トキメキの種
初めまして。
私の名前はエルザ・アロイスター。アロイスター公爵家の長女ですわ。
ちなみに、雪だるま好きの妹なんていませんわよ?いるのは素敵なお兄様と可愛い弟だけですわ。両親も健在でしてよ。
物語が始まる前にお知らせしたいことがございますの。
私、悪役令嬢ですの。
あら、やだわ。何番煎じかなんて知りませんわよ。聞かないでくださいまし。
定番化されてますから、粗方の事はご存知ですわよね?
私が前世を思い出したのが十歳の誕生日の時です。婚約者のレオハルト様を招いてのパーティーの最中に階段から滑り落ちて頭を打ってしまいました。色んな不幸が重なったが故の事故だったのですが、あの時は死ぬかと思いました。
幸いなことに怪我は軽く済みましたが、頭を打ったせいか目眩と微熱があり、しばらく安静が言い渡されたのです。
この世界が前世でやっていた乙女ゲームの世界に酷似していると気がついたのは、寝込んでる間に知らないはずの記憶が走馬灯のように脳内を駆け巡った後でした。
え?私の前世に興味ごございますの?あまり語るほどでもない平凡な人生でしたわよ。思い出したのはほんの一部ですし。その一部が家庭用ゲームの内容なんてどれだけ娯楽好きだったのか、前世とはいえお恥ずかしいですわ。
ゲームのタイトルを聞いてどうしますの?知らなくても問題ありませんわ。いえ、覚えてない訳ではありませんことよ。トキメキの花をどうのこうのといった乙女ちっくなタイトルでしたわ。「どうのこうの」が正式名称かなんてバカな質問はしないでくださいませ。
内容は一四歳から三年間通う学園で、庶子の男爵令嬢が美形男子を攻略していくありきたりなお話ですの。
その攻略対象のほとんどのルートで悪役令嬢として登場するのが、私ですわ。
王太子であるレオハルト様のルートでは、婚約者である私が悪役になるのは当然なのですが、他のルートでもしゃしゃり出てきます。だって攻略対象の婚約者方は私の大事なお友達なんですもの。お友達の代わりに主人公を責め立てておりましたわね。少し度が過ぎた感じはありますが、主人公からすれば良い気分ではありませんわね。
仕方ないこととはいえ、悪役令嬢に科せられた罰は酷いものです。事故死や没落してスラムで殺害されたり、娼館へ身売りさせられたり、修道院への幽閉されたりと、有り難くない物ばかりです。悪役に優しくない物語ですわね。
ゲーム内容を思い出したからには全力で回避する所存ですわ。
本当は婚約しない事が一番なのですが、前世やこの世界を思い出したのが婚約後ですし、それに、その……レオハルト様の事は、その、好き………ですもの。
なんですの!?いいじゃありませんか!人を好きになったって。
どうせ悪役顔ですわよ。吊り目で高笑いが似合う顔してますわよ。髪の毛だって、豪奢な金髪のくるくるの巻き髪ですわよ。良いではありませんか、人の外見をとやかく言うなんて品性を疑われましてよ。
ともかく、主人公が誰を選ぶかは卒業式まで分かりませんの。でしたら、その間にレオハルト様や攻略相手の方とも良好な関係を築くのがよろしいわよね。
レオハルト様は出会った時からお優しくて、小さいながらも紳士で、まるで物語の王子様そのままでした。
恥ずかしくて上手く話せない私を優しくリードしてくださって、私に「可愛らしい」なんてお世辞でも嬉しいですわ。
そんなレオハルト様に嫌われるなんて、絶対に嫌ですわ。ましてや婚約解消だなんて、泣きますわよ。号泣ですわ。卒倒して寝込むかもしれませんわ。
ですので、私、全力でバッドエンドを回避したいと思いますの。
とりあえず、王妃教育を頑張って、もしも回避出来なかった時の為に資金を貯めて逃亡先と手段を講じております。
そこの方。今、なんておっしゃいました?
どうせ前世持ちの悪役令嬢なんて、逆に勘違い主人公をざまぁして婚約者とハッピーエンドだろ。ですって?
まず、自分の立場に置き換えてお考えになってくださいませ。
前世のゲームと酷似した世界だとしても、同じとは限らないでしょう?私が前世持ちならば、主人公が前世持ちである可能性がありますわよね。
悪役令嬢転生なんて定番化しすぎて、何が起こってもおかしくないんですのよ。むしろ、展開がわからなくなってしまってますの。
そして、ここは私にとっては現実。リセットボタンもセーブもロードもないのですわ!お分かりになりまして?死ねばお終いなんですのよ!?
