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開幕――前編

――綺麗な顔立ち。

 初めて意識したのは、きっとその顔だろう。

神田にある古書街の外れにある喫茶店『つゆねぶり』の席は、確かに昼寝には最適だと思えるゆったりとした安楽椅子。ぎしぎしと小さな音をさせながら本を読むのにも適していて、この店の客はなじみ客でほぼ占められる。

 その人はいつだって一番奥まった席に陣取り、コーヒーを一杯頼んだあとはそのまま眠りに落ちてしまうのだ。

 テーブルに置かれるコーヒーカップ。その横には銀縁の眼鏡と、彼の携帯電話。

音は出ていないが、その携帯のランプはいつも着信を知らせるグリーン・ライトを点滅させていて、けれど彼はそのことを頓着する様子はなかった。

 あたしは彼が眠る反対側の席――丁度横顔が良く見える位地を陣取るようにして、いつもアイスコーヒーを頼むのがつねだった。

――綺麗な、顔立ち。

 ある日ふと、気づいた。

いつもその寝姿を見詰めている自分に。

 年齢も、名前も判らない。

そもそも、昼間の三時近くにこうして喫茶店で毎日寝ている人間なんてろくな者ではない。

 自分で頼んだアイス・コーヒーのストローに口をつけながら、あたしはじぃっとその横顔を観察してしまう。

 無礼だとか、無遠慮だとかの単語はとっぱらう。

だって、相手は寝ているのだから大丈夫。きっと――知られていない。

 唇は薄い。

眠っている時にもきちんと口は閉ざされていて、涎がたれているなんてじたいを見たことも無い。

 両の手はきちんと自分を抱くように組まれていて、足も――左足を上にして組まれているのだ。

 衣服は毎日違っている。

どう見ても昼行灯なのに、丁寧にプリーツされた衣服は世話をしてくれる相手を思わせた。

――奥さん……かな。

 そう思って、顔をしかめる。

それがどんな感情だか、どうにも理解し難いのだ。

 勿論……自分がちょっと異常であることは否めない。

誰とも知らない相手を、毎日毎日、こうして眺めているのだ。

 時折居ないその人が、あたしを不安にさせる。

店の店主の話しでは、四時を少し回ったころには目覚めるらしいのだけれど――あたしはそれ以前に店を出る。

 言葉を交わしたりしたい訳ではなくて。

ただ、あたしは彼を見詰め続ける。

 ゆっくりとストローでアイス・コーヒーを吸い尽くす。

氷だけが残されたグラスをかたんっとテーブルに置いた。

他人の目をごまかすために置かれている勉強用の資料を大雑把に集めてファイルに戻す。

 友人の氷見(ひみ)はこんなあたしを知らないだろう。

変態とか、変質者とか――きっと、そんな言葉で分類されてしまうような行動。

 でも、見ているだけよ。

触れることも、近づくこともなく。あたしはただあの人を見詰めているだけ。

 むしろ――あたしは動くあの人を知らなくてもいい。

癖の一つで、店内の飾り時計を一瞥し、そしてその視線を腕時計へも注ぐ。

「おや、今日は早いんだね」

 店のオーナーの伊織さんが瞳を細めた。

――きっと、あたしの変な行動を知っていながら無視してくれている優しい、唯一の人。

「今日は駅前で兄と待ち合わせなの」

「えっと、あの脚本家だとかいう?」

「うん―――兄貴の書いた本の演劇が、今日楽日だから。

連れて行ってくれるって」

 本当だったら、こうして店へとやってくるのも躊躇したけれど――きっと、一目でもみないことにはあたしが落ち着かない。

 ヘンタイだなぁ。

あたしは内心で苦笑しながら、隣の空いた椅子に引っ掛けておいた上着と荷物とを同時に持ち上げた。

「じゃあ、ごちそうさまでした」

 あたしはマスターに言いながら、名残惜しい気持ちでちらりと奥の一席に視線を向けた、とくんっと心臓がはぜる。

――眠り姫は、眼鏡を掛けてこちらを見ると、口角をあげるようにして笑った。

 あたしは慌てて視線をそらす。

自分の中で動悸が激しくなるのを無理やり押さえ込み、何事もなかったかのようにするりとそのまま店を抜け出た。

「うわぁっ」

意味も無い言葉が口から飛び出し、焦りから口元を覆った。

動いたよっ!

