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口裂け女

オカ研の危機から始まる口裂け女退治。

『口裂け女』


 海戸千夜は地下鉄の駅のホームに立っていた。

 日光ではない人工的な光に照らされた男の背中を、見ていた。

 ブレザー姿の少女と背広を着た男が二人きり。

 広いホームに、たった二人。

 広い世界に、たった二人。

 男は、千夜の存在に気付いてはいない。

 千夜は、そんな男を憎んでいた。

 憎しみが胸を締め付け、激しく痛んだ。

 ──貴方を殺すか、私が死ぬか。

 そうしない限り、この激痛から解放されることはない。

 それならば、殺す。

 至極簡単なことだ。

 自分が死ぬくらいなら、相手を殺す。

 当然で、必然で、完全な答え。

 ──憎い、痛い、憎い、痛い。

 千夜がこんなに苦しんでいることを男は知らない。

 想像もせず、家に帰って家族と食事をし、語り合い、眠る。

 ──そんなことは、許さない。

 だから、殺す。

 せっかく、二人きり、なのだから。

「一番ホームに電車が参ります。白線の内側にお下がりください」

 二つの光る目玉が、咆哮と共に闇の奥から襲い来る。

 さあ手を伸ばせと、その背中を押せと、獣は叫ぶ。

 ──分かってるよ。そんな大声出さなくても聞こえてる。大体、言われなくても……。

 自分の意思で、殺す。

 自分の、この手で殺す。

 今までだって何回も殺した。何十回、何百回、何千回と殺してきた。

 刺殺、撲殺、絞殺、圧殺──惨殺、惨殺、惨殺。

 できるだけ苦しめて、できるだけ残酷に、殺すことを考えてきた。

 それを実行に移すことに、躊躇いなんてない。

 か弱い両手を前に突き出す。

 あまりにも簡単で、あまりにも呆気ない。

 殺人者の存在など想像してすらいない男に、それを回避する術はない。

 男はたたらを踏み、空気を踏む──わけはなく、重力に従って線路へと落下する。

 その直前に、助けを求めでもしたのだろうか。

 それとも、殺人者の顔でも拝みたかったのだろうか。

 体を捻って、千夜の方を向いた。

 男の顔は、黒一色だった。

 目も鼻も口も無い。黒く、暗い、闇。

 そんな顔が見えたのも一瞬で、鉄の獣が男を食い荒らす。瞬く間に、人体は肉片に変わる。

 千夜は、ただ立ち尽くしていた。

 ──私が殺した貴方の顔は……。

 男を殺したことなど、もうどうでもいい。

 ──貴方の、顔は……?




 背後のドアが無遠慮に開く音で、千夜は突っ伏していた顔を上げた。

「オカルト研究会ならオカルトを研究しろ! 呑気に映画なんか観てるんじゃない! 海戸に至っては寝てたじゃないか!」

 高校生らしくないぴっちりと七三に分けた黒髪、学ランの袖には生徒会の腕章。晴常高校生徒会長、鷹崎徹が声を張り上げる。

 千夜は振り返って鷹崎をぼんやりと見たあと、長机の上に置かれたDVDプレーヤーの画面に視線を移した。

「二度目のデビルシャークは拷問だからね。七十分の虚無だよ虚無」

 グレーのブレザーに三年生であることを示す赤いネクタイ、150センチ前半の小柄な体には不似合いな巨乳、前髪を切り揃えた黒のセミロングヘア、長い睫毛が縁取るクリっと大きな瞳。そんなアイドルのような美少女がオカルト研究会に所属しているとは、誰が思うだろうか。

「いや、初めて観たけど充分拷問だぞ」

 長机の一辺に四脚のパイプ椅子を並べて座った四人、千夜の右隣で高石正太が溜め息をつく。

 短く刈り込んだ黒髪に浅黒い肌、体格も良い彼は明らかに運動部員といった風貌だが、オカルト研究会の会長である。

「その映画が面白いか面白くないかの話はしてない! 海戸が晴常高校始まって以来の秀才だから認可されたようなお気楽研究会、俺は認めてないぞ! って、秋葉! 人が真面目に話している時に菓子を食うな!」

「食いながらでもなきゃ観てらんねえよ、こんなクソ映画」

 ポテトチップスをバリバリと噛み砕く秋葉は、千夜の左隣に座っている。

 茶色の癖毛に赤いフレームの眼鏡は今時の男子高校生らしく、オカ研には似合わない。

「じゃあ観るな! とにかく、生徒会で決まったからな、一週間以内にオカルト研究会らしい成果を出せなければ廃止! 勿論部室も取り上げだ!」

「生徒会の横暴だー! 恐怖政治だー!」

 秋葉の隣で声を上げた少女は杉浦花梨。美人ではないが愛嬌があり、茶色のポニーテールが活発そうなイメージを際立たせている。彼女もオカルトを研究するタイプには見えなかった。

「教師からの許可も取った、横暴じゃない! 部室も有限であることくらい分かるだろう!」

 鷹崎はそう言い切ると、ピシャリとドアを閉め、神経質そうな足音を廊下に響かせていった。

 二階建ての文化部棟の一階奥の部屋。八畳ほどの空間の中心にある長机と四脚のパイプ椅子。棚にぎっしりと詰められたDVDのパッケージには『ウィジャ・シャーク 霊界サメ大戦』、『ファミリー☆ウォーズ』、『ムカデ人間』など怪しげなタイトルが書かれている。