未来になんの確証等ないのです。『そうなるかもしれない』という不確かな予測しかできませんのよ。こんな状態で楽観的になれるはずもございませんわ。
ならば、できる限りの安全策は講じなければなりません。一寸先は闇ですわ。恐ろしい。
幼い頃から母に教えられた通り、凛と前を向いて背筋を伸ばして、エルザ・アロイスターとして恥じないように。
私、決して負けませんわ!
二年後。十六歳となった私は運命に打ちのめされております。
やはりこの世界はゲームシナリオに忠実なのかもしれません。
今年の春に主人公であるアリス・ヴェルタールが二年生へと編入し、たった数ヶ月でレオハルト様と親しくなったようです。
今日も学園のカフェで二人で楽しそうに笑いあっていました。
優しい笑顔のレオハルト様を見る度に胸が締め付けられるような痛みがあるのですが、なるべく表情にでないように努めます。ここで嫉妬に狂って主人公を虐めてしまえば悪役令嬢一直線です。
「まあ!また二人で会ってますわ。エルザ様、ここは忠告しておかないといけませんわよ」
「周囲には他の学生もいます。公共の場での『ただのお話』ですわ。皆様も気にしないでくださいませ」
先日は空き教室で二人を見かけたので、注意をさせて頂きました。婚約者のいる男性と婚約者ではない女性が二人で会っていればあらぬ噂もたちますでしょう?
でも、あれはイジメのフラグになるのかしら。
私のバッドエンドを防ぐ為にも主人公であるアリスを虐めない、必要以上に関わらないが鉄則。そう決めてますのに、アリスはレオハルト様を始め、私のお友達の婚約者たちとも仲良くしている様子。必然的に私と会う機会も増えるのが、今一番の悩みですわ。
それにどこまでがイジメにカウントされるのかしら?ゲームのイベント等の細かい事はあまり覚えていませんの。
定番では私物の破損に、嫌味や蔑み、後は階段からの突き落としだったかしら。
私物の破損も突き落としも致しません。怪我をしたら痛いし、物を壊すなんて品がありませんわ。
残る嫌味は難しいですわね。公爵家の私が男爵家のアリスに注意すれば蔑みと取られるかもしれません。かと言って、こちらが下手に出るわけにもいきません。
さじ加減が難しいのですが、とりあえずは余り近寄らない方向でいこうと思います。
主人公のアリスは、ざまぁ系によく居る勘違い令嬢ではなく少しぽやっとした可愛らしい女の子です。少し、体を動かすことが苦手なように見えます。なぜ、何もない平面でつまずいたり、目の前の物にぶつかったりするのか不思議ですわ。
あ、また転けた。
渡り廊下で盛大に転けたアリスを見て、思わず駆け寄りたくなりました。こちらは二階なので、階下に下りている間に起き上がってしまうのでしょうけれど。
これが庇護欲なるものかしら。恐るべし主人公。
あら、騎士団長のご子息のキリル様が助けに入られましたわ。あの方もジザベルという婚約者がいるのに最近よくアリスと居るのを見かけます。
今も何か話しているようですわ。あら、キリル様のお顔が真っ赤になっています。アリスが楽しそうに笑っていて、キリル様が拗ねたようにアリスの頭を軽く小突きました。
なんでしょう。あの親密感。妹分というには年が近いし、モヤッとしますわね。
レオハルト様といい、キリル様といい、なんなのでしょう。
あぁ、モヤモヤしますわ。
私は二人を見ていたくなくて、教室へと足早にむかいました。
アリスとレオハルト様たちの噂が静かに学園に流れ始めました。
男爵家のしかも庶子の娘が、王太子や公爵・伯爵家の方々と仲良く話しているのだから当然と言えば当然です。
妬み嫉みなどの悪口が私の耳に入ってきます。偶然の場合もあれば、わざわざ報告にいらっしゃるかたもおりました。
教科書やノートの破損などもあったようですが、私は一切関わっておりませんわよ。
庇ったり助けてあげることは難しいのですわね。
だって、そこまで仲良くしているわけではありませんもの。どちらかといえば避けてる相手ですもの。私が庇うのはおかしいでしょう?