って、そりゃ……生きているんだから当然っていえば当然なんだけど。

荷物と鞄とを胸に書き抱くようにして、あたしはどうにか自分の胸の鼓動を、体温の上昇を留めようともがいた。

――どうしよう。

 まるで自分がコントロールの利かないラジコンのようだ。

眠っている顔しか知らないから、その瞳を見たのも初めてだった。

髪は以外とさらさらとしているのかもしれない。もっと硬くてつんつんしていると思ったのに、体を起こしたあの人の髪はさらりと流れた。

――うわぁっ。

 あたしは不審者のようにじたばたと暴れ、携帯の音にはっと息を詰めた。

兄貴からの着信音。

ゴジラのテーマに、あたしは慌てて駅へと向けて駆け出していた。



「おっそいっ」

 人の顔を見るなり頭ごなしにどなりつけた兄だったが、あたしがあんまり肩を上下にして酸素を求めていることに対して、ゆっくりと息をついた。

「何かあったんなら連絡の一つもくれればいいだろ?

電話してんのにでやしねぇし。心配するだろうが」

 言いながら、兄貴――木ノ内春樹はあたしの手から上着と鞄とを取り上げ、腕を掴むようにして歩き出した。

「車、パーキングに入れてあるから――こっち」

「うぅっ、ごめんね、春樹ちゃん」

「いいよ。そんな顔真ッ赤になるまではしるこたぁない。

悪気は無かったんだろ」

――いや、あの。顔が赤いのは……ごめん、きっと違うわ。理由が。

あたしは肩をすくめつつも、とりあえず先程の動揺からは逃れた自分を感じた。

「でも、春樹ちゃんが遅刻とかってまずい訳でしょ?」

「別に――俺は脚本家であって、監督じゃないから。

俺がいなくたって舞台は上がるし、何の変化もないさ。ってか、秋都? お前体温高いんじゃないか? 熱でもある?」

「え、あ……大丈夫。でも、あの……冷たいお茶、飲みたいかも」

 やっとついたコインパーキング。

料金支払いの機械の横には小銭を作る為なのだろう――自動販売機があった。

あたしの一言に、財布をいじっていた兄貴が小銭をじゃらりとあたしへと手渡す。

「俺、ブラックコーヒー」

「ホット?」

「冗談辞めて。このあっついのにホット呑む程俺ってばジョウネツテキじゃない」

 変な区切りをつけていいながら、自分は駐車料金をしっかりと払う。そして領収書も忘れないあたりが兄貴らしい。

 止められている車が馴染みの兄の車でなかったことに、あたしは首をかしげた。

「なに? どしたの?」

「借り物だよ――俺の車、劇団の人がお茶買いに行く時に出しやすい場所にあるってだけで使われてさぁ。事故られた」

「えええっ、大丈夫なの?」

「まぁ、一応劇場のオーナーが自腹切って治してくれるって言うから。

で、これはオーナーの車」

「劇場のオーナーの車が……ファンカーゴですか?」

 あたしは苦笑してしまった。

薄いブルーのファミリーカー。可愛らしいフォルムの車だ。

内装は少し手を加えてあるのか、ウッド調のパネルにエアシート――なんと座るとゆっくりと沈んで心地よい状態でフィットする。

 笑い飛ばしたものの、確かにこれは――高そうだ。

内装なんてまるきり標準と違う。

 タッチパネルのインダッシュDVDナビに、あたしは自然と手を伸ばした。

「ををっ、兄貴のナビと違うっ」

「うっさいっ!

