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僕の左目が見る世界  作者: カイト
17/19

海の話

 僕の実家は海まで徒歩十分の距離にある。そのため、子供の頃から海は定番の遊び場だった。もちろん夏ともなれば、毎日のように泳ぎにいった。

 家の前の小道を下り、蝉の声が滝のように降り注ぐ防風林を抜けると、そこには白い砂浜と青い海が広がっている。

 泳ぐだけでなく、波打ち際で砂を掘ってプールを作ったり、テトラポットに貼りついた貝を採ったり、遊びは飽くことなくいくらでもあった。友達や妹ともに、毎年真っ黒に日焼けして二学期を迎えていた。


 あの頃は、海を怖いと感じたことはなかった。


 もちろん、大波やクラゲや、貝殻で足を切ったり溺れかけたり、危ない目にはたくさんあった。でもそれらは気をつけるべきことで、海を忌避する原因にはなり得なかった。

 

 今、僕は海が怖い。

 海には、得体の知れないものが多すぎる。


─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…


 大学一年生の夏の話だ。

 お盆も間近になり、僕は隣の県にある実家に帰省することにした。


 しばらく帰省します、と僕の人生の先生であるハルさんに告げると、にこやかな顔で了承してくれた。


「帰る家があって迎えてくれる人がいるのは、幸せだよ。帰ったら、ご先祖様にも挨拶しなよ」


 こうして八月十三日、僕は久々に地元の駅に降り立った。

 久々、といっても、ほんの三ヶ月ぶりなのだけれど。


 この年の五月、昼夜を問わず目の前に現れる理解不能の怪異にすっかり参ってしまった僕は、一度地元に帰っている。実はその直前にハルさんに見つけてもらい、問題は解決とはいかないまでもかなり状況は緩和されていたので、帰っても特にすることはなかったのだけれど、実家で少し養生することにしたのだ。


 家族は、かなりやつれた僕の顔にショックを受けていた。一ヶ月強しか実家を離れていないので、当然だと思う。

 一人暮らしや学生生活に問題があるのではないか、と色々心配させてしまった。果ては「失恋でもした?」と顔色を伺いながら聞かれた時は、そもそもその前段階にすら達していないと強く否定しておいた。


「きちんと生活してるつもりだけど、やっぱり不十分なところはあったみたい」


 そう告げると、突然の帰省も実家が恋しくなったのだろうと一応は納得してくれた。


 左目が映す奇妙な世界のことを、家族に言うつもりはなかった。僕自身がまだ左目について半信半疑だったから信じてもらえる自信もなかったし、なによりいらぬ心配をさせたくなかった。

 それでも、大学に戻ってからも今までとは違い頻繁に様子を伺う電話がかかってきたから、心配してくれているのだと思う。


「兄ちゃん!」


 長距離バスを降りると、聞き慣れた声がした。三つ年下の妹だ。

 この妹はかなり活発な性格で、昔から僕の後ばかりついてきていた。年下のくせに僕と対等に喧嘩をし、運動神経は僕より良く、たいして勉強もしないくせに成績も僕よりいい。生意気な奴だった。


 嬉しそうに近づいてきた妹は、すぐにその足を止め怪訝そうな顔をした。視線は予想通り、僕の左目、正確にはそれを覆う長い前髪の注がれている。


「…兄ちゃん、バンドでもやりだしたの? それか、今更妖怪アニメオタク?」


 おいおい、それが久しぶりに会った兄にかける言葉かよ。アニメオタクを馬鹿にするなよな。違うけど。


 自宅に向かう車の中で、「鬱陶しく伸ばした前髪は、微妙に残った視力がものを見るときに邪魔になるから」だと父と妹に説明した。僕の左目にはぼんやりと明暗を見分ける視力だけは残されているから、一応それで納得してくれたようだ。


