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開幕――後編

「銀縁眼鏡?」

 再度階段を下り、花束を抱えて兄貴の元へと戻れば、不機嫌顔の兄貴がじろりとあたしを睨み付けた。

「うん。

さっき階段でぶつかりそうになったんだけど―――ちゃんと謝りたいな、なんて………」

 そろりとあたしの視線が兄貴から外れる。

どうにも嘘を言うことになれない。

そりゃ、勿論きちんと謝りたいというのはあるけれど、第一の目的は名前、だ。

名前!

今までの関係では決して出てこなかった単語だ。けれども今は目の前にカモ―――じゃあなくて………情報源が(ニュースソース)いるのだ、使わない手はない。

 あたしは俄然やる気だった。

「銀縁眼鏡なんて山といるだろ。

うちんとこは裏方やらスタッフやらタレントやら総勢三百人はうろってるぞ」

「うぅぅ、そか。

兄貴にも判らない人はいるかぁ」

「他に特徴は?」

「んっと、兄貴と似たような身長? もう少し高かったかもしれないけど」

「ほぉ?」

「今日の服装は黒いスラックスにシャツは薄いブルーのノータイで、白いジャケットを着て―――」

「今日の服装なんか知るか」

「あ、そか~、今さっき来たばっかりだもんね?」

「ってか、よくそんな細かく服装覚えてるな」

「いやぁ、やっぱり悪いなぁって思ったから、ちゃんと後ろ姿みおくっちゃったし」

 あたしは、ははははっと奇妙な笑いを返してしまった。

「それっくらいだとわからんなぁ」

「すごい綺麗な顔立ちの男の人だよ」

「ばっか、お前ねぇ?

ここは劇場なの。劇団員の大半は綺麗な顔立ちしてるっつうねん」

「あああ、そか」

 兄貴は乱暴にあたしの頭をかき回した。

「ほら、ボックス席のナンバープレート。

俺はこれから打ち合わせがあるからさ、上からリハとか見てればいいだろ?」

 ピッと黒字に金文字で書かれたボックスナンバーを手渡され、あたしは肩をすくめてそれを受け取り、兄貴が近くのスタッフを呼び止め案内役を言いつけると、そんな彼についてボックス席へと追いやられた。