 DVDプレーヤーが停止したことに気付くと、秋葉は空になったポテトチップスの袋をぐしゃりと丸め、背もたれにだらりと体を預けた。

「マジかよ、クソ映画縛りで明日はムカデ人間2観ようと思ってたのに」

 その言葉に千夜は「ちょっと待って」と掌を突き付ける。

「ムカデ人間2はクソ映画じゃないよ。観る者を惹き付けるという意味で作品としては完成してる。ただしその要素は嫌悪感を煮詰めたクソ」

「結局クソじゃねえか」

「あたし、ムカデ人間は気持ち悪くてムリ。ホラー映画なら普通にリングとか観ようよ」

 七十分の虚無を味わった花梨はげんなりとした様子でまともな映画を希望する。

「それなら貞子VS伽椰子を推す」

「バケモンにはバケモンぶつけんだよ」

 千夜と秋葉は顔を見合わせてハイタッチをした。しかしポテトチップスの油が手に移った千夜は眉間に皺を寄せ、ポケットティッシュで拭う。

 付き合い切れないと言いたげに棚へと顔を向けた高石は、今まで気付いていなかったタイトルを目にして振り返った。

「デビルマンって実写映画やってたのか。漫画は読んだことあるから観るならそれにしないか?」

「それはやめろ、マジでやめろ」

「ハッピーバースデー、デビルマン」

 真剣な目で訴える秋葉と、棒読みで台詞を紡ぐ千夜であった。

 そんないつも通りのやり取りの後、花梨はようやく問題を思い出し立ち上がる。

「って、そんな場合じゃないでしょ! オカ研が無くなったら千夜の部屋から溢れたDVDの置き場も、こうやってみんなで映画観る場所も無くなっちゃうじゃん!」

 そう言われて高石はふむ、と考える。

「オカルト研究会らしい成果、か……」

 千夜も頬杖を突き、思考を巡らせる。

「オカルトねー、神秘主義神秘主義」

 巡り巡って、一つの疑問に辿り着いた。

「そもそも、何でうちってオカ研なんだっけ?」

「千夜がオカルトとかホラーとか好きだからだろ。俺もホラー映画好きだし。ホラー映画はクソ率高いからな」

「もう無くなってもいいんじゃないか、オカ研……」

 高石は真剣に考え込んだ自分が馬鹿らしくなった。

「諦めないでよ! そうだ、あたしこの間……、一週間くらい前、口裂け女っぽい人見たよ。それについて調べてみるのは?」

 拳を握り締め、花梨は三人の方へ身を乗り出す。

「口裂け女ってあれか? 『ワタシキレイ』って訊いてきて、キレイって答えようがブスって答えようが殺される……、ってやつ?」

「そう、その口裂け女!」

「口裂け女っぽいって、どんな奴なんだ?」

 高石の問いに、花梨は記憶を掘り起こそうと天井に視線を向けた。

「千夜のDVDで見たような、赤いトレンチコート着ててー、黒のロングヘアでー、大きなマスクした女の人」

「それは、普通に不審者じゃないのか」

「本当は不審者だとしても、そういう存在をきっかけに都市伝説が生まれるってレポートでも書いて提出すれば、なんとかなるんじゃない?」

「さすが千夜!」

 秋葉はパチンと指を鳴らす。

「じゃあ、町の人に聞いてみよっか!」

「二手に分かれた方が効率いいかもな」

 四人は立ち上がり、それぞれの通学鞄に手を伸ばす。

 鞄に触れようとして、千夜は自分の手を見つめた。

「MCH神経は何をしてるんだろうね。夢なんて起きた時点で忘れさせてよ」

「どうした、千夜?」

「いや、そもそも何であんな夢見たんだろう。現実で抱いてもない感覚を夢の中では感じるなんて、夢こそ神秘、オカルトだよ」

 千夜がわけの分からないことを言うのはいつものことだ、と高石はそれ以上追及するのをやめた。




「え、口裂け女?」

 晴常高校から十分ほど歩いたところにある、海を臨む商店街。花梨はそこで立ち話中だった二人組の主婦に声を掛けたのだが……。

「お嬢ちゃん、古い話知ってるのねえ。あたしが子供のころに流行った噂よ。ね、奥さん!」

「そうねえ、子供のころは怖かったわあ」

 買い物かごを提げた主婦は顔を見合わせ「子供の時といえば……」と昔話に花を咲かせようとするものだから、花梨は慌ててそれを遮り話を戻す。

「いえ、最近そういう話があって!」

「最近?」

「えっと、赤いトレンチコートを着てて、黒いロングヘアで、マスクをした女を見たんですけど」

「あらいやね、不審者かしら」

「不審者といえば聞いた?」

 結局逸れてしまう話に花梨は頭を抱え、振り返る。

「陰陽妖怪絵札コンプリートセット買っちゃった」

 共に聞き込みに来たはずの千夜は、怪しげな中古ショップ──一見すると普通の古物商という雰囲気だが、ショーウィンドウにはタロットカードやよく分からない木箱などが置いてある──から満足そうに出てくるところだった。

「千夜、真面目にやってよ!」

 花梨はいかにも怒っていますというふうに腰に手を当て、紙袋を手にしている千夜を睨み付けた。

「ごめんごめん、コンプリート品にはなかなかお目に掛かれなくて」

「もう!」

 気付けば、二人の主婦はお喋りをしながら歩き出していた。

「ここの店長さん曰く、三人いたって、口裂け女っぽい人を見たお客さん」

「え?」

 唐突な千夜の言葉に花梨は目を瞬かせる。

「このお店はオカルト好きが集まるからねえ。赤いトレンチコートに黒髪ロングヘアでマスクの女なんて、興味のない人の目にはちょっとした不審者としか映らないよ、すぐ忘れちゃう」

「そっか……」

 納得する花梨だったが、すぐに軽い手刀を千夜の頭に喰らわせた。

「それなら最初から言ってよ! 一緒に入れば良かったじゃない!」

「このお店は君には刺激が強過ぎます」

 千夜は真面目くさった顔で言うと歩き出す。花梨も慌ててそれに続いた。

「一人目が見たのは五日前、二人目は三日前、三人目は一昨日、だったかな。だから杉浦さんが初の目撃者かもね」

「あたしが?」

「まあ、他にも見てる人がいる可能性は大いにあるけど」

 そんな話をしていた二人の前に、男が立ち塞がった。

「お前らか? 口裂け女のことを調べてるのは」

 金髪を逆立て、鋭い目付きと言えば聞こえはいいが悪人面。青い開襟シャツに白いズボン、三十になるかならないかといったところだろうが、そこら辺の若者より何倍も鍛えているのが分かる綺麗に筋肉の付いた体。

 どう見ても、チンピラだった。

「そうですけど」

 千夜はきょとんとしながら答えたが、花梨がその腕を掴んで引き寄せそっと耳打ちする。

「ヤバそうな人……、逃げた方がいいよ」

 男は察したように肩を竦め、ズボンのポケットから名刺を取り出し二人に渡した。

「俺は怪しいもんじゃねえ。万骨祐、便利屋だ」

 便利屋という職業と名前、住所とスマホの電話番号、メールアドレスが印刷されたシンプルな名刺だった。

「えっと、便利屋さんがあたしたちに何か……」

「口裂け女退治の依頼を引き受けちまってな。何か知ってることがあったら教えてくれねえか?」

「知ってることですか?」

 千夜は小首を傾げて「うーん」と考え、口を開いた。

「ポマードを三回唱えると逃げるのは、口が裂ける原因になった整形手術の担当医がポマードをべっとり付けてたからというのが主流ですね。他の対処法、対抗神話は犬が苦手だから掌に犬と書いておくとか、好物のべっこう飴を渡せば舐めてる間に、普通って答えれば迷ってる間に逃げられるとか、高い所に逃げれば追ってこないとか多岐に渡ります。元々子供を塾に行かせる余裕の無かった親がついた嘘っていう説が有名なんですけど、GHQが情報の伝達速度を測るために流したデマなんていう話もありますよ。ちなみに百メートルを三秒で走るとか三姉妹説とか三鷹や三軒茶屋に出没するとか何故か三っていう数字に縁があって……」