ほんの少し嫉妬があるのは認めますわ。
察してくださいませ。
アリスに夢中なのかと思えば、レオハルト様は変わらず私に優しく接してくださいます。
パーティには変わらずエスコートしてくださいますし、その際にプレゼントや嬉しい褒め言葉もくださいます。
私を見つめる目は甘く優しくて、戸惑ってしまいます。
レオハルト様は、私を好きでいてくれるのでしょうか。…分かりません。
気持ちが判らぬまま学園は二学期を終えようとしていたある日、私はレオハルト様に呼び出しを受けたのです。
まさか、もう断罪イベントが始まるのでしょうか。
友達のジザベルとアリシアも自分の婚約者に呼ばれたようで、生徒会が使う応接室の近くで2人に会いました。
震える手でノックをすればレオハルト様の声で応えがあり、今にも心臓が飛び出そうな程の緊張を飲み込みドアを開けました。
部屋の中には思っていた通り、レオハルト様とキリル様、現宰相のご子息のエリック様、そしてアリスがいました。
断罪イベントが始まったのかと、私の顔は蒼白になっていたと思います。
なんとか礼をとり挨拶を終えると、レオハルト様がにこやかに微笑む。
「呼び出してすまない。今日は話があってきてもらった」
『婚約者を破棄する!』そんな副音声が聴こえてきそうで、不安で両手を固く握り締めてしまう。
やはり没落だろうか。国外追放ならば、貯めた資金でなんとかなるかもしれない。それよりも牢に入れられたり、即処刑なんてならないですわよね?仮にも法治国家ですもの。
ああ、でも、どうしましょう。
「とりあえず、座ってくれないか?」
緊張で上手く動けない私の手をレオハルト様が優しく導いてくれる。
あれ?何か変。
どうして私の横にレオハルト様?
ジザベルの横にはキリル様。アリシアの横にはエリック様。其々、婚約者同士で座り、アリスは1人で座っている。
位置関係が変ではなくて?
ジザベルとアリシアも狐に化かされたような表情をしています。互いに目を合わせても誰も答えが分かりません。
そんな中、レオハルト様が穏やかに話し始めた。
「話と言うのは、学園で流れているヴェルタール男爵令嬢と私たちの噂についてだが、ヴェルタール男爵令嬢が直接申し開きをしたいそうだ」
レオハルト様の言葉を受けて、皆様の視線がアリスへと注がれます。アリスは緊張の為か小刻みに震えていましたが、勢いよく立ち上がるとテーブルにぶつけるのではと心配になる程頭を下げた。
「この度は、ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございまひぇん!」
…噛んだ。
本人も気になったのか「ここで噛むとか……」と呟いたのが丸聞こえです。耳まで真っ赤になってふるふると震える姿が可愛くて頰を緩めれば、隣のレオハルト様は遠慮なく吹き出してました。笑うなんて失礼ですわよ。
「自覚がおありになるようで何よりですわ」
ジザベルが発した冷たい声に和みかけた場が一気に冷え切りました。
ジザベルもかなりイラついてましたものね。
キリル様が人目のある場所でアリスに恋文を渡したと噂されて、その厚さが話題になってたような気がしますわ。
「本当に申し訳ありません。昔から熱中すると周りが見えなくなると言われてたのに」
「それは貴女が私たちの婚約者に言い寄っていた件についてですの?」
まるで耳を垂らして落ち込むウサギのようなアリスにジザベルが嫌悪も露わに問い詰める。
「ち、ちがっ、言い寄ってません」
首が取れそうな勢いで横に振り否定するが、私たちがそれを信じる事は難しい。
「貴女にそのつもりがなくても、そう見えても仕方のない態度でしたわ。エルザ様が何度か注意されたのに、それを無視するかのように殿下たちと何度もお会いになって」
「そ、それ、それは、ご忠告頂いたので、場所や時間はなるべく考えていたのですが。えっと、ダメだったんでしょうか?」
アリスの返事に驚きが隠せません。
なんということでしょう。
私の言いたい事が半分も伝わってません。TPOを選べと言ったわけではなく、婚約者でもない男性と二人で会わないようにと伝えたはずなのに。
私の言い方が悪かったのか、それともアリスの常識がないのか。……庶子ならば貴族の常識は疎いのかもしれませんわね。
「貴女ね…」
「ジザベル嬢。それについては、彼女だけではなく私たちにも責任はある。つい熱が入ってしまったんだ」
「レオハルト様。それは…」
なおも責めようとしたジザベルをレオハルト様が嗜める。
それは、レオハルト様もキリル様もエリック様もアリスのことを?
