一幕――前編
はふーっと息を吐き出すとそれは白い湯気のようになって大気に溶け込んでいった。
左腕には重みがあって、まるで血圧でも測っているのかという圧迫感。
「氷見、重いよ」
顔をしかめて言えば、ふわふわの髪を肩口の辺りでそろえている幼馴染は唇を尖らせた。
「寒いんだもぉん」
大学から駅へと向かうアーケード。ところどころにサンタの格好の店員が立ちクリスマス商戦もラストスパートの様相だ。
あたしは腰まで届くダウンジャケットにマフラーに手袋だというのに、氷見ときたら生足までさらした短いスカートにガーターベルトまでしっかり見えている。ふわふわのフェイクファーのジャケットがかろうじて暖かそうではあるけれど、その全てをあの剥き出しの足が裏切っている。
その代わり、見えないところには色気もなにもない。
「あんた、腹にも背中にもカイロ貼り付けてるくせに」
あたしはうんざりと見えない場所について指摘した。
氷見があたしにはりついているのは、決して寒さからではなくて、あたしが帰るのを妨害しようという姑息な思惑があるのだ。
「だってせっかくクリスマスなのに秋都ってば帰るとか言うんだもん」
「帰るって訳じゃないけど」
予定があるのですよ。
そう言っているというのに、氷見は納得しようとしない。
「デートならちゃんと相手を紹介してよ!」
「だぁかぁら、デートじゃないよ」
「クリスマスにデートじゃなくて何をすると!」
そういう氷見だって、大学のサークルの連中と居酒屋で騒ぐのだという。つまり、それにあたしを連れて行こうとしているのだ。
「高校の時の友達と会うの」
「って、あたしだって高校の時の友達じゃんっ」
「前に誘った時にのってこなかったのは氷見でしょ」
「ああ、あの話かぁ。うぅぅぅ、だってタケルいるって言うからっ。秋都ちゃんもさぁ、クリスマスコンパにしとこうよ。一緒にいこーよぉ」
氷見はこの後大学のサークルで行われるクリスマスパーティに行くのだと言う。氷見が高校の連中と会うのを嫌がるのは、昔付き合っていた佐波武と顔をあわせるのがいやなのだ。
駅前にたどり着けば、さすがに氷見は諦めたのか唇を尖らせながら手を振った。
嫌がらせのつもりなのか、爪先立ちになってわざわざあたしの頬にぶちゅりとキスして、
「あたしは捨てられた訳じゃないからねっ」
と、謎の小芝居をして駆け出していく。
大学近くの駅前だから、学生達がじろじろと見ていくが、氷見の奇行は今にはじまったことでもないので気に掛けるのも馬鹿らしい。
あたしは肩をすくめ、肩に引っ掛けて腕ではさむようにしていた鞄の側面から携帯を引き出した。
ストラップはつけていない。
気付かないうちにメールの履歴が三つ増えていて、一つはよくいく雑貨店の広告。もう一つが高校時代の友人の浅見昌子からのもので、待ち合わせ場所に少し遅れるというもの。もう一つは影浦智孝。年上の友人からのもの。
あたしは小さく呻いた。
――クスリマスの予定は?
友人、そう友人だ。
なんだかんだで付き合いはもう一年近い。といったところで、あたしも就活だ何だって忙しく、喫茶店に顔をだす割合も減ってしまったし、相手は一応社会人で時には日本を離れていることもあったりしてあたしと影浦さんの関係はなんだかぎこちない友人関係、というか知り合いというところだ。
一月前に神田の喫茶店『つゆねぶり』で顔を合わせた時に影浦さんはあたしに言った。
「クリスマスの予定は?」
あたしの中でぱっと奇妙な熱が腹部に弾けた。
嬉しいような照れくさいような。けれどあたしは「友人」という言葉の上であの人に自分の気持ちを必死に押さえつけてそ知らぬ顔をする。
「高校の時の友人達と飲み会です」
「そう。それは残念」
影浦さんはさらりと言う。
そう、この人はさらりと言うのだ。
だから――好きといわれたのは間違いで、やっぱりこの人はあたしなんてどうも思っていないのだと落胆する。
好きな相手とクリスマスなんて、メイン・イベント。本来であればもっと粘るものではないの? 結局、あたしとの付き合いなんて「友達」以上のものじゃない。
そんなことを考えるあたしはひねくれ者で物凄く卑怯だっていうのは判ってる。好きだけど、嫌い。嫌いだけれど、好き。
意地っ張りな小娘の心は、相手との間にあるつながりを押したり引いたりしながら苛々としている。
あたしはとくとくと早鐘を打つ自分をもてあましながら、届いたメールを開いた。
――あまり羽目をはずしすぎては駄目ですよ。
オトナな言葉一つ。
メリィ・クリスマスの一つもなく。可愛らしい絵文字一つもなく。ただの忠告メール。
あたしは衝動でそれを削除して、ついで後悔した。別に消すまでも無かったのに!