 ロイヤル・オペラ・ハウスを模して作られたといわれるこの劇場は大きさこそ多少小さいらしいけれど、形上は似通っているらしい。

らしい、というのは元々演劇に傾倒しているわけではないので、あたしは詳しくないのだ。

 劇場の四階席は全てボックスタイプになっていて、ゆったりとした個室になっている。

簡単に説明するのであれば、マンションのベランダで上質のソファとテーブルを並べて、花火大会の見学をする感じ―――凄い、この説明って我ながら合ってる、と凄く思う。

ただ、花火の視線は上だけれど演劇の視線は、下。それでもってベランダといえどもその装飾は緞帳のような分厚いカーテンで華美に装飾されているのだ。

 テーブルの上には御菓子とお茶とかが置かれている。

これはきっと兄貴が持ち込んだものに違いない。

 そして、今日で楽日となる―――兄貴の脚本した劇のパンフレット。

ふと、あたしはそのパンフレットに手を伸ばしてぱらりぱらりとめくり始めた。

 一ページ目、右と左に男性の顔写真。

右が監督。左が脚本家。

そしてコメントがつづられている―――のは無視する。

次のページで本日のプログラムのあらまし。

そして見開きで俳優人の写真とコメント。

「あ、野島リョウト出演してたんだーっ」

 最近テレビにも出始めた二枚目俳優。

相手役の女性は、どこかで見たことある感じの綺麗な女性。大きな瞳が印象的だ。

元々人の名前やら顔やらを記憶する能力が低下している為、あたしはその女性がテレビCMで最近デビューしたタレントだとは気づかなかった。

 キャストの写真とコメントとが続いていく。

その全てを見やっても、あたしのお目当の眠り姫スリーピング・ビューティの写真は発見することができなかった。

「むぅ、裏方?」

あたしは大きく溜息を吐き出した。

裏方か、それともあとはあたしのように今日の楽日を見学にきた関係者の身内―――ということかもしれない。

 でも、そうしたら兄貴のあるんだか無いんだか判らないようなコネなんて、もう木っ端微塵だ。

 あたしは顔をしかめて乱暴にパンフレットをテーブルに放り出すと、可動式の一人がけソファをずりずりと動かして舞台が見やすそうな位置へと移動した。

 館内はほの暗い感じで照明が落とされていて、舞台の上では衣装をすでに着替えた舞台俳優や女優さん達がせわしなく動いていた。

 テラスの淵に腕を乗せ、更にそのうえに顎を預けて―――あたしはぼんやりと視線をさまよわせる。

「あたしのバカ………」

 そう何もかも、一足飛びにいかないんだ。

そもそも、あの人に奥さんがいるんじゃないかって―――あたしはずっと感じていた筈だ。

奥さんが居る人を追いかけてどうしようっていうのさ?

 長い睫とか、薄い唇とか―――ああ、声。

今日はじめて聞いた声が耳の中で響く。

「そうですね、できれば急いでいても走るものではないですよ。

ここは女優さんなんかもいるから、彼女達にぶつかりでもしたら大変ですからね」

って………って、あたし怒られてるしっ。

 こんもりと眦にあついものがこみ上げてくるのが判る。

深いテノール。

心地よい感じの声。

 視線をさ迷わせてその姿を探しながら、ふと―――あたしは突然その空虚さに襲われた。

「………」

 自分が求めているものか何であるのか、図りかねた。

誰かのものを取る気はない。

あたしはまだ二十歳そこそこの小娘で、そんな度胸もないし………不倫といわれるそれが、父の犯した幾つかの罪の一つであることも知っている。

 あああ、駄目だ。

あたしは壊れたんだろうか?

そもそも、何をそんなに先走っているんだろう。

 あたしと彼とは何の接点も持っていない。

ただただ、あたしが一年近く―――まるで変質者のように見詰め続けただけだ。

見詰め続ける、というそれ以外の行動が今日はちょっとあったからって―――あたし、舞い上がりすぎだ。

 ジョウチョフアンテイ。

あたしは大きく溜息を吐き出して、ぐいっと反り返るようにして今や大分後ろ手にあるテーブルの上のお茶のペットボトルに手を伸ばした。それでも届かないので面倒と思いつつも立ち上がる。

「ええぃっ、忘れてしまえ秋都っ!」

 乱暴にキャップを取って、ぐいぐい中身を喉の奥へと流し込む。

あの人はあたしの眠り姫。

それ以上でも、以下でもないのだから。

―――ただ好き。

 深い、深い、溜息。

一気にボトルの中身を―――まるで風呂上りの牛乳を飲むように、腰に手を当てて飲んでいたら、ばさりと分厚いカーテンが揺れた。

「―――おやじくせっ」

 一瞬息を飲んだあとの兄貴の台詞。

あたしはわざとらしくぷはぁっと息をついてやった。

「うっさいよ、春樹ちゃん。なに、そのうし………」

「ああ、お前が探してたのってこの人だろ?

服装が一致してたから、間違いじゃないと思ったからさ―――」

 あたしは腰に手をあて、ペットボトルを握り締めたままという。

何とも情けない格好のまま固まっていた。

兄貴の後ろ、分厚いカーデンを押しのけて現れた人は、若干兄貴よりも身長が低い―――銀縁眼鏡の、あたしの………眠り姫。

 少しばかり驚いた様子で目を見張り、それでもすぐに気をとりなおすように微笑みを浮かべた。

影浦智孝(かげうらともたか)さん、この劇場の持ち主(オーナー)

「こんにちは、影浦です。

さっきのことを気にしているって春樹が言っていたけど―――さっきも言ったけれど、実際ぶつかったわけではないのだから、気にしなくていいですよ」

「え、あの………」

あたしは何を返して良いのかわからなくて、オロオロと視線をさまよわせてしまった。

酷い、兄貴―――こんなのは不意打ちだ。

「えっと………あの、春樹の妹の秋都っていいます。

ぶつからなかったけど、あの本当に御免なさい」

「だから、いいって」

 クスクスと笑われてしまった。

途端、あたしの頬がカッと赤くなる。

「なんだよ、いつもと違うじゃないか」

兄貴がにやにやと言いながら、何を思ったのかすいっと手をあげて影浦さんに空いている一人用のソファを示した。

「影浦さん今日は見てくんでしょ?