「わりい、もういいわ」

 万骨はげんなりした様子でひらひらと手を振る。

「そういうのじゃなくて、目撃情報なんかを知りてえんだよ」

「あ、あの、この辺では一週間前からそれっぽい女が出没し始めたらしいです……、というわけで、さよなら!」

 花梨は千夜の腕をがっしりと掴み、商店街を駆け抜けた。




 商店街から百メートルほど離れた住宅街まで来ると、花梨はようやく立ち止まり千夜の手を放した。

「何で……、逃げたの……」

 千夜は息も絶え絶えといった様子でなんとか言葉を紡ぎ、一際大きく息を吐き出すと額の汗を拭った。

「だってあんなの、怪しさ全開じゃん! チンピラよチンピラ!」

 さほど疲れた様子のない花梨は大声で千夜を説き伏せようとする。

「大の大人が口裂け女を探してるのよ? っていうか口裂け女退治よ? ぜーったいおかしい! あたしたちを誘拐するための口実よ! さらって売り飛ばす気だったのよ!」

 少々発想が飛躍し過ぎている気もするが、千夜は「ふむ」と頷いた。

「達磨女コースかな? 中国の奥地やタイの見世物小屋で手足を失い虚ろな目をした姿で発見されるんだね」

「何それ怖い怖い怖い!」

 花梨はぶるりと震えて千夜から目を逸らし、道路を挟んだ先に建つ建物に気付いて固まった。

 晴常病院──この町の人間なら一度くらいはお世話になっている七階建ての総合病院だ。

「どうしたの?」

「あ、うん……。あたしのお姉ちゃん、ここに入院してて……」

「ネエ」

 ふいに、歩道に二人以外の影が差す。

 赤いトレンチコートに長い黒髪、顔の半分ほどを隠す白いマスク。

「この人だ、あたしが見たの……」

 花梨は千夜に囁く。

「ネエ、ワタシキレイ?」

 口裂け女のふりをした不審者か異常者か、花梨はとにかく穏便に事を済ませようと、顔を引き攣らせながら笑みを作った。

「き、キレイなんじゃ、ないですか?」

 女は「ソウ」と頷くとマスクのゴム紐に手を掛ける。

 そしてゆっくりとゆっくりと、口元を覆う布を、外した。

「コレデモキレイ?」

 女の口は、比喩でも何でもなく、耳まで裂けていた。

「え、うそ……」

 ポカンと立ち尽くす花梨の目の前に、大振りのハサミが迫る。

 口裂け女は、ハサミの刃を花梨に突き付けた。

「ホントニ? ホントニコレデモキレイ?」

「ひ……、やああああっ!」

 パニックを起こし、その場から動くことすらできない花梨。対して千夜は冷静だった。

「ポマード、ポマード、ポマード!」

 最も有名な対抗神話である呪文を、唱える。

「ヒイイッ!」

 口裂け女は悲鳴を上げ、二、三歩後退ると風のように、人間とは思えぬスピードで、二人の前から逃げ出した。

 危機を脱した花梨はその場にペタンと座り込む。

「今の……、本物の口裂け女?」

 口が裂けているだけなら特殊メイクでどうとでもなる。

 ハサミなど、どこでだって買える。

 ポマードという言葉には、恐れたふりをすればいい。

 しかし、あの足の速さだけは人間にはどうしようもない。

「あれが百メートル三秒の走りか」

 千夜は感心したようにうんうんと頷いた。




 千夜は自室のベッドに寝転び、考え込んでいた。

 白いワンピース姿でベッドに寝そべり、物思いに耽る美少女。一見絵になるような光景だが、部屋自体がどうにも妙であった。

 高級住宅地に建つ一軒家の二階。十二畳という高校生が一人で使うには少々広い部屋である。

 勉強机に教科書や参考書があるのは良い、普通だ。

 しかしベッドサイドのカラーボックスには愛らしいシュタイフのテディベアとジェイソンやレザーフェイスのフィギュアが仲良く並んでいる。

 そして大きなガラス扉付きの白い本棚の上二段には脳科学、心理学、生物学などの学術書が、下二段には『ファイナルデスティネーション』、『Mr.タスク』、『マーダー・ライド・ショー』などのホラーDVDがぎっしりと詰め込まれていた。

「千夜ー、もうすぐご飯だぞ」

 ドアを開けたのは、ワイシャツとスラックスにエプロンをした、ボサボサ頭に顎ヒゲ、黒縁眼鏡というひょろりと背の高い四十絡みの中年男。

「もう、おじさん、ノックくらいしてよ」

「悪い悪い。そろそろリビング来いよ、今日は千夜の大好きなオムライスだからなー」

 思考を中断させるだけさせ、去っていった海戸夜彦はホラー作家。千夜の母方の叔父だ。

 千夜は元々祖父母と母との四人暮らしであったが、高校生になったころに祖父と祖母が相次いで他界、母はピアニストとして世界を飛び回っているため、海戸が共に暮らすこととなったのだ。

「別に一人暮らしでいいのに。高校生ならそういう子だっているよ」

 千夜は独り言ちながらベッドから下り、リビングに向かった。

 ダイニングキッチンでサラダの盛り付けをしていた海戸は、千夜にだらしない笑顔を向ける。

「いやー、いっつも思うけど千夜は可愛い。生まれた時からそうだった。幼稚園でも小学校でも中学校でも高校でも、いつでもどこでも千夜が一番可愛い!」

 親馬鹿ならぬ叔父馬鹿ぶりを発揮されても、慣れたもので千夜は照れることもない。ダイニングテーブルに着き、ケチャップで可愛らしい猫の絵が描かれたオムライスを前にする。

