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僕の左目が見る世界  作者: カイト
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猫の話

 僕の通う大学は高台にあり、周りを雑木林で囲まれている。

 そのため、タヌキやイタチといった野生動物が時々見られる。以前は、猿が出現してちょっとした騒ぎになったらしい。


 しかし、構内で目にすることが一番多いのは、何と言っても猫だろう。


 僕は特別猫好きでもないので詳しくは知らないが、数匹の猫が大学には居着いており、中には広い構内のどの学部でも知られている顔の広い奴もいるらしい。

 学生は猫を見れば可愛がって餌をやりたがるし、中には猫好きな教授が「ゼミのマスコット」扱いしているケースもあって、住みやすい環境なのだと思う。


 そういったわけで構内のどこにいても、我が物顔で人間用のベンチを占領する猫を見ない日はない。

 

─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…


 大学二年生のある夏の日。

 僕は、授業の空き時間をどこで過ごすか迷っていた。


 ただ暑いだけなら、クーラーの効いた図書館にでも行けばいいのだが、その時はとにかく、顔半分を覆う鬱陶しい前髪をどうにかしたかった。少し肌を風に当てなければ、このままではあせもができそうだ。


 僕の左目は、事故のため明暗を判断する程度の視力しかない。その代わり、普通は見えないものたちの世界を映す。


 そのため、いつも前髪で左目を覆っていた。

 前髪をどけても、目を瞑っていればおかしなものが見えることはない。しかし、いつもは隠している顔の左半分を人前に晒すのは、なんだか気恥ずかしいものがあった。

 そこで僕は、研究棟の裏にある小さな広場に行くことにした。あそこならほとんど人が来ないし、ゆっくり座れるベンチもある。何より、建物の陰で風通しがよく涼しいのだ。


 案の定、広場には誰もいなかった。ベンチに腰掛け、目を閉じて前髪をかき上げ、一息つく。

 蒸れて湿っていた顔の左半分が、風に当てられひんやりと心地よかった。


「ニャア」


 足元で聞こえた小さな鳴き声に、僕は思わず両目を開けた。

 掌に乗るほどの子猫が二匹、ベンチの下から顔を出してこちらを伺っていた。まるで振り分けたように、一匹は真っ白、もう一匹は真っ黒だ。


 僕はどちらかといえば犬派だが、いたいけな子猫はやはりかわいい。つい手を伸ばしたが、その途端、僕の手を牽制するような猫パンチが飛び出してきた。

 子猫をかばうようにベンチの下からのっそりと出てきたのは、鼻の上に深いシワを寄せた大きなキジ猫だった。子猫たちとは似ていないが、親猫だろうか。


「キタさん?」


 突然後ろから声を掛けられ、僕はビクッと肩を震わせた。猫に気を取られ、完全に人の気配に気がつかなかった。

 恐る恐る振り返ると、見覚えのある女学生が、驚いた顔で立っていた。


「びっくりした…。髪あげてるとこ、初めて見ました。イケメンなんですね」


 最後の言葉に、僕は慌てて下ろそうとした前髪をそのままにした。お世辞とはいえ、褒められることは滅多になく、気恥ずかしさはあっという間に飛んでいった。現金なものだ。


「えっ、と… ユタカさん?」


 彼女は確か同じクラスの学生で、周りからそう呼ばれていたはずだ。

 女学生は一瞬面食らったような表情したが、すぐにニコリと微笑み「ハイ」と頷いた。


「キタさんも、猫を見にきたんですか?」


 ユタカはそう言いながら、鞄の中から牛乳パックのようなものを取り出した。慣れた仕草で立ったまま小皿にそれを注ぎ、子猫の前に差し出す。これが初めてではないのだろう、子猫たちは怖がる様子もなく嬉しそうにミルクに飛びついた。


