四幕――前編
本屋で特集が組まれていたバレンタイン・スイーツの本を購入するという行為がこれほど恥ずかしいものだったとは知らなかった。
――思い返せば今までチョコを他人様にあげたことが無い訳ではない。小学生、中学生の頃は楽しいイベント事の一つとして、男友達というよりもむしろ女友達にいわゆる友チョコをあげたり、なんとなく流れで男友達にあげたりしたものだ。
幾度かチョコを作ってあげたこともある。
だがしかし、思い返せばアレは「チョコを作った」というものだったろうか? あたしは自宅の一人がけソファに胡坐をかくようにして座り、膝に乗せた本をぺらぺらとめくりながら思い出してはいけないパンドラの箱をこっそりと覗き見た。
――溶かして、固める。
そう、子供の頃のあたしときたら、そんな恐ろしいことをしていた。
一度などは電子レンジで軽やかにチンっとチョコレートを溶かし、まぁ普通に焦がした。微妙な香りを放つソレを、やっぱり微妙な顔をしながらアルミ箔の型に流しいれて、なんとなく歪んだような形のチョコを力いっぱい他人様に差し出した訳だ。
今思うと「ごめん。腹下さなかった? なんか色々本当にごめん!」とひたすら謝りたい気持ちになるので、開きかけたパンドラの箱はそのままそっと閉じておくことにする。
電子レンジはまずかったなー……なんか表面が白くなっていた気もするし。
ああ、なしなし。もうそんなことは忘れよう。
あたしは苦笑しながらテーブルの上に広げたボックスチョコ――元々影浦さんにあげようと思って購入していたチョコを一つつまんで口の中に放り込んだ。ちょっとばかり奮発した高級チョコは濃厚な甘さで口の中にとろりと溶けていく。
きっちりと味見をして購入しただけはある。やっぱり美味しい。
「でもチョコレートは難しいなぁ」
何より温度調整が。
湯煎で溶かすのに、温度調整が必要なんて今まで考えたこともないあたしだった。しかも、温度の変化は二回だと? 電子レンジで溶かした過去の自分に「よく見てみろ」と突きつけてやりたい。しかもチョコレートの溶かし方は湯煎。お湯の入ったボールを用意し、もう片方のボールに砕いたチョコレートを入れて。湯の中にボールを浸してゆっくりとかき混ぜて溶かすのだ。チョコレートを溶かす方法に電子レンジは書かれていなかった。
あ、もしかして今はやりのシリコン・スチーマーならイケるのではないか? 一瞬浮かんだことをそうそうに排除しておく。
ああ、だからそれはもうナシ。電子レンジチョコは封印しよう。
あ、実はあれって兄貴にもあげたんだよね……――もう忘れてくれていることを願おう。
「生チョコ・トリュフって簡単そう?」
むむむ。レシピにも「あたしにも出来た! 超簡単生チョコ・トリュフ」となんとも魅力的な文字が並んでいる。
眉間に皺を寄せながらとりあえず本の右上を斜めに折って目印とした。
***
――あの日、影浦さんは朝一で東京へと帰宅した。あたしは会社の研修がまだ一応残っていたし、用意されている新幹線のチケットは昼の便だった為に影浦さんがタクシーに乗るのを見送った。
なんとなく照れくさいような気持ちで手を振ると、影浦さんも手を振り替えしてくれて「またね」と優しく言ってくれた。
うん、あの人は優しい。
確かに時々ちょっと「アレ?」と思うことはあるけれど、影浦さんは優しい人だ。まぁ、出会いというか劇場で顔を合わせた時はめちゃくちゃインパクトが強すぎて、きっと怖い人だという思い込みをしてしまったに違いない。
普通――あんな場で口付けとかしないだろうけど、きっとアレはあの人流の、じろじろ自分を見てくるあたしへの仕返しみたいなものだったに違いない。
……少し無理があるような気もするけれど、でも、あれ以来非道いことをされたことは無いし、きっとやっぱりあたしの勘違いとか、イメージの捏造とか?
