序幕――後編
影浦さんが時々何かをいい、あたしは適当にそれに相槌を返す。
そうしてたどり着いた劇場の隣にある小さなビジネスホテルで、あたしは兄貴に問題のフラッシュメモリを突きつけた。
「えええ、なにその凶悪な目は?」
春樹はあたしの視線に身を引きつつ、媚を売るのように笑みを張り付かせた。
「いや、ごめん。悪かったって」
「……」
「ん、小遣い。小遣いだったな。いや、本当に助かった! いやぁ、秋都は本当にいい子だなぁ」
兄貴が慌てたように財布を引き出し、中から札を引き抜こうとするのを止め、あたしは自ら兄貴の財布の中から諭吉を引き抜いた。
「もう絶対に二度とこういうことはしないから!」
――八つ当たりだった。
完全に八つ当たりだ。
だが、怒りの矛先があるというのは少しだけ気が楽だった。
あたしの心がずくずく痛む。
「そこまで怒るなよぉ」
春樹が言うけれど、それを無視して身を翻していた。
「秋都ちゃん」
影浦さんの声が追いかけてくる。それすら本当は振り払ってしまいたかった。けれどあたしは眉を潜めて吐息を隠して立ち止まり、できるだけ――自然になるように微笑んだ。
「送っていただいてありがとうございました。
帰ります」
「いや、この後食事に行こう――もともとその予定だったんだよ」
苦笑を見せる相手に、苛立つ。
「そんなに気を使わないでいいですよ」
「気は使ってないけどね」
クスリと微笑み、影浦さんはぐっと手を伸ばしてあたしの手首をつかんだ。
「食事、予約してあるんだ。ここで君に帰られてしまったらぼくはどうしたらいいと思う?
気を使わないでと君は言うけれど、じゃあ君が気を使ってくれ」
――気を使ってくれなんて台詞、吐く人間がいたのか。
あたしは本気で驚いて面前の青年を見た。
柔らかな微笑を浮かべているというのに、その発言ときたら物凄くないだろうか。
――少しは気を使え!
とはなんかニュアンスが違う。
あれ、どうしたらいいのコレ?
瞳を瞬くあたしの手を、影浦さんが引いた。
「お腹の具合は平気かな? 少し車で走るよ――なんなら軽くどこかで食べてもいいけど」
「平気ですけど」
「そう。良かった――」
にっこりと微笑むその人に、あたしはうまく笑えない。
色々な感情がせめぎあう。
ああ、どうして自分がこんなにぐちゃぐちゃしているのだろう。
どうしてこの車に乗ってしまったのだろう!
あたしは三十分もしないうちにまたしてもその後悔に苛まされていた。
――少し車で走るよ、と言われたら一般的にはニ・三十分程度を想像するだろう。少なくともあたしはそうだ。あたしがそうなのだから、きっと世の中もそうだと決め付けるのは良くないだろうけれど、きっとそれくらいが一般的に決まってる。
「どちらまで?」
思わず重い口を開いていた。
首都高に入り込んだ赤い車は、そのまま東名道を走っている気がします。きっと気のせいではありません。
厚木はもうすでに通り過ぎました。
高速道路は単調に進む。平日の昼過ぎ――渋滞情報も無く車内を穏やかな曲が低音で満たしていた。
「御殿場。気に入りのステーキハウスがあってね。そこで焼いているパンが絶品」
ステーキハウスといいながらプッシュするとこがパンですか。
「……それはもしや昼食ではなくて夕食ですか?」
「あれ、言ってなかったかな」
――全然ちっとも言ってませんでしたよね?
うすうす気づいていたのだが、コノヒトって常識おかしいと思うのですが。
あたしは引きつりながら、
「きっと影浦さんはうなぎが食べたい時は浜松まで行くんでしょうね」と言ってみた。
「いくよ?」
「……」
言わなければ良かった。
きっと豆腐が食べたければ京都に行き、ジンギスカンが食べたい時は北海道に行くのだ。
そんなあたしの内心を見透かすように影浦さんは微笑む。
「でも滅多にはいかないよ。東京で食べれないものは滅多にないからね」
クスリと影浦さんが笑う。
「今日は特別。春樹が君はステーキが好きだって言っていたからね。
浅草や赤坂辺りにも美味しい店があるんだけれど、こんな風にドライブもいいだろう?」
「……」
「初デートだからね」
――またからかわれているのかしら。
この人の言葉遊びにはついていけない。
あたしは助手席の車窓から外を眺めながら、そっと唇を噛んだ。低い車体は車の速度を感じさせ、二段クラッチといいながら影浦さんの運転はよどみなく滑らかだった。
シフトレバーに置かれた手。その指先を見ればしなやかに長く骨の浮き彫りに心が乱され、横顔を見れば泣きたくなるから、あたしは意固地に外ばかりを見るしかない。
「怒ってるの?」
沈黙が気に障ったのか、それとも別の理由からか、ふいに影浦さんは柔らかな口調でそういった。
怒る?