問い詰めたい言葉はレオハルト様に微笑まれて飲み込んでしまいました。
「その件はまた後で。誤解を解くには、彼女の正体を明かさなければならない」
アリスの正体?
主人公という以外に何かあるのでしょうか。
訝しむ私たちにレオハルト様は予想外の名前を告げた。
「ハリス・ヴィクターという名前を知っているかい?」
ハリス・ヴィクター。
その名前は確かに知っているけれど、なぜその名前がこの場に出てくるのかしら。
「ハリスと言えば、作家の名前では?うちの店でも取り扱ってますわ」
アリシアの家はいくつかの商会を抱えているので書籍などの流行にも詳しい。
ハリスの本も彼女が薦めてくれたのでしたわね。
「『レディ・グレイの事件簿』を書いた方ね。私、『王国物語』も全巻持ってますわ」
彼の書いたレディ・グレイのシリーズは、若くして未亡人になった女性が様々な事件を解決していく話で、女性が主人公の物は恋愛小説がほとんどだったので発売された時はかなり話題になりました。
いつも毅然としたレディ・グレイは、誰に対しても公平で優しくて魅力的で密かに憧れたものです。
『王国物語』は誰もが知っている歴史書『創始伝』を現代語訳にして新しい切り口で捉えた物語です。これを読めば難解な『創始伝』のあらましが解るとあって、子どもを持つ親に特に人気なのだとか。
発売されると同時に母が買い求めておりました。
「そのハリス・ヴィクターの正体が彼女なんだよ」
レオハルト様の爆弾発言に、部屋の音が一切消えた。ほんの一瞬だけ。
「「「!!!」」」
私もジザベルもアリシアも目を丸くしてアリスを見つめます。
彼女は注目された事に更に顔を赤くしながらも小さく首を縦に振った。
「え?その、レオハルト様。ご冗談を…」
「冗談ではないよ。彼女のペンネームは『ハリス・ヴィクター』。そして私達は彼女の協力者だ」
まるで悪戯が成功した時のような笑みに、状況も忘れてときめいてしまいました。
小さい頃からこの笑顔に弱い私です。
「殿下のおっしゃる通り、ハリス・ヴィクターの正体は、わ、私です。ギリューさ……編集の担当者から、恋愛小説以外を女性が書くと批判が多いから、男性として出版することになったんです」
そして、アリスは殿下たちに協力を求めた詳細を語ってくれた。
曰く、担当者から次は恋愛物を書いてほしいと言われたが、本人に恋愛経験が無く困っていた時にレオハルト様に偶然出会い、協力を求めることになったと言う。
その出会いと言うのが、レディ・グレイの新作の原稿を拾ったのが始まりなのだとか。レオハルト様との出会いとなるオープニングでアリスが抱えていた紙束がまさかの原稿だったなんて。
レオハルト様は私がお薦めしたハリスの本はほとんど読んでいたので、拾った原稿がまだ読んだ事のない新作だと気がついたらしいのです。
そして、レオハルト様とアリスが二人で会って何を話していたかといえば…。
「主に、エルザ様の可愛いところとか、尊敬できるところとか、努力しているところとか、ざっくり言うと惚気ですね。もうお腹いっぱいで断ろうとしても権力を振りかざして止めてくれなくて…」
レオハルト様。何を、何をおっしゃったのですか!
私の可愛いとこってどこなんですか!
最近は嫉妬ばりして、可愛いくなんてありませんわ。
「ヴェルタール嬢は聞き上手だったからね、つい夢中で語ってしまったよ」
と、爽やかな笑顔でおっしゃるレオハルト様に怒っていいやら呆れていいやら、はたまた照れたらいいのか、もう分かりません。感情が飽和状態ですわ。
「では、キリル様が渡したラブレターというのは…」
「俺は言葉にするのが苦手なので、文章にさせてもらった」
騎士らしくキリッとしたお顔で横にいるジザベルを熱く見つめています。ジザベルも頬を染めてキリル様を潤んだ目で見上げています。
なんでしょう。見ているこちらがドキドキしてしまいます。
「キリル様のお手紙は、大変参考になったのですが、あの、内容が濃厚すぎて、ほぼエ…、いえ、その、年齢層が高くなりそうですので、その、今回は見送らせて頂きたいと……その、はい…。今回は全年齢が対象ですので…ええ」
「そうか。また協力できることがあればいつでも言ってくれ」
キリル様、何をお書きになったのかしら。
年齢層が高いって、それ成人しか見れない本ではございませんの?え?そうですの?