 海戸がサラダをテーブルに置き、千夜の向かいに座ると、二人は「いただきます」と手を合わせた。

 とろとろのオムライスを食べると、包丁を持ったことも、玉子を割ったことすらもない千夜は、やはり一人暮らしは無理だと思い直す。

「おじさん、締切は大丈夫なの?」

「おいちゃんは締切より千夜ちゃんが大事です」

「編集者さんとファンが泣くよ……」

 さすがに呆れてしまう千夜であった……。




 食事を終えた千夜はプリンを食べ、海戸はウイスキーのグラスを傾ける。

「ねえ、口裂け女って本当にいると思う?」

「いきなりどした?」

「今日、口裂け女を見たの」

「ただの不審者じゃなくてか?」

「口が耳まで裂けてて、ポマードって三回言ったら超高速で逃げてった」

 千夜の突拍子もない発言に、海戸は片手にウイスキーのグラスを持ったまま「ふむ」と顎を撫でた。

「親父とお袋が言ってたな」

「おじいちゃんおばあちゃん? 私が生まれる前は拝み屋やってたんだっけ」

 恰幅が良く禿頭の祖父と、反対に瘦せ型で白い髪を上品に結っていた祖母を思い出す。

「そうそう。そんな二人から聞いた話だと、怪異ってやつは虚と呼ばれるものが闇と結びついて生まれるそうだ」

「怪異は信仰を失った神の成れの果てじゃないの?」

「そりゃそうなんだが、間に一段階あるんだとよ。神が信仰を失って虚となり、虚が闇と結び付いて怪異に……、な」

「なるほどなるほど。でも、虚って何?」

 グラスの中で氷がカランと音を立てた。

「さーな。そこまで突っ込んで聞いたわけじゃねえし。ま、じーさんばーさんの昔話だよ。迷信迷信」

「でも、確かに見た」

「ああ、千夜の言うことだ。信じるさ」

 海戸はそう言うと、ぐいっとウイスキーを呷った。




 その頃、万骨は夜の住宅街を一人歩いていた。

「今日一番の収穫は、あの無駄に詳しい女子高生、か。ま、逃げられちまったが」

 そんな独り言を耳聡く聞き付けた者がいた。

 彼は音も無く万骨に後ろから忍び寄る。

「おじちゃん、逃げられたってナンパ失敗したのー?」

 小学校高学年ぐらいだろうか、生意気そうな顔立ちの少年はそう言って万骨の足を蹴り付けた。

「おい、蹴るな。そしてお兄さんと呼べクソガキ」

「女子高生をナンパして逃げられたおにーちゃん」

「クソ生意気なガキだな」

 万骨は見知らぬその子供の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でた。

「つーか、ガキがこんな時間に出歩いてんじゃねえよ。かーちゃんが心配すっぞ?」

「塾の帰りだもーん」

 少年は母親の手製なのか、キャラクターのアップリケが付いた布鞄を掲げて見せ、胸を張る。

「ふーん。ガキの間はちゃんと遊んどけよ」

 ふと、街灯に照らされ影が落ちた。

「ネエ……」

「あ? 何だ」

 灯りに照らし出されたのは、赤いトレンチコートに黒髪を長く伸ばした女。その顔はマスクで半分隠されている。

「ワタシ、キレイ?」

 ピリリと空気が張り詰めた気がして、万骨は身構える。

 ──口裂け女って、そんなことを訊いてくるんだったよな……。

 あの女子高生が言っていたことを鑑みれば、普通と答えるのが得策か。

 ──つっても、どうせ不審者か異常者だろ。

 だが、この緊張感は何だ?

