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三幕――後編

 ぱたぱたと不必要な程シーツを引っ張っていたあたしの左手側で、影浦さんがくすくすと笑う。

「え?」

突然の笑い声に、あたしは引きつりつつ隣へと視線を向けると、影浦さんはやんわりと微笑を浮かべてその生地を示した。

「浴衣――確かにこの格好で休むっていうのは無理だから、嬉しい心遣いだね」

 ばさりと浴衣を広げ、ついで視線を向けたあたしに影浦さんは瞳を細めた。

「向こう向いてもらっていいかな?――それとも、着替えるのみたい?」

 そのなでるような声に、あたしは慌てて視線をそむけて壁を見た。

「どうぞ! でも、あたしが着替える時もよそを向いて下さいね!」

 怒る様に言えば、影浦さんは「はいはい」と楽しそうに返答し、ばさりと浴衣を捌く。聞こえてくる衣擦れだとかがますますあたしを動揺させ、あたしは身を固くしてぎゅぅっと不必要に目をつむってしまった。


「はい、もういいよ。今度は私があちらを向いてるから、着替えをどうぞ」


 その言葉を合図に、あたしはびょんっと飛び出したびっくり箱の滑稽なおもちゃのように跳ね上がり、わたわたと持参してあるパジャマに着替えた。


 この後何が起こるのかを想像すると、少しこわい。

それにあたしお酒臭いし、ああ、夕方にお風呂に入ったとはいえ、もう一度入りたい! 歯だって磨いてないしっ。

 わたわたとしているあたしとは違い、影浦さんは暢気な調子で「もういい?」と聞いてきた、途端「はいっ」と元気に返事をしようとしたあたしの耳に――携帯音が響いた。


ぴしりと、あたしの中で何かが亀裂を作る。


 影浦さんが枕元に置いた携帯電話。

もう、深夜――こんな遅い時刻に、電話? そんなこと、普通の人が……する?


 それと同時にあたしは相手が誰だか気付いていた。

きっとあの人。

 新里晴美二十五歳OL――

影浦さんは携帯の画面を一旦確認すると、吐息を落としてサイドのボタンを押した。

ふっと液晶画面が色を失い、携帯の音が消えうせる。

 面前の影浦さんは藍色の浴衣姿で素敵だと思うけれど、あたしの心は冷たく固まりその姿にうっとりと見ほれることもない。

「この調子じゃまた掛かるかな――秋都ちゃん、目覚まし頼んでいい? 私の携帯は電源切っておいたほうが良さそうだから」

 あたしは心が冷え込むのを感じながら「いいんですか?」と震えそうな声を掛けた。


「心配されてるとかなんじゃ」

「心配してはいるだろうけど、でも一応メッセージは残して来たからね。あとは勝手にやってくれないと、何の為に雇っているのか判らないよ」

 苦笑と共に言いながら、それでも仕方ないというように影浦さんは携帯をもう一度起動すると「ごめんね」と断ってそのまま携帯を耳に押し当てた。


「新里、こんな時間に何?」


 あたしの心音がとくとくと跳ねている。

泣きたいような気持ちで、おそらくきっとあの人と――新里美晴さんと話している影浦さんを見つめていたあたしが、不自然にぎゅっと枕を抱くと、影浦さんはちらりとこちらを気にするように見て微笑んだ。

「口煩いよ。それくらい一人で対応してくれないと。給料減らすよ?」

砕けた口調で言いながら、肩をすくめた影浦さんは、ついで眉を潜めて携帯から耳をはずすと、ふいに携帯をあたしへと差し出した。


「変わって欲しいって言うんだけど――いいかな?」


 あたしは喉を上下させ、相手の真意がつかめずにおそるおそる影浦さんの携帯に手をかけ、震える心を宥めながら耳に押し当てた。


「すみません、こんな時間にお邪魔して。新里美晴といいます」

よどみなく耳に入り込んだのは、それはそれは渋いオジサマ音声でございました――

「にいざと、よしはる、さん……?」

 あたしの中で軽い混乱が起こり、思っていた人、それはつまり新里美晴(にいざとみはる)二十五歳OLだと決め付けていたというのに、掛かってきた相手は新里ヨシハル、ヨシハ、ル? オジサン?


アレ、何でしょうこれは。


「窪塚秋都さんで宜しいですよね?」

「え、ああ、はい……そのようです?」

 混乱しているあたしは奇妙な口調で言いながら、頭の中で必死にミハルとヨシハルを転がしていた。

「影浦が迷惑を掛けていませんでしょうか。すみません。それで、ご迷惑ついでに申し訳ありませんが窪塚さんの携帯に電話させて頂いて宜しいでしょうか?」

「は?」

「本当にご迷惑のことと思いますが、影浦は自分の都合で電話を無視する男なのですが、貴女からの連絡であれば快く受けるものと思います。ですので、もう幾度も窪塚さん経由で影浦に電話を掛けていただこうと不躾とは思いますが窪塚さんに電話を掛けさせていただいているのですが、知らない番号にはお出になられない様子ですので――機会がありましたら一度お願いしたいと思っていたんです」