俺は下で監督と見るからすみませんけどうちの妹、頼んでいいですか?」

「大事な妹さんを、僕みたいな男と二人にしていいの?」

揶揄するような微笑みに、兄貴がまるでどっかの近所にいるオバサンみたいに手首のあたりからぱたぱたと手のひらを上下させて、

「こんな男女みたいのでよければどうぞ。

じゃ、すみませんが―――終わった後の舞台挨拶がすんだら迎えに来ますから。それまで頼みます。ほぅっておくとチョロチョロして邪魔くさいんですよ」

 まるで好き勝手なことをほざいて出て行ってしまう兄貴を、あたしは泣き笑いの顔で見送った。

 途端―――気まずい感じのボックス席。

むぅっと赤面したまま俯くあたしと、すっと優雅な調子で空いている席に座る影浦氏。

「座ったら?」

「え、あああ―――はい。

あの、本当にすみません。突然、こんなことになっちゃって」

「別に、気にしてないよ?

そろそろ開場時間にはなるけれど、開演まではまだしばらく掛かるから、館内でも案内しようか?」

「え、ああ―――」

「それとも、話し相手になる?」

「あたし、話し上手じゃ、ないですよ?」

 あああ、凄い。声………上ずってる気がする。

ベルベットの上質の一人がけ用ソファに座り、顔が上げられなくてもじもじと自分の手元ばかりを見詰めた。

「あ、そうだっ。

あの、あなた―――影浦さんが、今兄貴に車を貸してくれてるって、人………ですか?」

さっきのせてもらったファンカーゴ。

あたしはようやく会話の糸口を引っ張り出して、内心でほっと息をついた。

「ああ、ファンーゴ?」

 クスリと小さな笑みが耳に入り込む。あたしはそぉっと、下から覗き込むようにして見上げた。

 途端、柔和な笑顔であたしを見詰めてくれている瞳と出会う。

ああ………本当に綺麗な人だ。

黒い瞳が凄い、宝石みたい。

「劇場のオーナーさんっていうから、もっとお年を召した人かなぁ、とかおもっちゃってました」

「うん?―――少し若く見られるけれど、これでも二十七になるんだよ? 今月の末に、だけどね」

 凄い!

凄いよっ。

名前はおろか、年齢も、誕生月も、愛車だって―――こんなに幸せなことがあっていいのかしら?

 あたしは膝の上でもじもじと動いていた指先で、思わず膝小僧をつねってみた。

う?

痛いのか痛くないのかわかんない。

「秋都ちゃんはどんな車が好きなの?」

「えっと………」

あたしは一瞬詰まってしまった。

ほんの少し前なら、ファンカーゴと元気に応えていたことだろうし、もしかしたらこの場ではそういうべきなのかもしれない。

 けれど、あたしの心のベクトルは、傾いてしまっていたのだ。

―――それに、相手が乗っている車を言うのって、いかにもっていう感じがした。

「今はキューブですね」

「キューブって―――ああ、あの四角いヤツ」

って、そのまんまじゃないですか。

あたしは苦笑した。

「この間友人につきあって試乗したら、一目ぼれしてしまいました」

「そう―――残念。ファンカーゴって言われていたら、あの車秋都ちゃんに上げてもよかったのにな」

 え゛?

あたしは固まってしまった。

影浦さんはくすくす笑いながら肩をすくめて見せる。

 冗談?

そか―――冗談か。

あたしはそっと自分の胸元を抑えた。

 こういう人、なのか?

話しを変えよう。うん………

「あの、劇場のオーナーさんっていうのは、どんなお仕事なんですか?」

「オーナーっていうのは名ばかりだよ。

僕はただの出資者に過ぎないから。僕が資金面を支えて、みんなにより良い演目を演じてもらって、収益を出してもらえれば万々歳、ってとこかな」

「えっと、偉いんですよ、ね?」

「さぁ?