あたしは一人であれやこれやと考えながら、どんどん眉間に皺を刻みこんだ。
と、手の中で生チョコをころころと成型している時に、玄関のチャイムが音をさせた。
あたしは更にむむむっと眉を潜める。だって手の中にはチョコレート。手は汚れているし、洗ったりとか面倒臭い。
だからいっそ無視してみようかと結論付けた。
平日の夕方に連絡も無く来る人間など、新聞屋の勧誘くらいしか思いつかない。
だがしかし、その来客はやがてガチャリと鍵穴に鍵を差し入れ、おもむろに玄関扉をあけて「秋都―っ、いねぇのか?」と乱暴な口調でどかどかと進入した。
しかもこの兄貴ときたら、無断進入しながら台所のあたしの姿にギョっとした様子をみせ、ついで言葉にしたのは「その危険物は止めろっ」だった。
「悪いことは言わない。季節柄そういうノリで作りたい気持ちは判る。だがな、それを食った人間とは交流が断絶し、おまえは代々呪われる暗黒の――」
「うるさいわ!」
「おまえの作ったチョコはザリザリする、チョコとは名ばかりの呪われたアイテムだ!」
あたしはカチンっときて、ずんずんと兄貴に近づくと現在手の中でちょっと不恰好な形をしているチョコを無理やりその口に押し込んだ。
「ぐふぅっ」という断末魔の声をあげた兄貴だが、そのまましばらく大仰に壁に張り付いたかと思うと「人間五十年、されどわが身はたかが……って、あれ、結構美味い」と復活した。
「なんだ、普通にチョコじゃないか」
「何だと思ってるの」
あたしはギロリと兄貴を睨みつけた。
「絶縁宣言の呪いの黒い爆弾?」
「……」
「俺は昔もらったぞ。あまりの酷さに一週間おまえと口を利かなかったというのに、おまえはちっとも気にしていなかった。あれは俺に対しての嫌がらせなんじゃなかろうかって本気で悩んだもんだ」
くそぉっ。そこまで言うか。この鬼畜め。
あたしはふんっと横を向き、シンクで乱暴に手を洗った。
「それより、なに? 突然来るなんて珍しい」
「おまえが就職決まったって言うから、お祝いに来てやったんでしょが」
兄貴は言いながら手にしていたブランド系の袋をとんっとカウンターに置いた。
「お兄ちゃん薄給だからあんまり期待しないように」
「いやいやいや、就職祝いだって期待してなかったよ。うわっ、すごい嬉しいっ」
あたしは大げさに言いながら、指先でつんっと袋の入り口を引いて中を覗き込んだか、中のボックスは包装されていて何かは判らなかった。
けれど大きさからして財布。その下にはなんと封筒まで入っているものだから「うわっ」とその封筒を開いて――脱力した。
「ものごっつい量の公演チケットありがとう」
……ちらっと現金とか商品券とか期待してしまった妹だった。
強欲な自分よさようなら。
「友達に配っといて。おまえも見たいなら来る日言っといてくれればボックス席空けてもらうよー。あ、男できたか? 男とボックス席でデートなんて悪くないぞ? バレンタインの日は生憎埋まってるけどな」
男できたか? の言葉に、何故それをっ! と一瞬慌てたものの、こんな風にいそいそとチョコを作っていれば丸わかりか。
あたしは肩をすくめて唇を尖らせ、
「こっちのことより、兄貴のほうはどうなの? 彼女どころかそろそろ嫁さんの話があってもおかしくない年齢だと思うけどね」
「おまえこそやかましいわ」
肩をすくめた兄貴が居間の一人用のソファに腰を落とし、無遠慮にテーブルに置かれているチョコレートを一粒摘んだ。あたしは全部食べられてはたまらないと、慌てて残りのチョコを死守した。
「ケチ」
「ケチで結構! すぅっごく高いんだから、コレ。大事に大事に食べるのっ」
べっと舌を出して箱を閉ざし、あたしはわたわたとチョコレートを冷蔵庫にしまいこんだ。
その後は適当に二人で軽口を言い合っていたが、ふとあたしは思い出した。
今現在、実はあたしの携帯料金を払っているのは兄貴だ。今使っている携帯は、兄貴から贈られたもので、そのまま料金まで払ってくれている。
でもあたしは就職するのだし、ここはやっぱり兄貴に解約なり請求書をこちらに回してくれるように言うのが正しい社会人だろう。
「うわっ、やっぱり市販のチョコのほうがうまっ」
――もうしばらくほっとこ。
あたしはふんっと横をむいてチョコレート作成に戻ることにした。
「おまえさ」
「なに」
「智孝と結構連絡取り合ってるの?」
突然兄貴がそのへんにある雑誌をぺらぺらとめくりながら言うから、あたしは小首をかしげたまま「結構の度合いがわからないけど、たまには」どころか、つい最近一緒の部屋でお泊りしてしまいましたよ。
何もありませんでしたけどね?
「ああいう人間はさ、お兄ちゃんとしてはあんまり付き合って欲しくないんだわ」
「はぁ? お友達でしょ? それ酷くない?」
あたしが憤慨して言うと、兄貴は黙々と雑誌に視線を落としたまま返答した。
「友達とは違うでしょ。あっちは雇い主――俺、雇われ人だもの。いくら親しくしていたってね、なんというか胡散臭いじゃん?」
「そんな風に思ってるのね。判った。今度影浦さんにチクっとく」
あたしが冷たく言うと、兄貴は慌てて顔をあげた。
「お兄ちゃんは可愛い妹を心配してるだけだって! だって、あいつやけにおまえの話詳しいんだよ! ストーカーじゃねぇのかってくらいっ」
ストーカーという言葉に、あたしはギクリとしてしまった。
ストーカー……それが実はあたしのほうだったって知ったら、兄貴はどう思うのだろう。
「影浦さんはそんな人じゃないよ」
そう、影浦さんは。
「トモダチなの。電話もメールもするし。兄貴ってば変にかんぐりすぎ」
あたしはギロリともう一度兄貴を強く睨み、ついで嘆息した。
「妹の友達関係に口出しとか。そんなんじゃ彼女ができたところで嫌われるからね」
「うっ」
兄貴が言葉を詰まらせるのを溜息で見返し、あたしは生クリームと溶かしチョコレートで練り上げた生地をころころと手の中で転がした。