 駅から自宅までの道のりは、途中で海岸線を通る。一人後部座席に座った僕は、そっと前髪を上げて左目で海を見てみた。


 海面から突き出されたいくつもの白い腕が、浜辺に向かって手招きをしている。

 浜辺に佇む巨大な黒い影。

 波の上を走る犬のようなもの。

 テトラポットの隙間から生えているような人影。

 異様に大きな魚のヒレのようなものが、時折海面から覗く。

 浜辺から少し離れた沖に、不自然に停泊している木造船。


 遠目に見て、これだけのわけのわからないものが海にはある。

 右目で見た時は、太陽を反射して輝く見慣れた青い海なのに。

 僕は小さくため息をつき、今年の帰省では絶対に海に近づかないことを胸に誓った。


─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…


 海には近づかない、と誓ったばかりだというのに、次の日は朝から妹が「海に行こう」と迫ってきた。

 どうしてこいつは、いい歳して僕につきまとい、やる事なす事に口を挟むんだ。


 昨日だって、ハルさんに言われた通りまず仏壇に参った僕を茶化すようなことを言うし、夕食後も「面白くない」と文句を言いながら一緒にテレビを観ていた。学校の課題はいいのかと訊くと、「頭いいからすぐ終わるもん」と言う。生意気だ。

 ウンザリした心中が顔に出ていたのだろう。妹は途端にムッとした顔になった。なるべく刺激しないよう、やんわりと断る。


「ん〜、ごめん。ちょっとムリ」

「なんで? 昔はよく海で遊んだじゃん!」

「いや、そうだけどさぁ」


 昔はあんな恐ろしいものがいるなんて知らなかったのだから、当然だ。


「いいじゃん、海行こうよ」

「だってさぁ、ほら… 今お盆じゃん?」


 苦し紛れだったが、我ながらいい言い訳だと思った。


「お盆に海に行っちゃダメって、お前も聞いたことあるだろ」


 この辺りでは、お盆になったら先祖の御霊は舟に乗って海から帰ってくるといわれている。お盆の時期の海は、あの世と繋がるのだそうだ。だから、他の地域でよく見る精霊馬を飾ることはない。舟で帰ってくるのなら、わざわざ乗り物をこちらで用意しなくてもいいということなのだろう。


 舟に乗って一斉に帰ってきた先祖の御霊は、まず自分の墓に行く。墓が御霊が家に帰るための玄関らしい。だから、毎年お盆の前には掃除しなさいといわれる。これが、お盆の迎えの時期。

 海に行くなといわれるのは、特に送り盆の時期だ。

 束の間をこの世で楽しんだ御霊たちの中には、あの世に帰りたがらないものもいる。それがなんとかこの世に残ろうと考えて、生きている者の足を引っ張ることがあるのだという。


 お盆の間、御霊たちをを送ってきた舟は沖に留まっている。舟には船頭がおり、行きと帰りで御霊の数が合っているかどうか数えるのだが、この時は数を数えるだけで、誰が乗るかは気にしないのだという。

 だからそれを知っている御霊は自分がこの世に残るために、海で生きている者の足を引っ張って溺れさせ、自分の代わりに舟に乗せるのだという。


 足を引っ張るのは帰りたがらない御霊だけではない。早く役目を終えてあの世に戻りたい船頭も、時折同じことをする。いつまで待っても帰ってこない御霊を待ったり探したりするより、海で遊ぶ生者の足を引く方が手っ取り早いのだろう。