「キリル!貴方、何を書いたの!」
皆が気になった事をジザベルが鬼のような顔で問い詰めますが、キリル様は泰然自若としていて正に山の如し。
「いや、まだ書ききれてないのだが、ジザベルに触れた時に見せる色気についてや、オルトマン伯爵主催の夜会で我慢出来ずに部屋に連れ込んだ時の……」
「もうお黙りなさいっ!」
顔を真っ赤にしたジザベルがキリル様の口を両手で塞ぎます。
その上から手を重ね、熱い視線をジザベルに注いだまま唇を押し付けています。
男性に使って良いのかま、迷いますけれど、蠱惑的ですわ。
ジザベルの顔が赤く染まってます。
そうでしょうとも。見ている私もアリシアも赤くなってますもの。アリスは鼻息も荒く高速でメモをとっていますわ。
「エリック様は、大丈夫ですわよね?」
アリシアが柔らかい笑みで隣に座るエリック様に問いかける。
「心配せずともキリルのように明け透けに話すことはしないよ。君との情事は二人だけの物だ」
安心させるようにアリシアの頰を優しく撫でるエリック様ですが、今サラッと言いましたわよね?
そして、お二人とも経験済みなのですね。そんな話を軽くするものじゃありませんが、全く聞いた事がありませんわよ?
何なの、私だけ未経験なの?べ、別に羨ましくなんて、ちょっとだけ、いえ、かなり……いえいえ、そんな事ありませんわ。ええ、ありませんとも。
別に拗ねてませんわ。ええ。キスとかその先に進みたいとか、かなり思ったなんて言いませんわよ。
チラリと隣を見ればレオハルト様と目が合いました。それも胸が絞られるような破裂するような甘くて熱い視線です。
『視線で孕む』なんて言葉を思い出しましたわ。正にそれ!恥ずかしいけど、嬉しい。
心臓がもちませんわ。
私の心臓が限界を迎える前にレオハルト様は視線をキリル様たちに呆れた視線を向けました。
「全く。人が我慢している前で堂々と惚気ないでくれ」
「仕方ありませんよ。公爵様が結婚までは清いお付き合いをと血涙を流しながら頼み込んでいましたからね」
エリック様が同情した目で私たちを見て言いました。
なんですの、それ。知りませんわよ。
「まぁ、それもあと少しだけどね。エルザ。結婚したら、覚悟しておいて」
レオハルト様は私の髪を一房手に取り指に絡めると、そう耳元で囁きました。
覚悟って、覚悟って、そういうことですわよね。って、どんな覚悟が必要なのですか。
言葉が詰まって出来ない返事の代わりに小さく頷きました。
レオハルト様。極上の笑顔で「ありがとう」と耳朶にキスをするのはやめてくださいませ。
もう、色々と死にそうですわ。
「それで、エリックはアリスと二人で何をしていましたの?空き部屋から出てくる姿を目撃した人が何人もいますのよ」
アリシアがそう言うとアリスの表情がスッと抜け落ちました。両耳を手で塞ぎながら「赤点は嫌…‥赤点は嫌……」と呟いています。
なにがあったのかしら。
エリック様はアリスの様子など関係ないのか、アリシアだけを見つめています。
どう見ても貴方が原因ですのに、放置ですのね。
「私の貴重な資料を元に授業をしただけですよ」
「授業」
「ええ。もちろん、講義のあとはきちんと覚えているかテストがあります。テストが終われば、間違えた箇所をやり直し、復習をし、再テストをしました。空き教室を使ったのは、極秘資料を他の人に見せるわけにはいきませんからね」
「極秘資料」
「この私が教えているのです。満点が普通ですが、八割で合格としました」
「八割…」
それって高得点では?普通、再テストって半分も解ければ合格だと聞いたのだけれど。
いえ、それよりなんのテストなのかしら。
アリスを見れば虚ろな目で乾いた笑いを浮かべていた。
「アリシア・モルガン。フィネー暦七百五十年の十月二日にモルガン伯爵家に生まれる。父は………」
ぶつぶつと呟いているのはアリシアの生い立ち。ちょっと、いえ、かなり怖いですわよ。
アリスの様子を見たアリシアが慌ててエリック様を問い詰めます。
「なんの授業をしたらアリスがあんな風になるんですの!?」
「ごく普通の君の講義ですよ」
「え?私の講義って…なに」
「彼女は恋愛におけるトキメキが知りたいと言った。トキメキとは、喜びや期待で心臓が高鳴ることだ。私のトキメキは君のことと言えるだろう。ならば、彼女に君のことを知ってもらえば良いと思い、今までの君の資料を特別に貸し出しての授業を行った次第だ」
………こわっ。
突っ込み所が多すぎますわ。そして、堅物眼鏡のエリック様から「トキメキ」という単語が出てくる違和感が凄すぎますわ。
トキメキを知りたいからとアリシアの資料を使って勉強?アリシアの資料ってなんですの?講義が出来るほどの資料ってどれくらいありますの?