 万骨の長年の経験が、警鐘を鳴らしていた。

 しかし、怖いもの知らずの子供はそんなことになど気付きもしない。

「ブースブース!」

 鞄を振り回し、キャハハと騒いだ。

「おい、馬鹿……っ」

「ナンダト……」

 女の纏う空気が、得体のしれないものから邪悪なものへと変化する。

 女は毟り取るようにマスクを外し、大振りのハサミを取り出した。

「オマエモコウシテヤル!」

 耳まで裂けた口を憎悪で歪ませ、少年の顔目掛けてハサミを振り下ろす。

「うわあああっ!」

 万骨は悲鳴を上げて腰を抜かした少年の前に立ち塞がり、裏拳で口裂け女の腕を弾いた。

「口裂け女か? 口裂け女なんだな!」

「オマエモ! オマエモコウシテヤル!」

 口裂け女は同じ言葉を繰り返しながら万骨へと標的を変える。

 弾かれた腕を空中でピタリと止めると、万骨の顔面へとハサミを突き出す。

 少年が真後ろにいる以上、後退することのできない万骨は上体だけを後ろに逸らし、一瞬の差で刃を回避した。

 そして上半身を戻す反動で口裂け女の額へ、自らの額を叩き付ける。

 勢いのついた頭突きを喰らった口裂け女は「ウッ」と呻いて二、三歩退がったが大したダメージではなかったようで、すぐに万骨との距離を詰めた。

 ──この、感じは……。

 一瞬の間に、万骨の頭の中を巡る想い。

 生命の危機、人間ではない者から発せられる気迫、それは初めての感覚──ではなかった。

 一度、たった一度、彼はこれと同じ者に出会ったことがある。

 口裂け女ではない。ただ、人間ではない、モノ。

 ゾクリ、と冷気が背筋を走り抜けた。

 相反するように、全身は熱い。

 眼前に迫った人外の顔に、万骨は拳を叩き込もうとしたが、怪異はそれをするりと横に避ける。

「速いっ!」

 メトロノームのように女の体が揺れる。それと同時にハサミの切っ先が万骨の頬を滑ろうとして……。

「ポマード! ポマード! ポマード!」

 その言葉を万骨の口から引き出したのは、死を回避するための本能だったのだろう。

「ヒイイッ!」

 悲鳴と共に、刃は万骨の頬に触れる一ミリ手前で停止した。

 口裂け女はよろめき、万骨に背を向け走り去った。勿論、人間には不可能な速さで。

「俺は今、逃げた……」

 逃げたのは口裂け女の方だ──と、常人ならば思うだろう。

 だが、万骨にとっては違う。

 自分は今、死闘から、命を懸けた闘いから逃げたのだ。

「何やってんだ、俺は……っ!」

 求めてきたはずのものを目の前にして恐れをなした自分への怒りで、握り締めた拳が白くなる。

「お、おにいちゃん……」

 絞りだすような声で呼ばれ、万骨は我に返った。

「お、おう。もう大丈夫だ。立てるか?」

 万骨が無理矢理笑顔を作って振り返ると、少年は黙って頷いた。




 翌朝、三年一組の教室に入った千夜はクラスメートたちがいつもより騒がしいことに気付いた。

「口裂け女とか、昭和のデマじゃん」

「でも見たやついるんだろ?」

「見間違えでしょー?」

「口が裂けててめちゃくちゃ足速かったらしいぜ」

 都市伝説などとは無縁そうな派手なメイクをした女子や髪を染めた男子が、そんな会話を真剣にしているのだ。

「何かあったの?」

 千夜は窓際の花梨の席の横で喋っていた秋葉と高石に声を掛けた。

「口裂け女が出たらしいぜ。それで口裂け女は本当にいる派といない派で大論争」

「なんでも隣のクラスの笹山の弟が襲われたとかで」

「私たちも昨日見たけど。ね、杉浦さん」

 ぼんやりとしていた花梨は千夜に話を振られたことで我に返り「え? あ、うん、そうそう」と慌てて頷く。

「はあ! マジかよ!」

「大丈夫だったかのか!」

 心配する二人に千夜は笑顔でピースサインをしてみせた。

「ポマードで撃退ですよ」

「さすが千夜……」

「襲われた子は大丈夫だったの? 怪我とか……」

 花梨はそちらを気にしているようで、おずおずと尋ねる。

「あー、怪我は無かったってよ」

「チンピラが口裂け女と殴り合いして助けてくれたって……、絶対噂に尾ひれが付いてるパターンだろ」

 それがほとんど事実であることを、高石は知らない。

「ねえ、海戸さんたちってオカ研なんでしょ?」

 ギャル風の女子が千夜たちに声を掛ける。

「口裂け女ってマジでいるの?」

 共にこちらへやって来た数人のクラスメートたちを見回すと、千夜は人の好さそうな笑みを浮かべた。

「あれはあくまで都市伝説だからね」

「都市伝説ってつまり、嘘ってことだろ?」

「ただの嘘とは限らないよ。アーバンレジェンド、都市伝説の裏には実際の事件や人間の不安、教訓が潜んでる。事実、口裂け女は子供たちから母親への恐怖心が元になったなんて心理学者の分析もあるからね」

「結局ウソなの? ホントなの?」

 千夜の遠回しな説明に、じれったくなった女子は身を乗り出す。

「結局のところ……」

 千夜はその面前にビシッと人差し指を突き付ける。

「信じるか信じないかは、貴方次第!」

 クラスメートたちは一瞬静かになったが、すぐにおかしそうに笑い出した。

「そっか、確かに!」

「そうだな、都市伝説ってそんなもんだよな」

 そう言って、いつものように思い思いの話に戻っていった。

 その様子を見ていた秋葉は首を傾げる。

「見たんだろ? 口裂け女」

「変に注目されるのは苦手だから」

 千夜は悪戯っぽく弧を描いた唇に人差し指を当てた。

「お前らしいといえばお前らしいか」

「じゃあ普段の変な発言は天然なんだ……」

 納得する高石と、呆れてしまう花梨であった。




 六時間目の授業が終わり、オカ研の部室に集まった四人は映画を観る時とは違い長机を挟んで高石と千夜、秋葉と花梨と向かい合って座る。

「教室ではさすがにできなかった話なんだけど」

 千夜は海戸から昨夜聞いた話を三人に披露した。

「虚と、闇?」

「闇って、心の闇とかそういうのか?」

 高石は腕を組んで考え込み、秋葉は足を組んで問い掛ける。

「多分。昔と違って現代は闇なんて人の心の中にしかないよ」

「おお、哲学的」

「でも、虚って何なんだ?」

「神が信仰を失ったもの……、としかまだ分からない」

「ねえ……」

 その話を黙って聞いていた花梨は、どこか怯えたように千夜を見る。

「ん?」

「その話だと、誰かの心の闇のせいで口裂け女が生まれたってことになるの?」

「そういうことになるね」

「そう、なんだ……」

 花梨は膝に置いた両手をぎゅっと握り締めた。

「どうした? 元気ないぞ?」

 高石に指摘され、花梨は伏せていた顔をハッと上げる。

「なんでもないっ! 花梨ちゃんは元気だけが取柄ですよー! まあまだ昨日のこと思い出したらびびっちゃうけど……」

 そして、勢いよく立ち上がり、床に置いていた鞄を手に取った。

「だから今日は早いうちに帰るね! バイバイ!」

 秋葉はピシャンと閉められたドアを見つめ、パイプ椅子の背に肘を乗せる。

「花梨のやつ、おかしいな」

「ああ、心配だ」

「そうだね、心配だね」

 秋葉は、千夜の顔を覗き込んだ。

「千夜、ほんとに心配してっか?」

 唐突な言葉にほんの一瞬だけ間を開ける千夜だったが、すぐに少し困ったような笑みを浮かべた。

「してるよ。友達のことを心配するのは当たり前でしょ?」

「そっか、そうだよな。変なこと言ってわりい」

 秋葉自身も、何故自分がそんなことを聞いたのか分からないと言いたげに、すぐ謝罪をする。

「いいよ。今日は塾があるから、私ももう行くね」

 千夜は気を悪くした様子もなく、部室の壁に取り付けられた時計を見ると立ち上がった。




 古いアパートの狭い一室で、万骨は卓袱台を挟んで一人の女と向かい合っていた。

 黒髪をボブカットにした女は三十路だろうか、妖艶な笑みを浮かべ、男と変わらぬ長身に熟した体を黒いノースリーブのセーターと白いジーパンに包んでいる。特に大きな胸は普段なら見惚れてしまっただろうが、今の万骨はそんな気分ではない。