一番割に合わない役どころだとは思うけれどね」

―――偉い人、なんだよね?

だから喫茶店で毎日のように昼寝をしているのだ。

と、いうかそういう状態が許される人なのだ―――この当時は知らなかったけれど、許されている訳ではなかったらしく、相当仕事関係の顰蹙は買っていたようだが。

 ふいに、会場内がざわめいた。

あたしがくんっと伸びをしてホールの方へと視線をめぐらせると、影浦さんが薄く笑った。

「一般客が入り始めたようだね」

「そうみたいですね―――」

 いつの間にか舞台にはスタッフの影もない。

重い緞帳が垂れ下がり、舞台の奥と客との間をきっちりと切り分けた。

「あ………」

「どうかした?」

「あの、暗くて良く判らないですけど………舞台の両隣、黒い人達が動いてる?」

「ああ、オケの人達だよ」

桶?

力一杯首をかしげたあたしに、影浦さんが笑う。

「オーケストラ。

舞台の音楽は全てオーケストラに任せてあるんだ。さっきのリハの時は違う階のホールで練習していたからね、気づかなかったんだね」

「うわぁ、昨年と違って凄いですねぇ」

「ロイヤル・オペラ・ハウスのミニュチュアっぽくね」

「影浦さんは良くこうして見に来るんですか?」

 あたしは身を乗り出して空席が埋まって行く様子を眺めた。

「いや、まったく来ない」

 さらりとした返事が返った。

あたしは振り仰ぐ。

「舞台じたいを見るのも、今日が初めてだね」

「だって、オーナーさんでしょ?」

「オーナーはいなくとも舞台はあがるんだよ」

―――そりゃ、そうかもしれないけれど。あたしは眉を潜めてしまった。

  


―――今日が初めて。

と、言ったその人が瞳を伏せて完璧眠りに落ちてしまったのに気づいたのは、劇がはじまって三十分たらずのことだった。

「ね………てる?」

 あたしの呟きが音楽にかき消される。

喫茶店『つゆねぶり』で見るそのままの姿。

さすがに今は銀縁の眼鏡を掛けてはいるものの、両腕を組み、右足に左足を乗せる形でくみ上げ―――軽く俯くようにして瞳を伏せている。

 あたしは溜息をついた。

この人………どこででも寝れるの?

 あたしの視線は歌劇を演じる俳優から、自然と影浦さんへとうつされていた。

―――いつもとは違う距離。

手を伸ばせば触れられそうなその距離に、あの人が眠っている。

 それが幸せなことなのかどうかも、いまいち判らない。

あたしは身を伏せて、覗き込むようにその丹精な面を見詰めた。

心臓がとくとくと脈打つのを感じる。

 そっと手を伸ばしそうになって、慌てて留める。

触れたい。

その欲求が自分の中でどろりと体を支配してしまいそうで、身震いした。

―――好き。

 綺麗な顔。

優しい声。

きっと心も綺麗。優しい物言い。

あたしは胸がぐいぐいと締め付けられる感覚に眩暈すらした。

 そっと………そっと大丈夫、眠ってるから。

覗き込むようにしてゆっくりと指先で髪に触れた。

さらりと揺れる髪。ああ、やっぱり柔らかなねこっ毛。今は劇場内が暗くて判らないけれど、きっと陽光にすけて明るい色の髪。

肌が白い―――あまり日に当たらないのかもしれない。

すっと身を離して、自然とその視線を左手の薬指へとめぐらせた。

 繊細そうな指先は苦労知らずに見える。

指輪の跡もない。ほんの少しほっとするけれど、だからどうだと言われれば困るのだ。

あたしは自分のソファに戻り、ふぅっと自分の笑みがこぼれるのを感じた。

―――重症だ。

と、思う。

今、やたらと幸せを感じている自分は、ちょっともぉ………ヤバイ感じがする。

「キスでもしてくれるかと思いましたが」

 だからふいの声に、あたしは突然冷水を浴びせられたように硬直した。

「え………」

 何の迷いも無く、一対の瞳がこちらへと向けられる。

優しい微笑み。

兄貴のような無骨さがなく、優美な感じ、の笑み。

「あなたはいつだって、見ているだけなのですね」

 その一言が何を意味しているのか。

正直―――すぐに理解することができなかった。

くんっと体を伸ばすようにして体勢を整えなおし、右手の中指で眼鏡を押し上げる。こちらへと体勢をむけられ、あたしは自然と一人がけ用ソファの背もたれに背中をつけていた。

「その視線、好きですよ。

視姦されてるみたいにぞくぞくする」

「な………っ」

 なに?