溜息を一つ、眉根を寄せてあたしは手袋に包まれていた手を引き出し、冷たい外気にふるりと一度身を震わせてゆっくりと返信の文章を組み立てた。
――余計なお世話。
「可愛くないか」
いや、可愛さなんて必要ないけど。
あたしはむぅっと小さく唸り、浅見との待ち合わせ場所である駅前の時計塔近くの壁にもたれて書いた文字を削除した。
――心配無用! 影浦さんもせっかくのクリスマス楽しんで下さいね!
……なんだこれ。
あたしはどうにもしっくりとこない文面にますます眉を寄せた。
もっと何か、楽しそうな文面がいい。あなたなんていなくたって、あたしは楽しく過ごしていると伝えたい。だからあなたも楽しく過ごせばいい。
恋人同士じゃないもの。
付き合ってという言葉を拒絶しながら、あたしはそんな風に強がることしかできない。
恋人同士になるのは怖い。あの人が怖い。
けれど、まったくの他人にはもうなれない。あたしの眠り姫。あたしだけの……眠り姫。勇気のない王子は眠り姫をただ見ているだけでいい。
あたしは難しい顔をしながら、精一杯考えて、可愛らしくデフォルメされたテディ・ベアのデコメで、愛嬌たっぷりの返信メールを作成した。
――メリィ・クリスマス! よい夜をっ。
ぐるぐる考えても仕方ない。少しばかり子供っぽいかもしれないけれど、まぁこの程度で及第点。
あたしはメッセージを送信し、ふーっと息をついた。
「秋都、ごめん。遅れたー」
「すっごい待った。他の連中は?」
浅見の声にあたしはぱたりと携帯を閉ざした。
***
確か当初の予定では、高校の友人が七人程度集まって居酒屋で食事をして、カラオケにでも行こうかという程度のことだった筈だというのに、気付けば人数はプラスことの十名程増えていた。
「ドウソウカイですか?」
あたしは基本的に友人付き合いは狭いほうだから、なんとなく身の置き所が無い。
二十四日ということでチェーン展開されている居酒屋の個室を予約してあったというが、本来の人数とは違う大人数に、部屋は狭くて仕方ない。
「秋都、酒造会社目指してるんだって?」
「んー、でも難しいんだ」
あたしは居酒屋のおすすめだとかいう地酒をちびちびと舐めながら言った。
もうすでに幾つかの会社の面接を受けているけれど、なかなか芳しくは無い。
「お酒売るの?」
「売るっていうか、新しいお酒の開発とかの部門――配合とかを考える部署でねぇ」
どちらかといえば、酒蔵とかではなくて研究所みたいトコ。と唇を尖らせていう。と、今飲んでいる酒のことを考えていた為、自分の隣で話しかけてくる男が誰か気付いていなかったあたしは、生ビールのグラスを手にしている佐波武の姿に「うわっ」と噴出した。
「サブ」
「……その名称なつかしいけど、微妙にイヤだから止めろ」
「そういえば来る予定だったね。遅かったじゃない」
武は肩をすくめて軽くビールグラスを掲げてあたしのグラスにあわせるしぐさをすると、肩をすくめた。
「氷見は?」
まるであたしが後ろにでも隠しているかのように瞳を細めてあたしの後ろを見るから、あたしは軽く顔をしかめた。
「今日は大学の人たちと遊んでる」
「そか、おまえら同じ大学だもんな」
「学部は違うけどね」
だからな実際はあまり顔を合わせてはいない。
「残念だったね」
あたしはにまにまとして言うと、武は肩をすくめた。
「別に――もう別れてどれだけたったと思ってるんだよ? いつまでも昔の女を追いかけまわしてるとでも?」
「ああ、そうなんだ。じゃあ他に彼女が?」
武は別にもてるという風ではなかったけれど、付き合いやすくて女友達は多かった筈だ。
けれどあたしの言葉に、武は物凄く嫌そうな顔を一瞬して、ついでニッと口元を緩めた。
「クリスマスにこんな集まりに出るようなヤツに恋人がいるもんか! って、そういうおまえだって同じ口の癖に」
「……言わずもがなってやつね」
「だろ?」
にやにやといいながら、何が楽しいのか武はもう一度あたしのグラスに自分のグラスを重ね合わせた。
「ま、寂しいもの同士楽しく飲もうじゃないか、秋都君」
「なにそれ気持ちわるい」
「男同士の友情を育もうぜ」
ぐわしっと肩に腕が回り、あたしは溜息を吐き出した。
誰が男同士だ。
けれど気楽なその言い方に、あたしは相手に合わせて自分のグラスを武のグラスに軽く押し当てた。
「よし、飲もう!」
――本当は、影浦さんと会いたかったかなぁ。
ちらりと浮かんだ思い。
でも、実質それを拒絶したのは天邪鬼なあたし。
恋人未満、友達以上――それ以前に友達なのか知人なのか曖昧な白いチョークで引いた線を、あたしは飛び越える勇気なんて持ちはしない。
クリスマスに二人で会うなんて、そんな特別なこと……怖くて、恥ずかしくて、できない。
「飲むぞぉっ!」
馬鹿野郎なアタシ。
あたしは男らしく武の肩に腕を回し「おぉっ」と阿呆になってグラスの中身を飲み干した。