 淀みなく言われる言葉に、あたしはしばらく思考を停止させ――「ああ!」とうなずいた。

「最近の末尾67の電話!」

「はい、それです」

……この人でしたか。

「番号は残っておりますでしょうか? なんでしたらこの後もう一度窪塚さんの携帯に掛けさせていただきますが」

「ああ、まだあります。登録しておきますので……あの、名前の漢字をお尋ねして宜しいですか?」

 あたしはゆっくりと問いかけた。

着信拒否した番号って戻せるんだっけ? と混乱を引きずりながら。

「新しい里、美しく晴れるで新里美晴(にいざとよしはる)です」

……新里美晴はOLではありませんでした。二十五歳でもなさそうです。

この数ヶ月の自分が滑稽すぎます。


 やけに朗らかに言う相手との電話を切り、携帯を影浦さんに差し出すと影浦さんは苦笑をこぼして瞳を細めた。

「以前から挨拶したいといわれていたんだけど……大丈夫? 何かおかしなことを言われたとかないといいけれど」


 おかしいといえばおかしい頼まれごとだ。だが脱力していたあたしはそんなことはどうでも良かった。

「疲れてるみたいだね。電気消して休もうか?」

「そうですね……」


 古い作りの寮の照明は出入り口の脇。影浦さんは携帯を枕元におき、ついで扉のほうまで行くと鍵を掛け、最後にパチリと音をさせて電気を消した。


 途端に、一瞬で謎の緊張が自分の中に広がっていく。

あたしは慌てて自分の布団の中にもぐりこみ、激しく鼓動する自分を必死に押さえ込んで毛布を掴んだ。

 狭い部屋の中を移動し、影浦さんが入り口から手前にある毛布を跳ね上げる。あたしはその一挙一動に息苦しさを感じた。


「さっき」

ふいに言われた言葉に、思わず声をあげそうになって慌てて口をあけ、なんとか喉の奥にその音をおしとどめた。

「どうして来たのって言ったでしょう?」

「はい――はいっ、いいました」

 上ずる声を影浦さんはどう感じただろう。

あたしはぎゅっと体に力を込めて、情けない自分を叱咤した。

覚悟を決めろ。そうだぞ、秋都――これはつまり、あたしが誘ったんだから。あたしが、泊まっていけばいいって……つまり、そういうことで。

 そう、そういう……こと、で。


「久しぶりに声を聞いて、会いたいと言ってくれたから我慢できなくて会いに来ました」


 さらりと言われた言葉に体温が高くなる。

「春樹に電話を入れたらここを教えて貰って……本当は顔だけ見に来ただけなんです。研修と言えども、あの時間ならもう自由時間かと思って」

驚きました?

 と柔らかく言われ、その言葉に「はい」とかろうじて返答を返す。


 わざわざあんな電話で会いに来てくれたという思いにふわりと心が温かくなる。

――会いたいという言葉に、会いに来てくれた。

あたしは天井を見上げ、ゆっくりと闇に慣れていく視線をそっとそっと左の影浦さんへと視線をずらした。

 影浦さんは枕の上に腕を乗せ、それに自分の頭を乗せて淡く微笑んだ。

眼鏡をかけていないその人に、心臓が壊れそうな程反応してしまう。


「さぁ、もう休まないと。おやすみなさい、秋都ちゃん」


その一言にあたしは衝撃を受けて、思わず上半身を軽く起こし、声をあげていた。

「あのっ」

「どうかした?」

――寝てしまうの?

そう口走りそうになって、慌ててあたしは引きつった笑みを浮かべた。


「おやすみなさいっ」

「おやすみなさい」


――友達の一歩を踏み出さないといけないのは、あたしだ。

あたしはぎゅっと唇を噛んで、勇気を振り絞って、震えるような声をやっと絞り出した。

「あたしっ」

「ごめん」

 そっと、あたしの唇に指先が触れた。

しなやかな、苦労など知らぬ繊細そうな指先があたしの言葉をとどめるように。

 それはあたしの心を否定するかのように冷たく触れた。


「ごめん。いい子だからもうお休み。友達の距離を踏みにじられるのはイヤでしょう?」

「……」

 あたしが自ら引いたラインを示し、影浦さんは苦笑した。

「君は忘れてしまっているかもしれないけれど、私の想いは変わっているつもりはないですよ。一応普通の男として性欲はあるんだ。こんな風に並んで眠るのも、唇に触れるのも……平静を保つのに随分苦労する」


 すぅと、血の気が引くような感覚。

腹部に突然穴を開けられたような冷たいものが巡る瞬間。

そして場を和やかにするように悪戯っ子の口調で囁いた。

「相応しい場とも思えないしね?」

クスリと喉の奥で笑う声に、あたしはかぁっと体温をあげつつ自分のかちりと固まってしまっていた時間が動き出すのを感じた。

 あたしは泣き笑いの顔で自分の唇に僅かに触れている影浦さんの手を自らの手で包み、ぎゅっとその指先にキスをした。


キスをしていると気付かれるように。


「秋……――」


「おやすみなさいっ」


 あたしは勢いをつけて布団の中にもぐりこみ、影浦さんに背中を向けて身を丸めた。

くすぶっていた不安がとろりととろけて自分の心がほかほかと無駄に温かい。あれ、もしかしてこれは酒のせいかな? 結構飲んだ気がするし。

 あたしは幸せな気分でまどろみながら、バレンタインにはハートのチョコを用意しようと切り替えた。

 市販のものではなくて、自分で一生懸命作ってみよう。


 そうして好きだとちゃんと伝えよう。


 友達というラインを自分で踏み越える。その為の時間を用意してもらえたことに、それができる相手の優しさに胸がふわふわと温かい。

 幸せ一杯のあたしの後ろ――やがてとろりと眠りに落ちた自分の後ろで、影浦さんが低く笑い、呆れるように何かを呟いた言葉は生憎とあたしに届いてはいなかった。







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