもののようだった。


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