怒っている――怒っているけれど、もう何に対して怒っているのかあたしは判らないのだ。
あたしはこのひとと関わりたくないと理性が拒絶して、本能が別の欲を撫でる。嫌い嫌いは好きなんてそんなことは言いたくない。
嫌い嫌いは嫌い。
……何故ココロは単純な計算を拒絶するのだろう。
「小娘をからかって楽しいですか?」
あたしの口調は冷たい。
腹の内がずくずくとうずくのだ。苛立ちのような腹立たしさのような奇妙なものが体内を巡ることなく、腹部でずんっと重しのように居座っている。
それは泣きたい程の辛さだった。
行き場のない感情は、吐き出す場所を求めているのに感情を制御できない小娘はどうして良いのか判らずにただ唇を噛むしかできない。
「からかう? どの辺りが?」
「……デートとか、イロイロですよ」
言葉を吐き出すのも精一杯だった。
「あれ、デートだと思っているのはぼくだけ? それは少し残念だな」
少し。
それはつまり、残念なのはやっぱり少しだけってコトよね。
――思考がどうしてもマイナスなことしか紡がない。きっとまったくの他人があたしの心の中を見透かせば、莫迦だと笑うだろう。
けれどあたしは。今のあたしはマイナス思考の中で逃げ場を失いうずくまる愚かな小娘でしかない。
「君はぼくが好きでしょう」
突然言われた言葉に、あたしはぐりんっと首をめぐらせて相手を凝視した。
いま、ものスゴイ単語出た。
それまであたしをがんじがらめにしていた思考がいっぺんに弾け飛ぶほどの。
「ぼくも君が好きだよ。両思いの二人がドライブして食事する。ほら、立派なデートだと思わないかい?」
「前提が間違ってますよね!」
「どこが?」
「あ、あ、あたしがあなたを好きって!」
あたしの声は上ずるしなんだかトーンも高くなってしまう。激しく胸が鼓動を強めた。
こちらの動揺など欠片も気にせず、ちらりとこちらに流し目を送り――影浦さんはくすりと笑みをこぼした。
「君は嫌いな相手をストーキングしてたの?」
「してません!
追い回してなんていないでしょう?」
そうよ。そもそもそこが違ってる。
あたしはあれから良く考えてみたのだ。ストーキングというのは相手を追い回していくものだけれど、あたしは――ただ見ていただけ。
あの小さな空間で、ただ、見ていただけ。
そりゃ、多少自分のやっていたことが一般的ではないことだというのは認識している。それを認める。けれど、だからといってストーカーと言われるのはとても心外だ。
心外で、そして……正直恥ずかしい。
違うと言いながらあたしは自信がないのだ。よくいうではないか。ストーカーは自分がストーカーだと認識していないのだと。
――あたしは、それに当てはまる訳じゃ……ない、と信じたい。
「じゃあ、嫌いな相手を視姦してたの?」
更にくすくすと笑われる。
あたしはカッと体温をあげた。
「だから、あたしはそんなことっ」
「うん、意地悪なことを言ったね。ごめんね、秋都ちゃん」
「っっっ」
あたしはぐっと詰まった。
「君がぼくをどう思っているかは保留しよう」
何がおかしいのか笑いながら、影浦さんは言葉を続けた。
「――ぼくは君が好きだよ。窪塚秋都ちゃん。
とりあえず、君がぼくを好きになってくれるまで。君と友人でいることを許してくれるかい?」
トモダチ。
友人という言葉に、その軽さがあたしの心にするりと馴染んだ。
重かったものが、その単語の軽さにどこか救いを見出すように。
柔らかな口調で、まるで告白とは思えないくらいさらりと――謝罪と共に優しく言われた言葉に。
……友人という単語は、拒絶するには軽すぎた。
「友達なら……」
なんだか子供のように照れくさい言葉に、あたしは視線を窓の外に戻して言った。
それまであたしの体を支配した暗い感情が、とろりと溶けた。頑なであったものが、ほんの少しだけ身じろぎして小さく息をつく。
意固地になっている自分の中に、短絡的な救い。
友達になりたいと言う言葉を拒絶するなんて大人気ない。
それは免罪符のようにあたしの心を軽くした。
……口付けられたことを怒っているけれど、でも、許してもいい。
見ていたいの。ほんの少し、近い場所で。見ていたい……ほんの少しだけ近い場所でいいから。
以前のような距離とは違う、ほんの少し近い距離で。
トモダチの距離でなら、見ていてもいいよね?
あなたはあたしの眠り姫だから。
酷いことをされたと思っても、ずっとずっと心は囚われたままだった。
友達なら、いいよね?
――影浦さんがクスリと笑う。
それが序幕――
好きだけど好きじゃない。
あの人とあたしの二度目の邂逅。