序幕――前編
神田にある古書街の外れにある喫茶店『つゆねぶり』――
そこを意図的に避けて過ごしたこの三ヶ月あまり。珈琲の誘惑にあたし、窪塚秋都が時間をずらして訪れたのは、春の気配がちらりとみえはじめてからのこと。
カランと乾いたカウ・ベルの音。
視線を向けてくる店主は、おや? というように一瞬驚いた表情を浮かべはしたものの、すぐに笑みを浮かべた。
「どうしたね、珍しい時間だ」
それを言うのであれば、久しぶりが先だろう。だが、やはり店側としてはそういう言葉はつかえないのだろうか。
あたしは首に巻いていたマフラーを外し、コートを脱いで冷たくなった指先を意味も無く撫でた。
「アイス珈琲お願いします」
暑かろうが寒かろうが、あたしは一年中アイスコーヒーを愛している。
春も近くなったけれど、まだ世の中は随分と寒いし、天気予報では北部のほうでいまだ雪のマークがついたりする。
温かな喫茶店の温度が急速に安堵感を与えてくれる。それでもちらりと――今の時間はいる筈の無い相手が居ないことを確認し、さらに安堵に息をつく。
一番奥まった席。今はまったく違う人がカップルで座っている。いつもいつもその場で眠っていた人はいない。何故なら、今の時間が午前中であるから。
「マスターの珈琲が恋しくなっちゃった」
「嬉しいね。最近見かけなかったのは勉強かな」
「似たような感じ」
あたしは苦笑しながら、いつもと同じようにテーブルの上に本を引き出した。
「……またスゴイ本だね?」
マスターがアイスコーヒーのグラスを置き、本を覗き込む。
「微生物学?」
「こっち方面に進むつもりだから」
あたしはにんまりと微笑んだ。
――目指しているのは酒造会社の開発部だ。勿論、お酒の為の麹などを研究するのが仕事。新しいお酒の開発。そっち方面を目指そうと思ったのは、二十歳を過ぎて飲むようになったお酒があんまり美味しかったから。
日本酒の製造には大好きな細菌が欠かせない。
ならばこれはもう天職ではないだろうか。
「そういえば、ここの店の名前」
「ん?」
「『つゆねぶり』ってうさぎのことなんですね。あたし知らなかった」
「おや、そうかい? 古典だからねぇ、知らない人もいるかもね」
店主が苦笑する。おそらく誰もがその単語の意味を知っていると思っていたのだろう。ま、あたしの勉強不足を指摘されても仕方ない。
あたしは本に視線を落としつつ、そこにはいない男のことをちらりと考えてしまった。
あたしを『つゆねぶり』と称した……男。
――忘れるべきだ。
あんなのは犬に噛まれたようなもので、すっぱりと忘れて新しい出会いを探すべき。
それでも考えてしまう。
考えれば口付けを思い出し、あのぞくりと背筋をなで上げる声を思い出す。
あたし、莫迦――
と、あたしがふるりと首を振った途端、鞄の中の携帯が音をさせた。
相変わらずのゴジラのテーマ。
あたしはちらりとマスターに視線を向け会釈すると、店の外へと出た。
「もしもし?」
『おぅ、おまえ今どこ?』
兄貴が眠そうに言う。
「神保町」
『ワリィんだけどさ、オレの家行って机の上にあるフラッシュメモリ持ってきて。オレンジ色のヤツ。うっかり違うの持ってきちまったんだよ』
「えー、やだ」
面倒くさい。
『原稿があがんなくて缶詰なんだよ。ホテルで桂木が睨んでるんだよ。いまこのときだってオレはパソコンのキィを叩いているんだ!』
イマドキ缶詰って。何をしているんだ。
むしろ楽しそうじゃないか。
『頼むよぉ、秋都。美味いものご馳走するからさぁ。なぁ』
「桂木さんに行ってもらえばいいじゃん」
『おっかない顔で睨んでるよ。ムリ。ムリ。こいつオレが逃げると思ってるもん』
物凄い自業自得じゃないか。
あたしは髪を指に絡めて吐息を落とし、肩をすくめた。
「お小遣い弾んでね」
『おぅっ。すまないな』
――兄である春樹の言葉に苦笑し、電話を切る。
喫茶店の店内に戻り、素早く珈琲を飲み下した。
残すなんてもったいない。だってずっと飲みたかったのだもの。残された氷がグラスの中で転がった。
溶けても珈琲が薄くならないようにとわざわざ珈琲を固めて作られた氷。
あたしはこういう些細な配慮も大好きだ。
「おや、デートかい?」
慌てるあたしの姿にマスターがからかうように言う。
「そんないいものじゃないですよ。兄貴から忘れ物持ってきてくれって」
「はは、秋都ちゃんは優しいね」
「当然お小遣い狙いです」
あたしはへんなところで威張り、珈琲の代金を払うとマフラーを首に巻きつけた。
まったく、面倒くさいことだ。
神保町から電車を二本使って訪れた兄貴の家は、こじんまりとしたマンションだ。マンションというよりもアパートに近い。駅から歩いて十数分。便利なのか不便なのか微妙な距離を歩いて兄貴の部屋の扉を開く。2Kの部屋は乱雑にものが置かれて、いつ見ても溜息が出てしまう程の荒れっぷり。