なんでしょう、鳥肌が収まりません。ふるりと体を震わせば、レオハルト様の手がそっと肩に添えられ、気がつけば密着しておりました。
なに。なにが起きましたの!?
右半分がレオハルト様の体温で温められ、左肩にはレオハルト様の手が……手が、腰にぃぃぃ。
待って。死にそう。
トキメキ過ぎて死にそうです。
レオハルト様から意識を移動させようと周囲を見れば、ジザベルはキリル様と寄り添い見つめ合っており、アリシアはエリック様の変質的な愛情に感動している様子。
アリスは魂が抜けたようにソファに座り、膝に肘を当てて顔を覆っていました。
「私はただ恋愛小説が書きたかっただけなのに」とか「取材対象を間違えた」とか「赤点はもう嫌」などと呟いています。
ごめんなさい。私に出来ることはなさそうですわ。
これで、誤解も解けたということでしょうか。
と、いうことは私、断罪されなくても良いのですね。
嬉しさに顔が綻ぶと、腰に添えられていた手に強く押されて半ばレオハルト様に抱きつく形になってしまいました。
ああ!左手がレオハルト様の太ももにぃいい!
押す事も引くこともできずにパニック状態です。というか、右手はどうすれば。
レオハルト様の匂いを全身で感じます。衣類の匂い?それとも香水?
匂いを嗅ぐなんて私ったらなんてことを。でも、レオハルト様に抱きしめられていて離れられないんですもの。
「これまで我慢したのだから、これくらいは良いよね」
レオハルト様の指が私の顎を上に向けます。レオハルト様の綺麗な顔が近づいてきてぼやけ……私の意識は落ちました。
微かに唇になにか触れたような気がしましたが、それを確認することはできませんでした。
もう、いろいろと限界です………。
二学期が終わり、小休暇を終えて三学期になるとアリスは登校しなくなりました。
何かあったのかと心配する私にレオハルト様が事情を教えてくれました。
アリスはこのまま三学期を休校した後に学校を退学するそうです。引き取られた男爵家では冷遇されていたこともあり、卒業までに出ていくつもりだったようです。出版社やレオハルト様たちの協力で予定よりも早く貴族籍も抜けられ、男爵家とも縁が切れたようです。
アリスにはアリスの事情があったのですね。だから、ゲームのアリスも救い出してくれる男性を探していたのかもしれません。
レオハルト様の計らいで一度お会いすることができましたが、アリスの表情はとても晴れやかでした。主人公として攻略者と結ばれるよりもご自分で選ばれたこの選択が幸せなのだと語っているようでした。
今は担当者の家に居候させてもらっているのだとか。
それってもしかして、トキメキの種ではないでしょうか。幸せそうに報告する姿に私も嬉しくなります。
他人のトキメキを取材するよりもアリスが実体験する日が近いかもしれませんわ。
楽しみですわ。
彼女はいずれハリスの正体を明かし、出版業界の女性進出の助けになりたいと語っておりました。
私も、レオハルト様も応援致しますわ。
後日、私宛に届いたハリスの新刊は、猟奇的な愛情を持つ博士と、彼に囚われやがて絆されていく令嬢のサスペンスロマンスでした。
………恋愛小説ではなかったのかしら。いえ、これもひとつの恋愛かしら。
いずれお会いしたら、お聞きしたいものですわ。
彼女のトキメキの種のその後も。
お読みくださりありがとうございました。