あんまベタベタ指紋つけてんじゃねぇぞ」

 あたしは噛み付いてくる兄貴に缶コーヒーを放り投げ、自分はペットボトルのお茶の蓋をひねった。

「二十歳の娘ならね、缶コーヒーの蓋くらいきっちり開けてから男に渡しなさいよ。

お前、相変わらず彼氏の一人もいないだろ」

うっ。

あたしはぎろりと兄貴をにらみつけた。

「いまだに謎の科学研究部だとかに埋没してんだろ」

「謎をつけるな」

「このマッドサイエンティスト」

「マッドをつけるなっ」

 あたしはふぃっと横を向いた。

車はゆっくりとしたスピードで九段下の方へと走り出す。兄貴と話しをすることによってあたしの中の動揺は綺麗さっぱりと消えうせていた。

 ほっと、薄い胸に手をあてて息をつく。

――あの程度で動揺してどうするのだ、秋都。

 らしくないっ。

「なぁ、秋都」

 兄貴は胸のポケットから煙草を取り出し、一瞬止まってからそれをぐしゃりと潰した。

「父さん、元気か?」

「さぁ?――三ヶ月くらい見てないけど?」

「っのクソ親父っ」

「別に一人でも不便ないよ。

生活費はちゃんと振り込まれてるし……一応バイトもしてるし」

「まだやってんじゃないだろうな、あの如何わしいバイト」

 兄貴が更に顔をしかめる。

「如何わしいってなにさ?

別に試薬実験はいかがわしくないよ。動物実験はすんでるんだし……ギャラ、いいんだよ?」

「十分如何わしいっ!

お前ねぇ、オンナノコなんだよ? もし後遺症が残るようなことになったら……」

「最終実験だよ。そんなことは滅多にないよ」

「滅多にはあるんだろがっ」

 あまりの剣幕に、あたしは顔をしかめて片手をあげた。

宣誓の形。

「もうしません」

 兄貴が心配性なのは、きっと父親がだらしの無い人だったからだろう。

あたし達の両親は、あたしが高校を卒業するのを期に離婚した。元々破綻していた関係だったから、おそらく――子供達が自立できる年齢になったのを期に離婚しようというのは昔から決まっていたのだろう。