「掃除しろよ、兄貴」
ぼやいてしまうのは、なんだか気持ち的に見えそうだから。
――雑菌が。
「……培養したらどんなものが出るか。うわ、こわっ」
怖いけどちょっと興味はある。
今度シャーレとか用意して来よう。それとも掃除機のゴミでも持って帰ろうかしら。
なんて考えながら兄貴の言う机の上から幾つかあるフラッシュメモリを見る。
デスクトップとノートパソコンとが並んで置かれたすみに、フラッシュメモリが何本か転がっている。その中でオレンジ色のものをひろいあげ、自分の鞄の中に放り込んだ。
ふとその視界の中に、壁に飾られた写真が入り込む。
「……隠し撮りとか、やめろヘンタイ」
明らかに隠し撮りと思われる写真が数枚。うつっているのは何度か見たことがある兄貴の劇団の女優さんだ。
舞台稽古をしている様子だとか、廊下を歩いているのが微妙な角度から撮影されている。
妹として御恥ずかしい。
あげくの果てに、その女性の写真の横に自分の写真を張る神経がオソロシイ。というか見ているこちらが恥ずかしい。
「捨てたほうが世界平和の為だろ、これは」
思ったが溜息一つで忘れてあげることにした。
――まぁ、早く彼女でも作って下さい。並んで写真をとれるようなね。
あたしはげんなりとしながら部屋の鍵を閉めて、くるりと身を翻そうとしたところで突然耳元に囁かれた。
「ストーカーさん?」
あたしの目の前ににょきりと腕が生え、扉にたんっと手があたる。
ざぁと血の気が引いたところで、
「お迎えに来ましたよ、お嬢さん」
楽しそうな言葉と同時、耳の端がぺろりと舐められた。
「ハ……ゲ……ぇ?」
意味の判らない言葉が口から漏れた。
「はげって、影浦です。秋都ちゃん」
眉を潜めて言いながら、やはり耳元で囁く。
右の耳に唇を触れさせて言葉をあやつりながら、左手で左の耳を優しく触る。
「名前を忘れてしまうなんて、酷いコだ。影浦智孝、ですよ」
あたしは逃げようにも前方は腕によって閉じられ、後ろもやっぱり腕が回っていて、左側は鉄の扉で、軽くパニックを起こしていた。
――なに、なんですか、この現状?
「おしおきが必要かな?」
「あのっ、なんでしょうか!」
あたしはパニックをねじ伏せるように叫んだ。
声が完全にかすれて弱々しい。
「何って、お迎えにあがりました。春樹の忘れ物を取りに来たのでしょう? それを届けて、その後は美味しい食事。春樹に頼まれましたからね」
あーにーきぃぃぃぃ!
何故よりにもよってコノヒトに頼むのか。
「だ、大丈夫ですよ? 一人で行けますから」
「謙虚ですね」
クスリと笑みをこぼす。
「逃げられると思ってるのかな」
「っっっ」
「自分で歩くのと抱っこされるのはどちらがお好みかな」
「あ、あの!」
あたしは慌てて鞄の中を探り、先ほど兄貴の机から持ってきたオレンジ色のフラッシュメモリをずいっと突きつけた。
「はい! これ、兄貴に届けて下さい。食事はいいです」
結構です。
「……」
口の端を持ち上げるように笑みを浮かべ、影浦さんは小さなそれを手にとると小首をかしげた。
「折っていい?」
「――」
「秋都ちゃんが頼まれたんだよね?」
っっっ、兄貴の馬鹿っ。
ここでそれを折られたところであたしはちっとも痛くない。痛くない。痛くないぞっ。
あたしはギッと相手を睨みつけた。
「影浦さんの劇場のシナリオだと思うんですけど」
「それがどうか?」
「オーナーさんですよね」
「それと春樹のシナリオが関係あるのかな? 僕は別に次の演目が何であろうと気にしない。
既存のリア王だろうとマクベスであろうと。勿論、春樹のシナリオであろうとね?」
駄目だ。
コノヒトには何を言っても通じない。
「さぁ、おいでお嬢さん。諦めという美徳にとっておきのご褒美をあげよう」
壁にあずけていた手が外され、そのまますいっとあたしへと向けられる。
差し出される手のひらから人質ならぬモノジチを引ったくるあたしに、影浦智孝は綺麗な笑みを湛えてみせた。
面食いです。
あたし――そうですね。もとからこの顔に惚れたんですよ。
性格なんて考えてもみなかったのですよ。
いいや、もちろん相手の性格を想像した。きっと優しくて、穏やかで、とっても……それは勝手な思い込みでしかなかったことを、今は知っている。
銀縁フレームの眼鏡の奥、面白そうな色を湛えたその瞳を睨み返しても――言葉が喉から吐き出されない。
案内されたマンションの入り口脇、駐車スペースのほうに止められた車を見てあたしは瞳を瞬いた。
「コレ……?」
「240SX」
以前の車はファンカーゴだったはずだ。だが、そこにある車はまた随分とイメージが変わる。よくいうスポーツ系。走らせる為の車。
カラーは赤。実は派手好きですか?