「口裂け女退治、手間取ってるようだね」

 それは責めている口調ではなかった。

 万骨は依頼人の前だというのに気にすることなく煙草をふかす。女の方はそんな無礼を咎める様子もない。

 大きく息をつき紫煙を吐き出した万骨は、眉間に皺を寄せて女を見た。

「なあ、あれは何なんだ? 人間じゃあなかったぜ」

「私は口裂け女退治を依頼したんだよ? 人間なわけないでしょ」

 女は小馬鹿にしたように顎を上げる。

「口裂け女のふりをした不審者でも異常者でもなく、マジモンの口裂け女とはな」

 万骨は卓袱台に置いたひしゃげたビールの空き缶を灰皿替わりに、煙草を揉み消した。

「あんた、推理作家だよな?」

「善良な推理作家だよ。絆紗々の名前を本屋の店員に出せばすぐ伝わる」

「何で善良な推理作家が、口裂け女退治を頼む? しかも、この俺に」

「口裂け女を模した見立て殺人の話を書く予定なのに、現実で事件を起こされたら不謹慎なんてことになり兼ねないから?」

「冗談で聞いてんじゃねえんだよ」

 万骨の目が険しいものになる。だが紗々は気にした様子もなく「ははは」と声を出して笑った。

「凄い気迫だ、さすが元裏社会最強の男と呼ばれただけのことはあるね」

「善良な推理作家が、よくご存知じゃねえか」

「ふふ、君は依頼を受けたんだ、それも前金でね。だから、私のことを詮索してる場合じゃないでしょ?」

 何を言ってものらりくらりと躱す紗々に、万骨は舌打ちをした。




 ──ああ、秋葉君は意外と鋭いから困る。

 花梨は、友人だ。

 友人の様子がおかしければ、心配するのは当然だ。

 千夜はそれを理解している。

 理解しているから、心配しているふりをする。

 ふりをするというのは、本当はしていないということだ。

 千夜は花梨の心配などしていない。

 もし仮に様子がおかしいのが秋葉だったら? 高石だったら?

 秋葉も友人で、高石も友人。

 等しく、心配などしない。

 確かに彼らを友人として認識してはいる。

 それでも、友人に対して持って然るべき情とでもいうものを、千夜は持ち合わせていなかった。

 それは叔父に対しても、母に対しても、祖父に対しても祖母に対してもそうだ。

 ──私は、空虚だから……。

 塾へ行くため駅前の繁華街を歩いていた千夜は、見覚えのある男に気付き顔を上げた。

「便利屋の万骨さん」

「おう、口裂け女にやたら詳しい女子高生」

「海戸千夜です」

「覚えとくよ」

「便利屋なら依頼していいですか? 塾までまだ時間があるので、話し相手になってください」

 千夜の言葉に万骨は少し驚いた様子だったが、すぐに揶揄うような笑顔を見せる。

「何だ、俺を時間潰しに使うつもりか? 高いぜ?」

「おいくらですか?」

「じゃ、三万円」

 千夜は「分かりました」と鞄から品の良い長財布を取り出した。

「待て待て待て、冗談だ冗談! つか高校生がぽんと出せる金額じゃなくね?」

 慌てて制した万骨だが、千夜の財布を見ると口元を引き攣らせる。

「俺の財布より分厚い気がするのは気のせいか」

「お小遣い、お母さんは月三万円って言うんですけど何だかんだでおじさんが二万円追加でくれるんですよね」

「高校生で小遣い月五万って、甘やかされ過ぎじゃねえの」

「まあ、蝶よ花よと育てられた箱入り娘ってやつです」

「自分で言うことじゃねえだろ」

 胸を張る千夜に、万骨は寸止めの手刀を振り下ろす。

 千夜は臆することなく小首を傾げた。

「恵まれてるのに空虚っていうのは、どういうことでしょうね」

 そして、ぽつりと呟く。

「空虚?」

 万骨は訝しがるが、千夜はそんな顔を見上げた。

「自分語りをさせてください。懺悔でも相談でもなく、ただの自分語りです」

 その表情に何かを悟った万骨は「聞いてやるよ」と言って胸ポケットから煙草を一本取り出し、火を点ける。

「母は私が物心付く前に離婚してて、父の話は全くしなかったんです。私も子供なりに空気を読んで聞きませんでした。でも、中学生の時に反抗期ってやつからですかね、会ってやろうって思って、調べて、会いに行ったんです。多分、期待してたんでしょうね。夫婦は他人でも親子は親子。血は水よりも濃し。父は私を抱き締めて感動の涙を流す、なんてやつを。で、父の自宅を訪ねたら、子供が出ました。すぐに父が代わって出てきて、私が名乗ったら……。


 ──今の家族が大事だから帰れ、迷惑だ。


 殺してやろうと思いました。ナイフを持ってたらそのまま家に押し込んで、目の前で家族全員殺して、最後に父を殺してたでしょう。でも、ナイフなんて持ってなかったから、私は言われた通りうちに帰って、それから毎日、毎日毎日毎日、憎んで憎んで憎んで、あの男をどう殺すか考えて、学校もまともに行かず──まあそれが原因で内申点下がって晴常高校に入ったんですけど、それは置いておいて──一生、この憎しみを抱えて生きると信じてました。あの男を殺すか、自分が死ぬか、それまで終わらない。そう、思ってました」

 捲し立てているようでいて静かな声音。早口だが聞き取りやすい長話を、万骨は黙って聞いていた。

「でも、高校に通うようになって普通に生活してるうちに、殺すことを考えてる時間が減って、憎しみに胸を締め付けられる痛みが軽くなって、手から砂が零れ落ちるように、気付いたら、全部無くなってました。時間が解決してくれた、なんて納得できなくて。一生背負って生きていくと思ってたものが、一年も経たずに消えたんです。あんなに強くて、痛くて、苦しくて、それでも、大事なものだったのに……。今ではもう……、顔すら思い出せない……。憎しみと愛情は表裏一体、憎むことすらまともにできない私は、きっと愛することもできない。祖父母が他界した時も、『ああ、そうか』としか思えませんでした。大切に育てられて、愛されて育てられて、それでも私は空虚です」

 万骨の咥えていた煙草が短くなり、灰が落ちる。

「友人の心配すらできない今、それを痛感しました──という煙草一本分の自分語りです」

 携帯灰皿に吸い殻を捨てる万骨に、千夜は笑顔を向けた。

 空っぽの、笑みだ。

 そんな、痛々しいほど意味のない笑顔を見て、万骨は頭を掻いた。

「空虚だからできることもあるんじゃねえの?」

「できること?」

「客観的に話を聞いたりできるだろ。俺にゃあ今の話はちいとばかし重かったが、お前みたいに空虚ならどんなに重かろうが病んでようが、聞いてやれる、受け止めてやれる……、かもな」

