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二幕――前編

 カロンっと耳慣れたカウベルの音。

神田神保町、古書店街のはずれにある喫茶店『つゆねぶり』の店内に入ると、ほわりと温かな珈琲の香りと、のほんっと優しい店主の「おかえり」という声が出迎えてくれた。

 あたしはぺこりと軽く頭を下げ、ついでちらりとその視線を店の奥まった場所へとうつした。

――ああ、寝てる。

 予想どおり。

昼寝が趣味というスーツ姿の青年は、テーブルの上に無造作に眼鏡と携帯とを並べ、いつもと同じように腕と足とを組んでゆったりとした座席に座り転寝を楽しんでいる。

 あたしは逡巡しつつ、その席の反対側――空いている場所に荷物をおろして、マスターに「アイス珈琲をお願いします」と控えめに頼んだ。

 以前はこの距離で相手と対峙することは無かった。あたしはいつだってこの席が見える定位置ですわり、テキストや参考書を並べて勉強するフリをしながらこの人を見ていたものだけれど、なんというか知り合って一年たってしまった今となっては、わざわざ離れた場所に座るのもわざとらしい気がするのだ。

 だからあたしは当然のような顔をして、居眠りをしている影浦智孝の反対側の席に座って本を引き出す。


 心持ちうつむくように眠る男をじっと見つめていると、案の定――口元が小さく笑みを刻んだ。

「たぬき」

「秋都ちゃんががたがた椅子を鳴らすからですよ。私の昼寝の邪魔をするのは秋都ちゃんくらいだ」

 片方だけ瞳を開き、苦笑と共に体を引き起こす。強張ったからだをほぐすようにゆっくりと体の細部を伸ばし、年上の友人は瞳を細めて眼鏡に手を伸ばした。

「おはよう、秋都ちゃん」

「――おそようです」

 あたしはマスターが運んでくれたアイス珈琲にミルクとガムシロップを落とし、そ知らぬ顔で挨拶を交わす。

「秋都ちゃんがここに来るのは久しぶりだね」

「珈琲が恋しくなったからです」

決して貴方に会いに来た訳じゃないですよ。と、暗に示しているのだが、相手はそ知らぬ顔でマスターに話しかけ、ホット珈琲とケーキを頼む。

「就職活動はどう?」

「……世の中はどうやら不景気みたいですよ」

「そうだね。うん、そんな気がするね。でも――イロイロな職種があって不景気でないものだって当然あるよ。そこを見極めて上手に立ち回ってごらん。なんていいたいけれど、きみは行きたい場所が決まっているからね、まぁ、がんばって」

「影浦さんは不景気じゃなさそうですね?」

「さぁどうだろうね?」

 くすくすと笑われた。

実際この面前の相手がどういった仕事をしているのかは謎だけれど、幾つかの仕事に携わっているということは見ていれば判る。劇場のオーナーは儲かるのか? と尋ねたことがあるけれど、ソレに対しては「役にはたっているけれどね?」という曖昧な返事がかえった。どうやら劇場の出資というのは「役には立つ」が「あまり儲かるものではない」らしい。

 一般人には理解不能。儲からないのに何故やるのだろう?

あたしは嘆息した。

「就職できなかったら影浦さんのトコでアルバイトで使ってもらおうかな」

「言っておくけれど、私は従業員には不評だよ?」

――そう、以前耳にいれたところによると、これで結構他人には厳しいのだ。自分にはとことん甘いのに。

 仕事中に昼寝をするほど甘いのに。

あたしが唇を尖らせてそういえば、影浦さんは苦笑を落とした。

「いやだな、昼寝は大事だよ。人間の活動において休息というのは決して侮れないんだよ。昼寝をすることによって効率が――って、物凄く嫌そうな顔をしているね?」

「すっごくご都合主義な後付け論理にしか聞こえません」

 昼寝肯定派は軽く天井を見上げ、ついでとんとんっとテーブルの表面を指先で叩いた。

「まぁいい。休息と甘いもの。とりあえずこれは人間にとって大事な要素の一つ。ということで、ケーキが来たね。召し上がれ」

 マスターが運んでくれたケーキを軽く示し、微笑むその顔は実に無邪気と言っていい。

甘いものと睡眠が好きな青年は今日も見た目だけは好青年だった。


 クリスマスの夜を共に過ごした。

なんて言うと激しく艶っぽいイメージがあるけれど、実際は本当に一緒に過ごしただけが正解。

 思い返せば、影浦さんはあれいらいあたしに無駄に触れたりしないのだ。出会った当初――というか、知り合った当初こそ強引に口付けられたというのに、それ以降の影浦さんのスタンスはまるきり、友人、だった。

 あたしと影浦さんの間にあるものは確かに友人、もしくはもっと低く見て知人。へたをすると兄と妹のように穏やかに影浦さんはあたしとの距離を測り、まるで見えないラインが引かれているようにそこからこちらに足を踏み込むことは無かった。

 何気ないしぐさであたしの腰に手を回してエスコートしたり、手を握ったり、親しげに頬に触れたりすることがあったとしても、あたしがキスされるのではと警戒しても、決して影浦さんはその先に進もうとはしない。