 子供達は自立できる年齢ではあったけれど、親権というものは存在する。

兄は母親の姓になった――あたしは、父の姓を名乗った。

兄貴は憤慨したけれど、あたしはそれほど父親という人が嫌いではなかった。ただ、夢ばかりを追っているような人だっただけだ。

 そんな父親と一緒に暮らしているあたしに、兄貴はしょっちゅう連絡をくれるようになった。

一緒に暮らしている頃は、別に仲良しこよしの兄妹だった訳ではない。

むしろ兄貴にしてみれば、六つ年の離れた妹は邪魔臭かったに違いない。

 だから――こうしてあたしの心配をしてくる兄貴は、きっとどこかに罪悪感をもっているのだと思う。

 兄貴が父親の姓を名乗れば、あたしが母親の姓を名乗っていたであろうと――勝手に勘違いしているに違いない。

そんなことはないのに。

 ずいっと手が伸びて、あたしの頭をぽんっと撫でた。

「一人で寂しかったら、俺と一緒に暮らしてもいいんだぞ?」

「一人暮らしを満喫してるってば。

春樹ちゃんってば、あたしだってもう成人迎えたんだよ。子供じゃないの」

「………」

「男とかひっぱりこんでんじゃないぞ」

オイオイ。

「さっきは彼氏の一人もできないのかっ、てバカにしたくせにっ」

「うっさい。俺がお前の親父みたいなもんだからな。

彼氏ができたらちゃんと連れて来いよ? 俺に一発殴らせろ」

「あんたさだ○さしですか」

あたしは自分の前髪をかきあげて、ふっと面前に見えてきた【シエスタ】と呼ばれる劇場に背筋を伸ばした。

「あ、なんか以前見たときより綺麗になってる」

 以前来たのは約一年程前だ。

その時も兄貴の脚本の演劇の鑑賞の為だった。

「ああ、半年くらい前にオーナーが変わったからな。その時に改装されたんだ」

 兄貴は劇場の裏手にある関係者専用の駐車場入り口に車を回し、警備員の前で車を止めた。

エンジンを切ることもなくシートベルトを外し、ちらりとあたしへと視線を送る。

「ここで降りて。

車は警備員が入れてくれっから」

「へぇ、なんか前と違うね」

「関係者用の駐車スペースが削減されたんだよ。その分一般客用になって、んで無理やり詰めていれてっから俺の車が見知らぬ誰かに使われたりするわけだ」

「うわっ、寂しい」

「売り上げあがったら立体駐車場にしてくれるって言ってた」

 どだろうねぇ。

なんて軽口を叩きながら、兄貴に肩をたたかれてあたしは劇場の裏口から館内へと足を踏み入れた。

「今のオーナーは金に煩いからなぁ。いろいろとこっちもやりにくい」

「オーナーの車使ってるくせに」

「だって単独事故だぜ?

保険使うって、俺の保険じゃんか―――保険使わないでもきっちり直してくれるっつうんだからのっかるしかないべ」

「金に煩い割りに優しかったのね、よかったじゃない」

 あたしは肩をすくめた。

「それに、ファンカーゴの乗り心地よかったし」

実はファンカーゴが欲しい車のリストの中にあるのだ。

「ばっか、あれは特別仕様だからだよ。ノーマルだとまた違うからな。

気になるんならちゃんと試乗してこいよ。

あれを基準にしたら、がっくりだぞお前」

「んー、確かにそんな気はする。

それに、実はあたしの中でランキングの変動があって、今はキューブもいいなぁって思ってるんだよね」

「うわっ、ミーハーだ」

ほぅっとけ。

「あのかくかくしいトコとか、実はシートがベンチシートで面白かったりとか、なかなか手触りもいいとことか」

 列挙してあげていると、兄貴は肩をすくめた。

「なんだ、キューブは試乗したのか?」

「ギアがハンドルの脇についてるのってすっきりだよねぇ」

「ばっか、コラムっていうんだよ。そういうの」

 二人で喧嘩のように言い合いながら廊下を歩いていると、クスリと笑い声が耳に入り込んだ。あたしはあっと小さく呟く。

 ふんわりとした栗色の、やわらかそうな髪を揺らした、兄貴と同年代っぽい女性。

その手に冊子のようなものを幾つも抱えたその人は、小首をかしげてこちらを見ていた。

「木ノ内さん、彼女さんですか?

仲良しですね」

「ちがっ」

 慌てて手を振る兄貴を見て、あたしはぴんっときたね。

少なくとも兄貴はこの人にちょぉっと関心があったりするのだ。

すっと兄貴の手に自分の腕をからめ、にっこりと微笑んでみる。

「はじめまして、春樹ちゃんがお世話になってます。

あたし窪塚秋都(くぼづかあきと)っていいます。春樹ちゃんって我儘だけど、どうかこれからも仲良くしてあげて下さいねっ」

「まぁ、可愛い彼女さんね。

木ノ内さんってば隠してらしたのね?」

「ちがっ、妹ですよっ。

妹ですからっ」

「まぁ、酷い彼氏さんね。

ではね、秋都さん」

 クスクスと楽しそうに微笑み、じゃあっとその場を去っていく人を尻目に、あたしはひらひらと手を振った。

「誰が彼女かっ」

「ふっふっふっ。今のは完璧に誤解したよねっ!」

「ばっかやろうっ」

 兄貴の叫びを後ろに、あたしは上機嫌にステップを踏んだ。

「あ、やべっ」

 ふいに顔をしかめていた兄貴が立ち止まる。

「なに?」

「花、買ってくるの忘れたわ―――秋都、わりぃけど隣に花屋あるからさ、一万くらいの花束作ってもらってきて」

「一万? 豪気だねっ」

「それっくらい当然なの。ほれ、これ入場パスな。出入り口でこれ出せば入れるから。

それと、戻ったら速攻俺の名前言って俺のトコ連れて来てもらえよな?

