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僕の左目が見る世界  作者: カイト
6/19

魚の話

 僕の部屋には、不思議な魚が棲んでいる。

 僕が飼っているのではない。

 僕がそうであるように、魚は自らの意思で、僕の部屋に棲んでいる。

 おそらく居住歴は僕より長いが、家賃は僕の親が払ってくれているので、居候は魚の方だ。

 魚は鯉に似た見た目で油膜のような濁った虹色をしており、大きさが一メートルほどもある。水中ではなく空中を泳ぎ、壁をすり抜けて移動する。


 そして魚は、僕の左目のみに映る。


 つまり、「そう」いうことだ。


─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…


 無事大学合格が決まった後、僕は一人暮らしのための物件をいくつか見て回った。その中で一番気に入ったのが、今のアパートだ。


 学生アパートにありがちなごくありふれた間取りだったが、六畳のワンルームは窓が大きく、とても日当たりがよかった。

 築年数が長いことも線路脇で騒音と振動が激しいことも、僕にとってはそう問題ではなかった。一緒に部屋探しをしてくれた母も、この部屋が気に入ったようだった。


「なんだか壁が油じみてるのは、もう仕方がないんでしょうね」

「退去のたびに壁紙は張り替えてますけど、アパートができてからもう大分経ちますからねぇ」


 母と大家のおばあさんは、揃って六畳間に隣接する剥き出しの台所に目をやった。

 前の住民はマメに料理をする人だったのだろうか。確かに壁に手をつくと少ししっとりとしていて、油汚れだと言えなくもない。


「でも、全然気にならないよ。ここがいいな」


 こうして、僕はこのアパートの住民となった。


 一人暮らしを始めて半月ほどすると、僕は奇妙なものが見えるようになりパニックに陥った。

 空中を泳ぐ魚も、その一つだった。


 怪異を見ることにすっかり慣れてしまった今となっては、魚は僕の一番の顔なじみで、その姿を見ない日はない。

 見慣れてくると、ギョロリとした目もへの字の口も、なんだか愛嬌があるように見えてくるから不思議だった。


 一人暮らしの寂しさもあったのか、僕はいつからかその魚のことを「ニジゴイ」と呼ぶようになった。体が虹色に鈍く光るから、という安直なネーミングだ。

 ニジゴイは、空中を泳ぎ壁をすり抜ける以外は、ごく当たり前の魚と変わらないように思えた。だから僕が


「おはよう」

「ただいま」


 と声をかけても、もちろん反応はない。僕のことを認識しているのかどうかさえ怪しい。


 餌でもあげれば、僕のよく知る鯉のように、姿を見て寄ってくるかもしれない。

 そう思ったが、一体なにを食べるのかがわからない。


「お前って、毎日なに食べてんの?」


 そう訪ねてもニジゴイは当然無視して、台所を一周した後いつもの壁の中に消えた。


─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…


 ある時、遊びにきたオイちゃんがふと気づいたように言った。


「キタって案外几帳面なんだな。台所、全然油汚れついてねぇじゃん」


 珍しく褒めてくれたのだが、僕はなんのことだと首を傾げた。

 まったく自慢にはならないが、一人暮らしを始めてこのかた、ガスコンロを磨いた記憶はない。


「どういうこと?」

「え、なに。もしかして油全然使ってねぇからきれいなの? お前んちのガスコンロ、お湯沸かす専用か?」

「いや、それなりに料理してるよ。オイちゃんだって、僕の焼いた餃子こないだ食ったじゃん」


 僕はオイちゃんに並んで台所に立ち、言われてみればと驚いた。

 そこそこ料理もし、その上掃除をしてないにしては、ガスコンロはきれいだった。油が飛び散ってギトギトする感じがまったくない。触ってもサラサラだ。


「…なんでだろ?」

「しらねぇけど。お掃除おばけでも出るんじゃねぇの?」

「それなら、台所以外も掃除してほしい…」


 おばけ、と聞いて、僕ははたと思いついた。


 ニジゴイじゃないのか?


 僕は慌てて、いつもよくニジゴイが出たり入ったりしている、ベッドの足元の壁を触ってみた。

 壁はしっとりというか、手のひらが軽くくっつく感覚を覚えるほどベタついていた。

 油汚れだ。


 前髪をかき上げると、左目にちょうど壁から出てきたニジゴイの姿が映った。

 僕は思わず、ニジゴイの太い胴体を触ろうと手を伸ばす。しかし、確かに目の前に見えてる体を、僕の手はすり抜けた。スカッと宙を掻く感覚だけが残る。


 ニジゴイはそんな僕には目もくれず、スゥッと優雅に台所に泳いでいった。


 そういえば、確かに台所でもよく見かけてたなぁ。

 ニジゴイの体色って、本当の油膜なのか。

 僕はそんなことをぼんやりと思った。


「なにしてんの?」

「いや、触ったらべたつくのかなぁと思って」

「なんの話だ?」

「こっちの話」


 なんの話かと言いながら、オイちゃんの目はしっかりニジゴイを捉えているように見えた。


「やっぱいるんじゃん、お掃除おばけ。油汚れ専門だけど」


 そうボソッと呟いたのは、聞かなかったことにした。

 

─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…


 おそらくあの魚は、油分を餌としているんだろう。すり抜けるたびに体表についた油が擦り付けられて、少しずつ壁を汚していったのだと思う。

 油汚れを掃除するという観念すらない僕の部屋の台所は、魚にとってはうってつけの餌場だったわけだ。


 こうして僕と魚の関係は、家主と居候から、イソギンチャクとクマノミのようなよりよい共存関係に変化した。

 まぁ実質は、なにも変わっていないのだけれど。


 しかし、台所をきれいにしてくれるのはありがたいが、壁を油で汚すのは困る。かといって、僕がこまめに拭き掃除をする以外の対策はなかった。壁の前にバリケードをしても、それすらすり抜けてしまうのでまるで無意味だ。

 僕にできるのは、なんとなくきれいな「ニジゴイ」から、勝手に「アブラゴイ」と名称変更し、溜飲を下げるくらいだった。


 自分が脂ギッシュな名前で呼ばれていることなどまったく気にせず、魚は今日も優雅に空中を泳いでいる。


 魚の話は、これにておしまい。

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