「どうか?」

 あたしがじっと相手の唇を見つめてしまったことに気付かれたのか、影浦さんは微笑んで首をかしげた。

 あたしは慌てて視線を落とし、ミルフィーユをフォークでつつく。ああ、どうしてよりにもよってミルフィーユなのだろう。こんなに食べにくいケーキ! あたしが逡巡していると、影浦さんは「貸して」と声をかけ、あたしの手からフォークを受け取ると、三層のパイで作られたケーキをとんっと軽く横倒しにした。

「上から押し付けるとつぶれるから、横から切るといいよ」

「……」


あ、何だろう、腹たった。


 オンナであるあたしよりソツのないあしらいがちょっとむかつく。

あたしは素直に「そうなんですかぁ」なんて言える性格ではない。そういうのは氷見の役割であって、あたしの役割ではない。

 あたしはかえってきたフォークの側面でぐさりとミルフィーユを切り、ついですくいとるようにしてフォークに乗せ、嫌がらせのつもりで「はいあーん」とケーキの乗ったフォークを影浦さんに差し向けた。

 いい大人である影浦さんにとってこれは意表をついただろうと思ったのだが、生憎と相手は少しも動じることなく口を開いてそれを食べた。

「……」

「イチゴソースが甘酸っぱくていいね」

「――そうですか」

「お返しに私も同じことをしたほうがいいのかな?」

「結構です」

 あたしは端的にばしりと言葉を返し、相手のからかうような顔を見ないようにそそくさとケーキを口の中に運んだ。


 運んだ後になって――そのフォークが相手の口に入ったものだと思い出した途端、ぐふっとミルフィーユのパイ生地が喉に突き刺さる感覚を味わい、慌ててアイス珈琲をすする羽目に陥ってしまった。

と、机に置かれていた携帯がぶるぶると震えだす。緑色から赤へと着信を知らせる明滅と振動。液晶画面がはっきりとした文字を浮き上がらせる。

「本来であればこのまま夕食に連れて行きたいけれど、この後は仕事があるから」

ふいに影浦さんはいい、置かれている携帯を手に席を立った。

「またね」

 またね。そんな軽い一言で、影浦さんは背を向けて、マスターと二・三言葉を交わしてそのままこちらを振り返らずにカウベルを鳴らして喫茶店を出ていってしまった。

 あたしはお皿に残ったパイ生地の欠片をフォークの先端でつつきながら、なんともいえない気持ちを味わっていた。


――トモダチ。


 影浦さんはその距離をきちんと保っていて、その距離に苛立ちを覚えるあたしはいったい何なのだろう。

 自分からトモダチと言ったのだ。

好きだという言葉を拒絶して、友達の距離で付き合うことを決めたのに。あの人がその距離を保っていることがこんなにも胸をぎゅうぎゅうと締め付けてくる。


 あの日、あのクスリマスの夜。

「特別な相手と過ごす」なんていいながら、影浦さんはあたしにお腹がすいていないかどうかを尋ね「まっすぐ帰るのももったいないから、たまには変わったものでも見ようか」と連れていってくれたのは川崎にある工業地帯だった。宵闇に浮き上がる機械的な工業施設の様相は確かに驚く程綺麗で、深夜だというのに吐き出される煙だとかにあたしは純粋に驚いた。

「もっと早い時間ならイルミネーションとかもあったんだけどね」とくすくすと笑う影浦さんは、そのあとまっすぐにあたしを自宅へと送り届け、まるでついでのように、忘れるところだったというように細長いボックスを一つあたしへと押し付けた。

「ネックレスなら負担はないでしょう」と。


 可愛らしいネックレスのトップを飾るのはピンク色の石。ハートシェイプを基本にしてついでそのハートに寄り添うように小さなティアーズのきらきらとした石。こちらはダイヤかもしれない。光に屈折するそれは溜息がでるくらい綺麗だ。勿論、トップのハート型のものだって綺麗だけれど。

 オトナ向けというよりは愛らしさばかりのネックレス。

コイビトへと向けるものではなくて、まさに友人へと向けるような愛らしさ。


 あたしは深い溜息を一つ。


 あの人が座っていた席を見つめながら、何故か泣きたい気持ちをもてあましてぐっと喉の奥からこみあげてくるものを必死に飲み下した。


 自分の手で引いた友達の線を――無視して一歩踏み入れて、触れて欲しい。そんなこと、どうして今更言える?

 一年間あの人はずっと同じ距離を保ったまま。まるであたしに興味を失ったように。何かあると「友達でしょう? 気にしないで」なんてさらりと応える。


 あたしはもう一つ溜息を落とす。

就職活動が大事だと無視してきた問題が、ここにきてむくむくとあたしの中で割合を占めてきてしまった。

 そんなことにかかずらってる暇なんて無い筈なのに。


――新里美晴。


 あの人の携帯の着信画面に、その名前を多く見ることがとても……言葉にできないくらい気持ちを沈めた。


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