 そんな話を、僕らは夏に行われる子供会の肝試しで、それしかネタがないのかと思うくらい毎年聞かされていた。

 妹もその話を思い出したようだったが、「でも、そんなの迷信じゃん」と食い下がってくる。


「なんで急にそんなこと言い出すわけ?」


 僕はだんだん面倒臭くなってきた。

 大体、なんでそんなに僕と海に行きたいんだ。もしかして友達がいないのか? それはそれで問題だが、とにかく僕は海には行きたくない。

 ここはとりあえず下手に出て、妹に海水浴を諦めさせよう。


「ごめんな。でも、海には行かない。お前も絶対に行くなよ」

「兄ちゃん!」

「昔から言われてることが、全部迷信とは限らないんだから」


 下手に出つつ、兄らしい毅然とした態度で断る。我ながら上出来だと思っていたら、妹はキュッと口を引き結び、泣きそうな顔になった。


 マジかよ、そこまで⁈


 慌てて慰めようとした僕のか細い声は、「もういい!」という大声に遮られた。怒った時の妹の口癖だ。

 妹は足音も荒く、自室に戻ってしまった。


「フゥ…」


 やれやれと僕はため息をついた。

 これで海行きは阻止できた。妹が僕のお盆の話を信じたとは思えないけれど、僕への当て付けに一人で海に行くほど馬鹿ではないので、とりあえずは一安心だ。

 あいつは単純だから、あとでアイスでも持っていけばいい。


 まだ午前中だが、僕はごろりと畳敷きの自室に寝転がった。その拍子に、長い前髪が流れて左目が半分露出する。

 その左目の端に、チラリと見慣れない模様の布切れが目に入った。あんな模様の服は僕は持っていないし、カーテンも全然違う柄だ。


 見慣れない、でも昔どこかで見たことがあるような模様。

 僕はふと、仏壇の上に並ぶ写真を思い出す。五年前に亡くなった祖母は、いつも首にスカーフを巻いていた。

 一瞬だけ見えた見慣れない柄は、祖母のお気に入りのスカーフのそれに似ていた。


「…おかえり」


 僕は小さく呟いた。


─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…


 八月十六日。午前中に鳴り響いた防災無線のせいで、僕の気持ちは一日暗澹としていた。


 昨日の夕方、海で泳いでいた若者の行方が分からないらしい。

 僕の脳裏に、帰省した日の車中から見た風景が何度も蘇る。

 浜辺のすぐ近くに不自然に停泊していた木造船。

 あれが、昔話で語られる盆の舟だったのだろうか。


 行方不明の若者は、帰るのを惜しんだ御霊に足を引かれたのだろうか。それとも、早く帰りたい職務怠慢な船頭に?

 どちらにせよ、もう戻ってはこないだろう。


 腹の底から冷たいものが這い上がってくる感覚がして、僕は一日中寒気がしていた。おそらく病は気から、というやつだろうけれど、それを解消したくてホットコーヒーを何杯も飲み、母や妹に怪訝そうに見られた。


 その日の夜のことだ。

 妹と二人で観るともないテレビを眺めていると、ふと数日前に見た祖母のスカーフを思い出した。

 若者を身代わりにしてあの世に帰るのを拒んだ御霊が、もし祖母だったらどうしよう?

 不意に浮かんだ思いだったが、根拠がないわけではなかった。心配性だった祖母は、子供の頃から呑気でどこかぼんやりした僕が気になったのか、よく目をかけてくれていた。自分で言うのもなんだが、僕は妹や従兄弟たちにヤキモチを妬かれるほどの祖母の「お気に入り」だったのだ。


 今年はそんな僕に、事故にあった時以上の窮地が襲った年といってもいい。祖母が心配してこの世に留まろうと考えても、おかしくないように思えた。

 一度そう思うと、俄然気になってしょうがない。

 それでわかるという確証もないのに、僕は恐る恐る左目を覆う前髪をかき上げた。


 ーーいた。


 テレビの後ろに、先ほどまでは絶対にいなかった人影が佇んでいた。


 壁ギリギリに設置してあるテレビの後ろに、人が立てるほどのスペースはない。そうでなくてもあの青白い顔を見れば、生きた人でないことはすぐに知れた。


 左目を細めると、少しぼやけたその輪郭がハッキリしてくる。

 薄い頭髪に、少し曲がった腰の男性。いつも握っていた水戸黄門のような杖。

 それは祖母ではなかった。祖母より前に亡くなった、二軒隣のおじいちゃんだった。


 祖母が残ったんじゃなかった。そのことに安堵するのと同時に、別の感覚がゾワゾワと這い上がってくる。


 なんで、あのおじいちゃんがここにいるんだ?