「なるほどなるほど……」

 千夜は頷きながら律儀に、財布から一万円札を三枚出そうとする。

「自分語りに水差しちまったんだ、依頼は反故だろ」

 万骨はそれを受け取ることもなく、肩を竦めた。




 翌日の放課後、花梨は部室に来なかった。

「花梨のやつ、どうしたんだろうな」

「俺、探してくるわ」

 立ち上がった秋葉を千夜は掌で制する、

「私が行くよ。二人はここにいて」

 珍しく行動的な千夜に、高石と秋葉は任せてみることにした。

 文化部棟を出て、一般教室のある南校舎へと駆ける千夜。

 別に、友人のために何かしたいと思ったわけではない。

 ──ただ私は、友達のために何かするふりをするだけ。

 息を切らしながら二階にある三年一組の教室に入る。

 花梨はいた。

 自分の席で一人、窓の外を見ている。

「部室、行かないの?」

 千夜は教室の入口に立ったまま、花梨に話しかけた。

「あたし、みんなと楽しく笑う資格なんてない」

 花梨は窓の方を向いたまま答える。

 千夜には分かった。窓の外を見ているのではない、顔を見られたくないのだ。

「どうして?」

「昨日も、口裂け女に会ったの。千夜の言ってたポマードのおかげで逃げてったけど。でも、あいつはきっとまたあたしの前に現れる。それは、きっと……」

 花梨の膝の上の拳が、震える。

「あいつを生み出したのが、あたしだから」

「つまり、君の中の闇が、口裂け女を生み出した?」

 花梨は答えなかった。

「私で良ければ、話を聞くよ」

 そんな、単純な、誰もが言うような台詞を、千夜は紡ぐ。

 花梨はプリーツスカートを握り締め、ようやくこちらに顔を向けた。

 瞳に溜まった涙は、あと一息で零れ落ちるだろう。

 震えた唇が小さく開き、発声せずに閉じられる。

 そんな動きが数度続いて、ようやく花梨は言葉を吐き出した。

「あたしのお姉ちゃんはね、凄く美人だった。お父さんとお母さんはあたしたちを分け隔てなんてしなかったし、お姉ちゃんもあたしに凄く優しかった。でも、分かってたんだ。あたしはお姉ちゃんみたいに美人じゃない、キレイじゃない。だからせめて、明るいいい子でいようと思ったの」

 千夜は何も言わない。ただ、友人の闇の告白を、聞く。

「去年だったかなあ、お姉ちゃん、恋人と別れてからおかしくなっちゃって、お化粧しなくなって、肌も荒れて、髪もボサボサになって……。あたし、あの時、お姉ちゃんを醜いと思って、少し、ほんの少し、喜んだんだ……。そんなあたしが一番醜いよ。お姉ちゃんは入院したけど、お見舞いにも行ってない。あたしの醜さを、思い出してしまうから……。ねえ、千夜……」

 花梨は笑顔を作った。

「アタシ、キレイ……?」

 無理矢理浮かべた笑みが美しいわけはない。

 三日月形になった瞳から、ようやく涙が零れ落ちる。

 涙に頬を撫でられた花梨は緊張が解けたようで、歪んだ表情が晴れやかなものに変わた。

「なんて、ね……。でも、何でだろう。千夜に話したらすっきりした。誰にも話せないと思ってた、自分でも見ないようにしてた自分の闇を、千夜には、話せた……。ありがとう」




