一幕――後編
「酒強いのかと思ったぞ」
やがて移動したカラオケでのあたしときたら、歌を歌うどころの状況ではなくなっていた。
トイレで吐いた後、洗面台で口をすすぎ、それを介抱する武は完全に呆れた様子であたしの背中を叩いている。
「うー、強くはないよっ」
威張って言えば、更に呆れられた。
「酒蔵で働くんだろうが」
「蔵じゃない。研究室――うーっ、よし、ちょっとすっきりした!」
「平気かよ」
「平気だよ!」
言いながらハンカチで口元をぬぐい、多少すっきりとした胃の辺りを撫でて息をついた。
「武、悪いけどあたしこのまま帰る。会費は払ってあるからこれ以上の迷惑はかからないと思うし」
あたしは腕時計をちらりとのぞき見た。
すでに日付は変わってしまっている。終電は無くなってしまっているかもしれない。まだぎりぎりあるだろうか? とりあえず駅まで行けばタクシーは拾えるだろう。
あたしの言葉に、武は苦笑しながらあたしの二の腕を掴んだ。
「タクシー乗り場まで送る。酔っ払いを放置して何かあったら寝覚めが悪ィだろ」
「風に当たれば酔いなんてさめるよ」
「あまいなー、おまえは」
そう言う武も十分に甘い。そうやって誰にでも優しい男は、優しいだけの男に成り下がることもあるんだぞ。などと茶化すように言いながら二人で寒空のアーケードを歩いた。街の中はまだクリスマス真っ盛り。日付が変わっても今日だけはお祭り騒ぎが続いている。
「氷見はさー、まだ彼氏いないよ」
あたしはちょっとした親切心でぼそりとそう口を開いた。
「だから、もう関係無いって」
「前よりもっと可愛くなったよ」
「しつこいなぁ、秋都。やっぱ酔っ払ってるんじゃない?」
やれやれと言葉を続ける武は、丁度駅前の時計塔まで来たあたりで足を止めた。
「タクシー混んでるみたいだな」
「やっぱり終電終わっちゃってるね。ま、しゃあない」
あたしは急激に冷え込む冷たい風を受けてぶるりと身をふるわせた。腹部は未だ残る酒でほかほかと熱を持つようにあたたかいのに、外気に触れる肌がやたら寒さを感じる。
ふっと夜空を見上げると、ネオンがまだ光る為だろう、空には星すら見えなかった。
「どっかで休もうか?」
ふいに武がさらりと言うから、あたしはさらりと返した。
「ファミレスとかも混んでるんじゃない?」
「そうとるか」
軽く笑われ、ついでぐいっと掴まれていた二の腕が引かれた。
「少し真面目に付き合ってみないか?」
覗き込むように言われて、あたしはたたらを踏んで危うくこけそうになったが、意外に強い武の力で支えられた。
真正面から真摯に見られて、みるみるうちに自分の耳が熱を持つのを感じる。
かぁっと熱い――酒のせいか、気恥ずかしさか。休もうの意味がじわじわと自分の中で広がる。
「ごめん、好きな人……いる」
あたしはかすれた言葉をかろうじて出した。
引き寄せられて口付けられそうになるのを押し留めるように相手の胸を押し、全てを避けるように軽くうつむく。
「いいヤツ?」
「――どうだろう」
「そういうヤツがいるならさ、無防備に他の男の前で酔っ払ってんなよ? トモダチなんて言葉に乗っかってると後悔するからさ」
武はあたしの頭にぽんっと大きな手を乗せて、くしゃりと髪を乱した。
「んじゃ、タクシー乗れるまで付き合う。行こう」
けれどあたしはその場で足をとどめたまま、首を振った。
「ここまででいいよ。ごめん」
「女一人おいとける時間じゃないだろ?」
肩をすくめ、武はふっと奇妙な顔をした。
「まさか警戒してる? もう何もしねぇよ?」
「してないよ」
あたしは笑い出し、鞄から携帯を引き出した。
「んじゃ、甘える。でも電話していい?――今、すごく電話したい気になった」
相手が誰かを武は聞かなかった。
ただその視線が「好きなやつだろ?」と面白そうに向けてくる。だからあたしはそれに甘えて携帯に登録された名前を押した。
こんな遅い時間だからメールのほうがいいと思う。
でも、なんだかやたらと声が聞きたくて――迷惑だとか考えるより、それは本能で声が、聞きたかった。
どきどきと心臓が鼓動を激しくする。
目の前の武は、寒さの為に肩をすくめてダウンジャケットのポケットに手を突っ込んでふーっと白い息を吐き出している。
あたしは数度のコール、それと重なるように流れているクリスマス・ソングを耳に入れて、ついで落胆のままに携帯を切ろうかと耳から引き離そうとした。
「呼びました?」
低い、声。
耳の中に入り込んだそれに慌てて携帯を耳に押し当てなおそうとしたけれど、あたしは携帯から流れる呼び出し音に眉をひそめた。
――流れるクリスマス・ソングのベルの音は止まっていなくて、そして、あたしの腰より上を抱くようにして背後から引き寄せ、耳の後ろに唇で触れた感触。
「ぎゃぁぁぁっ」
色気もそっけもなく叫んで飛び退ろうにも、相手はあたしの腰をしっかりと自分の体に引きつけたまま喉の奥で笑い、ついでギョッとしている面前の武に声を掛けた。
「こんばんは」
「こん……ばんは?」
「メリィ・クリスマス。生憎と雪は降らなかったね。でも随分と寒い――風邪をひかないように」
さらりと言うと、おそらくあたしの想像どうりの男性はあたしの硬直したままの体をくるりと反転させた。
「お迎えに参りましたよ。お姫様――ああ、きみも気をつけて帰りなさいね」
ひらひらと手をひらめかせて武に言うが、武はやっと正気を取り戻した。
「秋都、平気か?」
「……」
平気じゃない。平気じゃない。平気じゃない。
けど、
「平気?」
なぞの疑問系で引きつったまま応えた。
武は眉をひそめたけれど、すぐに全てを承知した顔でにやりと笑った。
「じゃ、後は頼みます」
***
「何してるんですかっ」
あたしをパーキングに止めてあった車に案内した影浦さんは微笑を湛えて首をかしげた。
もうイロイロと驚かされることには慣れているとはいえ、またしても車が違う。今日の車は何の変哲も無いBMW――あたしでも判る。
いや、何の変哲も無いって……
「サプライズ?」
「……」
「クリスマスだよ、秋都ちゃん。クリスマスは特別な相手と過ごすものだと思わないかい?」
「残念でした! クリスマスはもう終わりましたよ、日付かわりました」
あたしはまたしても驚かされたことに唇を尖らせて意地悪く言った。
心臓のばくばくがまだ収まらない。
自分の胸を軽く手で抑え、先ほどまであった素直さがいったいどこに霧散してしまったのかを考えた。
少なくとも、さっきまであたしは彼の声を聞きたかった。
相手の迷惑も考えずに、こんな深夜だというのに。
電話をかけて「メリィ・クリスマス」と。そして、ほんのちょっとの勇気を出して、会いたいと言いたかった。
もう絶対に言わない。
「いやだな、秋都ちゃん。クリスマスは本来二十五日のことなんだよ?」
くっと喉の奥で笑う男の悪戯が成功したような無邪気さに、あたしは大きく息をついた。
会いたかったなんて……あなたが好きなんて、絶対に言ってあげない。
――どうしてあそこにあたしがいたのか判ったのかも聞かない。
……こわいから。
今日は聖なる夜だから、寛大な心でイロイロ流してあげる。
まさか発信機とかつけて歩いてないよね、あたし。