 うちは別に親戚でも、特に親しくしていたわけでもない、単なるご近所さんだ。おじいちゃんがうちにいる理由がわからない。

 それに、この世になんらかの未練があって残ったんだろうに、なんなんだろう、あの虚ろな目は。なにも見ていない、なにも感じない、なにも考えていないあの塗りつぶされたような目で、いったいどこを見ているんだろう。

 なにか、伝えたいことがあるのか? それはなんだ? もっと近づけば、声も聞こえるんだろうかーー


「兄ちゃん!」


 妹の叫ぶような声に、僕はハッとして目を瞑った。かき上げていた前髪も元に戻す。次に目を開けた時には、当たり前のように見慣れたリビングが広がっているだけだった。


「どうしたの?」

「……でかい虫がいた…」


 心配そうに見つめる妹には、とりあえずそう答えておく。苦しすぎる言い訳に妹はまったく釈然としていなかったけれど、なにか察したのかそれ以上追求してくることはなかった。


 やっぱ、見るもんじゃないな。

 心の中でそう呟く。それから、ハルさんがよく言う「クヨクヨせずに、ドンと構える」を心の中で三回唱えた。


「…兄ちゃん、やっぱりなんか変わったね」


 妹がしみじみとそう漏らす。さすがに、今の僕の様子は異様に見えたようだ。「いい感じに?」とおどけてごまかすと首を振るので、昔よくやっていたデコピンをかましてやった。


「別に、変わってなんかいないよ」


 もちろん変わったところもあるけどね。心の中でそう付け足しながら言うと、妹は安心したように笑った。

 しばし妹とじゃれた後、僕は心の中で先ほど見たものに語りかけた。


 近所のおじいちゃんがなぜ僕の家にいるのかはわからないけれど、僕はもちろん、この家ではなにをしてあげることもできない。なにか言いたいことがあるなら、自分の家に行ってください。


 おじいちゃんがいなくなったかどうかは、怖くて確認することはできなかったけれど。


─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…


 お盆が終わってしばらくして、少し嫌な話を聞いた。


 僕の家に現れたあのおじいちゃんの家では、お盆のあとペットである二匹の猫と金魚鉢の金魚が全滅したらしい。金魚はともかく、猫たちはまだ若く元気いっぱいだったのに、原因もわからずどんどん衰弱し、死んでしまったそうだ。

 動物だけでなく、家の人にも不眠や原因不明の皮膚湿疹などが急に見られるようになり、病院でも埒があかないため、一応神社にお祓いを頼んだのだという。


 それが、舟に乗らずに残ったあのおじいちゃんのせいとは限らないのだけれど、あの時のおじいちゃんの様子を思い出せば、さもありなんという感じがした。

 自分の家に戻れと念じたのは僕なので少し責任を感じたりもしたが、でも僕にはなにもしてあげられないのだ。


 いっそ清々しいほど僕は無力で、怪異に怯えながら気を強く持てと自分に言い聞かすことしかできない。

 もうこれ以上悲しいことが起きないよう、僕には祈ることしかできなかった。


─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…


 大学の夏休みは長く、九月の半ばまで僕は自宅でゆっくり過ごさせてもらった。

 本当は九月末まで寛ごうかとも思っていたけれど、学校が始まった妹が勉強を教えろとか疲れたから肩を揉んでほしいとかうるさいため、名残惜しいが退散することにした。


「どーせ九月いっぱい暇なんでしょ? 大学戻ってなにするのよ」


 ブーブー言う妹と一緒に、来た時と同じように父の車に揺られて駅へ向かう。


 僕はまたこっそり、左目で海を見てみた。

 右目で見た浜辺は、人がいないせいか秋が近づきはじめたせいかどこか寂しい感じがしたが、左目で見ると夏と変わらず、奇妙ななものたちが相変わらずウヨウヨゴチャゴチャしていた。


 でもその中に、あの時見た木造船の姿はない。

 僕は左目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。


 あれらの怪異を気にせずに、海に行こうと思う日が来るだろうか。

 まだわからないが、いつかはそうなってほしい。

 もう一度、左目を閉じて見た海はやっぱりきれいで、僕はそう思った。


「兄ちゃん、来年こそは海に行こうね。お盆は避けて」


 助手席から振り返ってそう言う妹に、僕は素直に頷いた。


 海の話は、これにておしまい。

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