 千夜は花梨を部室へ行かせた後、中庭を通って校門を出た、

 あつらえたように人のいない通学路。

 千夜はスマホと一緒に万骨の名刺を取り出し電話を掛けた。

「私の予想通りなら、晴常高校前に来れば口裂け女に会えますよ」

 それだけ言って切る。

「来るー、きっと来るー。これじゃあ貞子だね」

 地面に差した影に気付きそちらを向くと、先日見たのと同じ赤いトレンチコートの女。

「ネエ」

「はい、何でしょう?」

 女は、

「ワタシキレイ?」

「キレイ、ですよ」

 それは、花梨に答えるはずだった言葉。

 闇と向き合い、姉への罪悪感を乗り越えた花梨に、贈るべき言葉だった。

「コレデモキレイ?」

 女はマスクを外す。裂けた口が、同じ言葉を繰り返す。

「コレデモキレイ? ネエ、ホントニキレイ?」

「おらっ!」

 走ってきた万骨の飛び蹴りが、ハサミを手にした口裂け女を弾き飛ばした。

 着地した万骨は千夜の前に立ち塞がり、地面に倒れた口裂け女を見下ろす。

「マジで会えたな、口裂け女! リベンジマッチといこうぜ!」

「ウフフ、ネエ、コレデモ? コレデモキレイ?」

 口裂け女はすぐに起き上がりハサミを逆手に持ち直した。

 そして割り込んできた万骨の顔を目掛けて振り下ろす。

 万骨は左の裏拳でそれを弾き、右の拳を口裂け女の鳩尾に叩き込む。彼女は「ウッ」と呻き二、三歩後退った。

「アア……、ワタシキレイ? ネエ、キレイ?」

 それでも口裂け女はハサミを手放さず、左右に振り回しながら万骨に突進する。

「やっぱ、速いな……っ!」

 少しでも気を抜けば殺される。刃が喉を切り裂く。心臓を貫く。

 そんな予感が火となり、万骨の体内の導火線を焼いていく。

 命懸けの闘いだ。

 導火線が短くなるに従って高鳴る鼓動。

 口の中が渇き、舌が貼り付く。

 この緊張感が、心地良い。

 導火線が焼き尽くされたとき、魂が燃え上がった。

 ──ああ、この感覚だ。俺がもう一度味わいたかったのは……。

 万骨と口裂け女が同時に地面を蹴る。

 万骨の拳が風を切り、口裂け女のハサミが届くよりも速くその顔面に叩き付けられた。

 魂を燃焼させた拳の力が、口裂け女という存在すらも揺さぶった。

 口裂け女の体は砂山が風に吹き飛ばされるように、この世から消え去ったのだった。




 ──ああ、何だろうこの感覚は……。

 命懸けの闘いだ。

 万骨は今、命懸けの闘いをしている。

 千夜の口の中が乾く。舌が貼り付く。

 この緊張感が、心地良い。

 万骨の動きは一挙手一投足無駄が無く、野蛮な闘いだというのに、殺し合いだというのに、美しくさえあった。

 万骨の魂が燃え上がった時、千夜の中にも火が付いた。

 僅かかもしれない、一吹きすれば消えてしまう、そんな微かな火種かもしれない。

 それでも、空虚な千夜の中に、確かにその火は存在したのだ。

 ──私は、貴方が……。

「おい、何ぼーっとしてんだ。口裂け女は退治したぜ」

 振り返った万骨に声を掛けられ、千夜は微笑んだ。

「はい、見てました」

「おう、見てたか」

「魅せられました」

「お、おう? ま、これで依頼も終わったんだ。一応感謝しとくぜ、千夜」




 千夜がオカ研に戻ると、すっかり元気を取り戻した花梨と安心した様子の秋葉と高石が待っていた。

 だが、花梨は千夜の顔を見ると立ち上がる。

「今日はもう帰るね」

「え、せっかく今からトイレでサメに襲われるシーンでお馴染みのハウスシャーク観んのに?」

「あのサメが出る家、監督の自宅なんだって」

 秋葉の説明と千夜の雑学に、高石は頭を抱えた。

「ちょっと、意味が分からないな」

 花梨はいつも通りのやりとりにいつも通りの笑顔を浮かべる。

「お姉ちゃんのお見舞いに行くから、じゃあねー!」

 軽やかな足音と共に駆け出して行った花梨を見送ると、秋葉はDVDを棚から取り出した。

「それなら仕方ねえ。じゃあ俺たち三人でクソみたいな水中戦に挑むか」

「私は鞄取りに来ただけだから」

 素っ気ない千夜に、秋葉は「はあ?」と声を裏返らせる。

「お前は乗り気だと思ってたのに!」

「ハウスシャークよりは大事な用、かな」

 すたすたと千夜が出ていくと、秋葉は高石に縋り付いた。

「お前は観るよな!」

「いや、俺は生徒会室に行ってくる。千夜にレポートの提出頼まれてるんでな」

「さすが千夜……」

 こうして、オカルト研究会は危機から脱したのである。




「ここだよね。もう帰ってるかなあ」

 千夜は名刺と学校から歩いて十五分ほどの所に位置する古い鉄骨アパートを交互に見遣った。

 アパートの向かいには下水が流れ、フェンスが張られている。立地条件は良いとは言えない。

「えーと、二〇一号室、と」

 千夜は今にも抜けそうなトタンの階段を上がり、万骨と描かれた表札の隣に設置されたインターホンのボタンを押した。

「はいよー」

 ドアを開けた万骨は、千夜の姿を捉えると目を瞬かせた。

「来ちゃいました」

「んーと、まあ、入れよ」

「はい」

 千夜はその対応が当然と言わんばかりの笑顔で、部屋に足を踏み入れる。

 どこの馬の骨やら知らぬ男の部屋に入るなど、海戸が見たら激怒していただろう──万骨に対して。

 紗々が座ったのと同じ位置にちょこんと正座をする千夜。

 万骨もあの時と同様、来客のことなど気にせず煙草を吸う。

「いきなり押し掛けてきて何だ?」

「魅せられたから」

「見せられた? お嬢ちゃんにはあのバトルは刺激が強過ぎたって文句でも言うつもりか?」

「文句は言いませんよ。でも確かに、刺激が強くてまだ燃えてます。万骨さんが命懸けの闘いで燃やした魂の、貰い火とでも言うんでしょうか」

 千夜は、そこに大事なものがあるとでもいうように掌を自らの左胸に当てる。

「ドキドキして、ときめきました。何もないはずの心の中に、万骨さんが存在するんです」

「まるで、恋だな」

 万骨の揶揄うような言葉に、千夜はくすりと笑った。

「どうでしょうね。恋かどうかは分からないけど、私は万骨さんのそばにいたいです。もっと、万骨さんを見ていたいです」

 万骨は溜め息をつくように煙草の煙を吐き出した。

「お前をそばに置いても、俺にメリットはねえよ」

「メリットですか」

 千夜は「うーん」と少し考えると、両腕で巨乳を挟み、強調するようなポーズを取った。

「このおっぱいを好きにできる権利を差し上げましょう」

「おまっ! ガキが馬鹿なこと言ってんじゃねえ!」

 咳込んでから怒鳴る万骨だが、千夜は気にした様子もない。

「冗談ですよ。でも、メリットならあります」

 千夜は、怪異についての話をしてみせる。

「つまり、虚ってやつと闇がある限り、あんなバケモンはまた現れるってのか?」

 突拍子もない話だが、実際に口裂け女を相手にした万骨は卓袱台に身を乗り出した。

「そしてここからは私の予想ですけど、怪異は闇の持ち主の下に現れます。私が持ち主から闇を受け取れば、私の下に現れる。現に私が杉浦さんから話を聞いた直後、口裂け女は私のところへ来ました」

「なるほどな」

「だから私が闇を受け取りさえすれば、万骨さんはわざわざ探し出す手間なく怪異と闘えますよ」

「お前なら、それができるってのか?」

「はい、空虚ですから」

「つか、お前は俺が、怪異と闘いたがってるとでも?」

 千夜は可愛らしく小首を傾げる。

「違うんですか?」

 万骨は灰皿替わりの空き缶で煙草を消し、額を押さえて呻いた。

「お前は怖いくらい鋭いな」

「じゃあ、これからよろしくお願いします」

 満足気な少女に空恐ろしいものを感じながら、万骨は「おう」と応えた。




 商店街にある二階建てのこじんまりとしたビル。その上階の窓には『人留探偵事務所』と白い文字で書かれている。

 窓際のデスクに着いているのは茶色の髪をオールバックにし、無精ヒゲを生やした強面の男。ワイシャツを胸筋が押し上げ、スラックスも大腿筋でパンパンになっていた。

「調べてみたが、確かに誰かがあちこちで虚神を買い占めてる」

 人留探偵事務所の所長である人留献也は、難しい顔でそう言った。

「やっぱり。どうして、そんなことを……」

 紗々は艶っぽく人留にもたれ掛かり、デスクに置かれた報告書を覗き込む。

「それはまだ分からんが、買い占めてる奴はこの町にいる可能性が高い」

「金で売ってしまう時点で信仰なんてもう無いんだ。虚神は、虚に堕ちてる」

「それじゃあ、虚がこの町に集まることになるぞ」

「怪異大発生、百鬼夜行だね」

 紗々は他人事のように笑った。

「笑い事か」

「だから元裏社会最強の男に声を掛けたんだよ。いつの時代も、怪異を退治する英雄は存在するんだ」

 紗々は、人留の太い首に腕を絡めた。

「ねえ、私たちが出会ったのは、間違いだったのかな」

 耳元で囁く声は万骨と相対していた時とは違い、真剣なものだった。

「どうしてそう思う?」

 人留は表情を動かすこともなく問い返す。

「君と出会わなければ何も変わることもなく、仮初の平穏が続いてたかもしれない」

「もし間違っていたとしても、どうでもいい。俺はお前を愛してる」

 人留の表情は険しいまま動かないが、愛の言葉に偽りはない。

「私も愛してるよ、人留君」

 紗々はそんな人留の頬に口付けた。

 人留は紗々の腕を掴んで引き寄せ、唇を奪う。

 ──愛は、世界を救わない。

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