滑らかな流線のボンネット。今時あまり見ない開閉式ライト。
「走らせてみる?」
「オートマではないですよね?」
淡々と切り返せば、クスリと笑われる。
「残念。二段クラッチ」
助手席の扉を開き、どうぞと示される。あたしはおそるおそる車に乗った。
前回のステップワゴンに比べると随分とシートなどが違う。さすがにレース用バケットではないけれど、エアシートとは違う。
運転席に乗り込んだ影浦さんがちらりと横目でこちらを見て笑う。
「乗り心地はそれほど良くないかもしれないけど――楽しめる車だよ」
「楽しめる?」
あたしがシートベルトを締めながら言うと、それを手伝うかのように身を寄せた影浦さんはふいに更に手を伸ばしてあたしのシートを倒した。
「狭いからこんなイタズラも簡単にできる」
「っっっっ!」
自分の体重でがくんっと後ろに倒れこみ、面前で笑みを浮かべる男を前にあたしは目を見開いて声無き悲鳴をあげた。
「秋都ちゃんは随分と無防備だね。男の車に乗る時は気をつけなさい」
くつくつと笑いながら自分のシートの方へと身を戻す男を睨みつけ、あたしはわなわなと身を震わせた。
――ありえない!
「ああ、心配しないで」
あたしが身を硬くして睨んでいるのを笑いながら、影浦さんは車のエンジンをスタートさせた。低い駆動音。エンジンは冷めていないらしく、影浦さんはそのまま車を滑らかに動かした。
「車の中でなんてそんなつまらないことするつもりは無いから」
「何の話ですか!」
「秋都ちゃんは車のほうがお好み? それなら今度はダッチにしようか。車内は広いし移動も楽だし……冗談だよ。そんなに怒らないで」
なんであたしってばコノヒトの車乗ってるの!
「ごめんね、少しばかり浮かれているらしい」
「――」
「ずっと避けられていたようだからね。確かにちょっと驚かせすぎたかなとは思っていたんだ。ごめん。謝るよ――きちんと謝罪したいとずっと思っていた」
静かに語るその人の視線は前方を向いている。
車の運転をしているのだから当然だ。
――その横顔を見ながら、あたしはわけもなく動揺していた。
どうしよう。
これはどうしたらいいのだろうか?
謝罪を受け入れる、ということは――前回コノヒトがしたことを許すということだろうか?
前回、口付けられたことをあたしは、許せるだろうか?
許す?
それとも、それがオトナのやり方なのだろうか?
あたしは急速に自分が覚めるのを感じた。
この人にとってあんな口付けは何でもないことで、謝れば水に流される程度のことなのだろうか。そう思うと今度はやたらと胸がどくどくと鼓動するのを感じた。
「秋都ちゃん?」
「……」
そうだよ。
きっと何でもないことなんだ。きっと。
たかが小娘相手の、ちょっとした遊びでしかない――いいや遊びにもならない、ただの戯事。
「……いいですよ」
あたしは視線を逸らした。
流れる外の景色を視界に入れて、できるだけ静かに――感情をのせないように。あたしは淡々と返すことしかできない。
「もう、忘れましたから」
――悔しい。
あたしはずっとこの三ヶ月の間ずっと、ぽっかりとあいてしまう時間に、何かの拍子に、幾度も思い出しては青ざめたり動悸にのたうったりしたのに。
謝れば済まされる問題なんだ。
なんて下らない。
なんて滑稽。
意識して避けていた自分が莫迦みたいだ。
「そんな風に、謝らなくてもいいです」
「そう、良かった」
ふっと影浦さんが笑う。
「君とは仲良くしたいと思っているんだよ」
「……」
それは、あたしが春樹の妹だからですか?
あたしは淀みにはまるように、暗い感情でただ車の外を見つめていた。