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僕の左目が見る世界  作者: カイト
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左目の話

 僕は十八歳の時、大きな事故にあった。


 今になっても死にかけた実感はないが、当時病院に運ばれた僕を見て、母は「これはもうダメだ」と咄嗟に思ったというから、ひどい有様だったのだろう。

 体中あちこちを骨折し、折れた骨が内臓を傷つけ、体の外も中も血まみれだった。ヘルメットに守られた頭部だけが、不自然なほど無傷だったという。


 さて、九死に一生を得た僕は、その後医者も驚くスピードで回復した。「若いっていいねぇ」と言う主治医の顔が、心なしか引きつっていたのを覚えている。


 ところが、怪我の回復と反比例するように、左目の視力はどんどん落ちていった。

 まるで夕日が沈むように、日に日に視界が暗くなっていく。外傷はなにもなかったから、頭を打った際にどうした拍子か視神経を傷つけてしまったのだろう、と医者は言った。


 結局、僕の左目は明るいか暗いか、それをようやく判断できるだけになってしまった。


 僕の回復を喜んでくれていた周りの人たちは皆一様に落胆したが、中でも特に取り乱したのは、事故の加害者だった。


 僕は脇見運転の車にはね飛ばされたのだが、その運転手は父と同年代の男性だった。彼は事故の現行犯としてその場で逮捕されていたのだが、僕の左目のことを知ると、「私の角膜を彼に移植してください」と僕の入院している病院に何通も手紙を書き、医者を困らせていた。

 失明の原因は角膜ではないので、当然移植は無意味だ。僕の両親は、加害者が懺悔の気持ちから自殺でも企てるのではと、いらぬ心配までさせられて憤慨していた。


 このように周りが大騒ぎする中、当の僕は自分でも不思議なほど冷静だった。

 現実として捉えられなかっただけかもしれないが、片目をほぼ失明したことへの絶望はほとんど感じなかった。回復の見込みがないことを主治医に重々しく告げられたときは、思わず「伊達政宗と一緒じゃん」と口にしてしまったくらいだ。


 しかし、片目が見えない生活は僕が思ったよりも大変だった。


 視野が狭くなったのはもちろん、遠近感がつかみにくくなり、テーブルの反対側のものを取る時には必ず一回は空振りをした。高低差も分かりづらく、手摺にしがみつきながら階段を降り、ちょっとした段差に躓いてしょっちゅう脛に青あざを作っていた。

 そのことに対して弱音を吐いたこともあったが、事故の後大変だと思ったのは、本当にこれだけだった。

 手足のリハビリは苦痛を感じる間もなくスイスイ進んだし、二ヶ月近い入院期間中まったく手をつけていなかった勉強も、まるで人が変わったのではないかと思うくらい順調だった。


 しかし、僕が事故にあったのは高校三年の冬だったため、出席日数は問題なく卒業できたが、大学受験は諦めざるを得なかった。

 僕なりに頑張ってきたあの勉強の日々が無駄になってしまったのにはさすがに泣いたが、体調も落ち着いてイヤイヤ参考書を開いてみると、以前の僕では考えれないくらい問題が解けて驚いた。苦手だった古典もまったく苦にならない。両親も、週一で家庭教師を買って出てくれた高校の元担任も、何より僕自身が、少し気味悪く感じるほどだった。

 それでも、おかげで予定していた予備校に通うことなく、自宅学習だけで志望校に合格することができたのだ。


 一年遅れてしまったものの、晴れて大学生になれたのだ。新しい出会いや初めての一人暮らしなど、僕は希望に満ち溢れていた。


 ところが。


 五月に入ると、僕は早くも自宅アパートに引き篭もるようになっていた。

 できたばかりの友人が、「大丈夫?」「五月病か?」と連絡してくれた。しかし、大丈夫ではなかったし、五月病でもなかった。


 外に出ると、いや、家の中にいるときでも、僕にはおかしなものが見えるようになっていた。


 最初に気付いたのは、僕の住むアパートの掃除をする、初老の男性だった。学校に行く時と帰る時、必ず集合ポストの周辺をボロボロの箒で掃いていた。

 アパートの管理人はおばあさんだったので、その息子だろうか。会うたびに穏やかな笑みで会釈をしてくれる物静かな人で、好感が持てた。


 しかし、僕がそこを通るたび、それこそ昼夜関係なくいつでも掃除をしているので、徐々におかしいと思い始めた。

 男性は、右足の膝から下がなく、ズボンは右足の途中からひらひらとはためいていた。それだけならおかしなことではないのだが、片足にも関わらず、杖も使わずスタスタと動き回っていた。