「いや…、僕は涼みに来ただけ」


 そうでしょうね。ユタカは僕の顔を見て納得したようにそう言うと、ミルクを飲む子猫の背を軽く撫でた。面長の中の切れ長な目を、さらに細めて小さく笑う。


 ベンチの下からは表情を和らげたキジ猫が、それでもまだ少し警戒するように僕を見上げていた。


 猫の隣の地面からは、ベンチの足に絡みつくように赤茶色の手が数本生えている。

 広場の中央に目をやると、タイルの隙間からはみ出しているのは雑草ではなく髪の毛だ。群青色の霧の塊が、シンボルツリーであるハナミズキを先程からゆっくり登ったり降りたりしている。

 目の前のユタカの腰のあたりでは、何故か二股に分かれた太い尾が揺れていた。

 向かいの大講義室では、蜘蛛のように長い手足のナニカが外壁にはりついて移動し、室内には天井から逆さまになって授業を受けている風の学生がいる。


 右目と左目が映す別々の世界は、いつも微妙に混ざり合い、時々境界が曖昧になる。

 それは時に大きな不安を伴うが、この時はそうではなく、妙に渾然一体とした落ち着く光景が、僕の目の前に広がっていた。


「ところで、そっちのキジには餌はあげないの?」


 僕がそう尋ねると、ユタカは驚いたように僕をまじまじと見て


「…何を食べるか、わからないので」


 と答えた。


 猫なんて鰹節で十分じゃないか。そう思ったが、ユタカは猫好きで何か拘りがあるのかもしれない。先程子猫のあげたのもただの牛乳ではなく、パッケージには「猫用」の文字が見えた。


 やがて子猫たちは満腹になったようで、キジ猫のもとに二匹が集まり、丸い腹を見せながらあくびをしはじめた。


「似てないけど、やっぱり親子なんだな」

「違いますよ?」


 僕のほのぼのとした気分を、ユタカはあっさり打ち砕いた。


「この子達の母猫は、先日図書館裏の駐車場で轢かれてしまいました」

「あ… そうなの?」

「それで私、気になってちょくちょく様子を見にきてるんです。でも、あなたがいるなら大丈夫ね」


 最後の一言を、ユタカはキジ猫に向かって言った。

 キジ猫は、プイとそっぽを向いた。

 それを見てユタカは小さく笑い、さて、と立ち上がる。


「そろそろ次の授業始まりますよ。キタさんも出ますよね?」

「あ、うん」

「じゃあ、またあとで」


 僕に背を向けたユタカだが、二、三歩進んでクルリと振り返った。


「あの。私、ユタカはあだ名ですから」


 そう言って笑った。


 それは、先程見せたニコリという可愛らしい笑い方ではなく、口の端を左右にニィっと引いた、どこか妖しげな笑みだった。


 そしてユタカは、今度こそ踵を返して去っていった。

 

 僕は呆気にとられ、どういうことかと首を傾げた。

 その拍子に、前髪がパサリと左目に戻ってくる。

 途端に、赤茶色の手もタイルからはみ出した髪の毛も木を登り降りする霧も、壁にはりつく蜘蛛も逆さまの学生も、幕を閉じたように見えなくなった。


 ベンチの下の、あのキジ猫も。


 僕は驚いてベンチの下を覗き込んだが、そこにいるのは満腹でお昼寝中の二匹の子猫だけだった。

 あの猫も、「そう」だったのか。

 僕は呆然としながら、ユタカが「何を食べるのかわからない」といった意味を悟った。

 そして、先程のユタカのあの笑顔を思い出した。


 彼女も、もしかしたら「そう」なのではないかーー


─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…


 恐る恐る次の授業に顔を出したが、ユタカは当たり前のように友達と談笑していた。もちろん左目は隠れている。

 僕は心底ホッとした。


 ユタカは僕の視線に気づいたのか、今度は可愛らしくニコリと小さく笑いかけてきた。

 しかしなぜかその笑みに、僕は小さな氷が背筋を走った気がした。


─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…

 あの後、子猫たちは無事大きくなり、あの研究棟裏の広場を我が物顔で根城にしていた。キジ猫は、子猫たちが大きくなったからか、いつのまにか見かけなくなった。


 ユタカとは在学中ずっと机を並べて勉強していたが、不思議なことに、彼女の本名は未だわからない。


 とりあえず、猫の話はこれにておしまい。

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