ナニヲイッテ………

「触れたいのでしょう?

構いませんよ」

くすくす楽しそうにいいながら、ソファを立ってあたしの前に立つ。

あたしは体ががくがくと震えて、逃げ場を失って―――まるで稚い子供のようにふるふると首をふった。

「ああ、やっぱりかわいいなぁ。

つゆねぶりみたいだね。耳がたれてる感じの」

 『つゆねぶり』って、なに?

喫茶店?

あたしは混乱していた。

綺麗な綺麗な眠り姫が―――まるで目覚めたら別人だったような。

これは、恐怖だ。

 身を伏せてあたしの頬にひたりと指先が触れる。

「なに、なん………」

「そんなに怖がらなくても。

ね? ストーカーさん」

―――ストーカー?

その一言にあたしの中で何かが小波のように引いた。

 ストーカー………って、そう。あたしのしていたことって、そうなのか?

でも、別につけまわしたりとかしていた訳じゃないし。

ただ、見ていただけ。

ずっと、ずっと………寝ているその姿を観察していただけ。

でも、それってストーカーという分類なの?

―――あたしは気力が萎えてしまうのを感じていた。

 ジブンはハンザイシャだ。

それは二十歳ソコソコの小娘を打ちのめすのに十分な題材だった。

自分がしていることがおかしい行動だということは理解していた。

けれど、そんなに悪いことだという認識なんてしていなかった。気づかれなければいい。ずっと、気づかれてなんてないと………

「気づいて、たの?」

「結構人の気配に敏感だから。君が僕を見ていることには半年以上前から」

「………寝てなかった、の?」

「始めの頃は寝てましたよ。

僕は眠ることが大好きだから―――でも、体中を嘗め回すような視線を感じてたら、ねてられなくなっちゃいましたけど」

「そんな風に見てないっ」

 カッと自分の体温が上昇する。

嘗め回すって、あたしはそんなヘンタイじゃないぞっ。

そう強く言いたいのに、ストーカーと言われたあたしはそれ程の気力を持ち合わせていないのだ。

 くっと唇を噛む。

目の前には影浦さんの丹精な美貌。

「そう?

見てない?」

「………そりゃ、見てはいたけど。そんなイヤラシイ目で見ていた訳じゃ」

あたしの視線がさ迷うのすら許さないように、顎を捕まれ顔を固定される。

意外なほどの強い力にあたしは怯えた視線しか向けられなかった。

「見てましたよ。

アナタの心の中で、何度も犯された」

くすくすと笑うその人が、見た目どおりの人ではないという現実に―――あたしの血の気は完全に失せていた。

「イヤ………」

「イヤじゃないでしょ?

君はこうして何度も僕と口付けた―――」

 ふわりと柔らかな唇が触れる。

一度触れて、二度目は強く。

三度目には唇の輪郭をなぞるに舌先が舐める。

ぞくぞくと走るその感覚が恐怖なのか畏怖なのか、快感なのか―――理解できない。

四度目に触れた唇は、舌先で歯列をなぞりあげて意思をもってその隙間をこじあける。

「ん………」

覆いかぶさるような口付けと、噛み付かれるような激しさと、口の中に入り込む唾液だとかに翻弄されて、あたしは意識が霞む気がして―――

「可愛いね、秋都ちゃん」

―――クスクス笑うその人が、天使ではなくて悪魔なのだと―――気づいたのは二十歳の秋口。

 あたしの淡い恋心が木っ端微塵に壊れた、そんな日。


―――それが、幕開け。



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