 新歓コンパで初めて日付をまたいで帰宅した時、薄暗い街灯の下で音もなく箒を動かしているのを見て、僕はこの人は生きてはいないんだと悟った。


 同じように、それまで僕の世界には存在しなかったものが、当たり前のような顔をして次々と出現し始めた。

 最初は、見間違いや気の迷いだと思おうとした。

 しかしそれらは、錯覚というにはあまりにもリアルすぎた。


 朝起きると、目の前に大きな魚がいる。

 部屋の隅に黒いモヤがかたまっている。

 台所の排水口から灰色の小さなヤモリが何匹も出てきて、出てきた端から消えていく。

 外に出れば、石ころが明らかに自らの意思で転がってきて、すれ違いざまに僕を睨む。

 頭上の看板から、女がぶら下がっている。

 行く先々で見かける、服を着た狐の三人組。

 木に絡まる大蛇。道路の真ん中の血だまり。頭が二つある猫のような生き物。空を飛ぶ鯉のぼり。水溜りからこちらを手招きするいくつもの白い手。

 大学のすべての窓に、赤い手形が付いていたこともあった。

 前に座る学生の後頭部に、鋭い歯のついた口が覗いている。

 親しげにお喋りをする女学生たちの足元に付き従う小鬼。

 顔が見えないほどの蝿の群れにまとわりつかれて、平然と笑っている学生。

 教室に入ってきた教授の背中には、ぴったりくっついた小さな黒い影が見えた。


 なぜそんなものが急に見え始めたのかわからなかったが、僕はもう、怖くて仕方がなかった。

 それで、家から出られなくなってしまったのだ。


 得体の知れないものたちももちろん怖かったが、僕は事故の後遺症を疑い、やがて狂い死にしてしまうのではないかと、その恐怖にも怯えた。

 僕は、事故の際に入院していた地元の病院に連絡をした。変なものが見えること、事故の後遺症を疑っていることを告げると、病院は最短で予約を取ってくれた。


 僕の地元は隣県だ。帰るには長距離バスを使うのが一番手っ取り早い。僕はアパートの最寄駅から三駅離れたターミナル駅に、意を決して向かうことにした。

 初夏だというのに長袖シャツにマスク、顔が隠れるよう帽子を目深に被り、周囲を気にしながら駅へ向かった。今思えば完全に不審者だ。それでもその時は、僕を取り囲むすべてのものが恐怖の対象だった。


 バス乗り場のベンチで、小さくなってバスを待っていた時だ。


「おにいさん」


 後ろからそう声を掛けられ、僕は座った姿勢のまま跳び上がった。

 今まで、おかしなものは見ても声を掛けられたことはなかった。ガチガチ震えながら無視を決め込もうとすると


「いいから、こっちを向きなよ」


 再度そう言われた。


 恐る恐る振り返ると、小さな机に座った老婆が僕を見ていた。机には白布がかけられているだけで何も置かれてはいなかったが、『占』という小さな看板が隣に出ていた。


「みてあげるよ。おいで」


 老婆は手招きをして僕を呼んだ。


 僕と老婆の距離は十メートル以上離れていた。僕がいたバス停は駅前ロータリーの中央の島にあったのだが、老婆がいるのは駅構内を出てすぐの通路で、僕らの間には一方通行の二車線道路が通っていた。周囲は帰宅ラッシュで、人の声も車の音も絶え間なく響いている。老婆の囁くような声は、本来なら僕に聞こえるはずがなかった。


 見るからに怪しい老婆だった。

 しかし。老婆の周りには、何もなかった。

 僕を恐怖させる、おどろおどろしく、血に濡れて、恨みがましく、あるいは気持ちの悪い笑みを浮かべているような、僕が知り得なかった世界のものたちは、老婆の周りには一つとして見えなかったのだ。


 僕は糸に引かれるようにぎこちなく、老婆の元へ走った。


「あ、あの」

「そこにお座り。怖かったろうねぇ」


 ニコリと微笑んだ老婆のその言葉に、僕は涙が溢れて止まらなかった。


 ひとしきり泣いて少し落ち着くのを見計らって、老婆が僕に何かを差し出した。

 それは眼帯だった。時々見かける、医療用の白いアレだ。


「あんたのね、その左目が原因よ」


 訳がわからず戸惑う僕に、老婆はそう言った。


「左目?」

「おかしなものが見えるんやろ? それは、あんたの左目が映す世界なんよ」


 そして老婆は、僕が事故にあって死にかけたこと、左目がほとんど見えないこと、そして僕が悩まされている怪異の内容まで、次々と言い当てた。


「なんで、わかるんですか?」

「あんたは事故で一度死んで、でも戻ってこれたんやね。でも、伸びきったゴムが二度と完全には戻らんのと一緒で、一度死んだあんたの元に戻りきれない分が、頭の上にプカプカ浮いてるんよ。それがあたしに、あんたのことを教えてくれるんよ」


 僕は思わず頭上を見上げたが、『元に戻りきれない僕』とやらは見えなかった。


「無理無理。自分じゃ自分のことはわからんもんよ」


 老婆はカラカラと笑って言った。


「死んで戻れなかったあんたが見ている世界を、なんでか左目が映すようになってしまったんやね。理由はあたしにもわからんけど、でもそれ、左目を覆ったら消えるよ」

「ホントですか⁈」

「やってごらんよ」


 僕は半信半疑で、老婆が差し出した眼帯を左目に当ててみた。


「……消えた…」


 あれほど僕を悩ませ怖がらせた異様のものたちは、嘘のように視界から消えていた。


「見えなくなっただけだよ。目を隠したんだから当然だね」

「こんな簡単なことで…」


 呆然とする僕を励ますように、老婆が肩をポンと叩いてくれた。


─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…


 あの後、とりあえず病院には行った。

 老婆の言うことを全面的に信じたわけではなかったし、脳障害の可能性も消えたわけではなかったからだ。


 しかし、やはりというべきか、様々な検査をしたが異常はどこにも見つからなかった。

 検査の際に眼帯を外さなければならないことが何度かあったが、外した途端視界に映る怪異に怯える僕を見て、主治医は最後に精神科の予約を勧めてくれた。

 でもあれ以来、あの病院には行っていない。


─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…


 僕に眼帯をくれた老婆は、ハルと名乗った。


「ま、占いをする時の源氏名で、本名じゃないけどね」


 またおいで、とハルさんは手を振って言ってくれた。

 このハルさんが、僕のその後の人生の先生となってくれたのだが、その話はまたいつか。


 ひとまず僕の左目の話は、これにておしまい。

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