ちょろちょろすんな」 

それが人にものを頼む態度か?

 言い返してやろうかとも思ったが、あたしは肩をすくめて受け取った万券とパウチされたパスをひらひらと揺らした。

「りょーかい」

「素直で宜しい―――じゃあ、あとでな」

 兄貴が手を振るのに合わせて、あたしは近くの階段をするりとおりた。

ストラップがついているパスを首から提げて、階段を二段飛ばしで小気味よくおりていく。

勢いがのっているから、階段の途中踊り場では手摺りをじくにしてくるりと回転するように向きを変えた。

 駐車場と本館とをつないでするのは三階であったから、三階から二階、二階から一階へとテンポよくおりたところで―――突然人の気配にあたしは慌てて手摺りにつかまり、危うく相手にぶつかる寸前で自分の体を引き戻した。

「ごめんなさいっ」

 慌てて頭を下げる。

どう考えても自分が悪い。

だって、廊下を走っていたのは自分。

子供だってそれはいけないことだって知っている。

「大丈夫ですよ。ぶつからなかったし」

 やんわりとした口調で言われ、あたしはその人の進路を塞いでいる事実に再度気づいて慌てて身を寄せる。

「ホント、御免なさい」

「そうですね、できれば急いでいても走るものではないですよ。

ここは女優さんなんかもいるから、彼女達にぶつかりでもしたら大変ですからね」

 はあ、まったくもって………その通りでございます。

あたしはかしこまって更に頭を下げた。

「では、失礼しますね―――」

その言葉にあたしはやっと顔をあげた。

相手を背を見送る為に―――

「え………?」

その後姿を呆然と見上げながら、あたしは間の抜けた声を出してしまう。すると、階段を昇っているその人は一旦足を止めてあたしを見下ろした。

「なにか?」

「いえ……あの。何でもありません」

 とくんとくんと心臓がはぜる。

ドウシテだろう?

あたしの中に一杯の疑問符。

ああ、そっか………あたしのことを知らないんだ。

あたしはこの一年近く、ずぅっと見てきたけれど、きっと彼は今日―――ちらりとあたしを見ただけだ。それだって、きっと記憶の片隅にも残らないような………少しも彼の記憶に引っかかることの無い存在。

 その背を見送りながら、あたしは自分が涙を零したのを感じた。

好きだ―――

身長、実は兄貴より高いのかな? 高さ的には似てる気がする。

立っている姿もはじめて―――ってか、歩いてるし。

ああ、どうしてあそこでブレーキかけたんだろう?

むしろぶつかってしまえばよかった。

とりとめないことを考えながら、あたしは苦しかった。

―――喫茶店でいつも眠り続けるあたしの眠り姫。

 それまであたしの中で、彼はテレビの画面の中の人と変わらなかった。

けれど目覚めた彼を感じた時、あたしは激しい程の悲しみを感じていた。

辛い、苦しい―――あの人はあたしの中でこんなにも侵食しているのに、あの人の中であたしはほんの一こま、ほんのすれ違い。ただの一瞬。

 あたしはしゃがみこんで必死で嗚咽を堪えた。

どうしてこんなとこにいるんだろうとか―――どうしていつも寝てるのとか、もうどうでもいいくらい。

 あたしはこんなにもあの人を好きなのだと、その日………やっと自覚した。

しばらく涙でぼろぼろになりながら膝を抱えていたけれど、やがてあたしはすくりと立ち上がった。

「よっしゃあ―――っ」

ここにいる。

ここはどこ?―――ここは劇場で、今あたしがいるここはスタッフや関係者しか本来は居られない場所だ。一般の人たちには入ることができない場所。

「ってことは、今までよりも一歩近づいたってことよ、秋都っ!」

 ぐぐっと拳を握りこみ、あたしは涙で少しばかり霞む目元を一気に手の甲でこすり上げた。

「よしっ、まずは兄貴を捕まえないとっ」

立ち上がったあたしは―――兄貴に鉄拳を喰らった。

理由は簡単………頼まれた花を忘れていたからだ。


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