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僕の左目が見る世界  作者: カイト
10/19

髪の話

 自慢ではないが、僕は毛根には自信がある。


 僕の父も祖父も、そして母方の祖父も、さらには数人いる親戚の男性のほとんどが、年齢にそぐわぬフサフサ具合だからだ。さらに言うなら白髪も少ない。もちろん自毛だ。

 フサフサの裏には涙ぐましい努力が…、ということもない。髪に関しては、なにも労せず僕の家系は恵まれているようだ。

 遺伝がすべてではないだろうが、髪質には多くそれが影響していると思う。


 僕は一度、出張のついでに一人暮らしの息子の様子を見に立ち寄ったオイちゃんの父上にお会いしたことがあるのだけれど、若白髪のオイちゃんの父上は、ツヤツヤ黒髪のザビエルヘアだった。てっきり、オイちゃんを進化させたようなロマンスグレーだと思っていたのに。

 生唾とともに言葉を飲み込んだ僕に、オイちゃんは「言いたいことはわかる」という顔で小さく頷いた。

 後で聞いたところ、オイちゃんの父方は若禿、母方は若白髪の家系らしい。


「昔、どっちか選べって言われてさ。かなり悩んで白髪にしたんだよ」

「誰に選ばされたのさ? でもそれって、黒髪フサフサは選択できないわけ?」

「それはできないみたいなんだよなぁ、不思議なことに。髪の神秘ってやつ?」


 とはいえ、僕自身も過信しているわけではない。カラー、パーマといった毛根及び頭皮に悪影響がありそうな行為は避けて通っている。

 すべては、壮年期を過ぎてから僕の頭に注がれる羨望の眼差しのためだ。オシャレが似合わないわけでは、断じてない。


 ところで、髪というのは不思議なものだいつも思う。

 人の頭にあるうちは、きれいだと褒められ貴重だと有り難がられるくせに、そこからこぼれ落ちてしまえば途端にゴミと認識されるようになる。顔をしかめられ、ため息をつかれ、箒や掃除機やコロコロで容赦なく集められて捨てられる。

 木の葉や花も似たような境遇だが、地に落ちた髪の毛の嫌われ具合は段違いだ。そして確かに、何本かの髪の毛が部屋の隅で埃と絡まり合っていたり、洗面台で干からびていたり、排水口でぬめっていたりするのを見ると、嫌悪感が湧き上がる。


 また、一筋の髪の毛が思いもしないところからハラリと出てきて驚かされることもある。

 たとえば、しばらく開いていなかった漫画のページの隙間から。

 炊飯器の、炊きたてご飯の真ん中。

 部屋の照明の傘を拭いていたら、埃と一緒に出てきたり。


 大体は、気づかないうちに抜け落ちた僕の髪の毛なのだけれど、ときどき、そうではないものがあるから困る。


─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…


 大学一年生の冬の話だ。


「おいおいキタくん」


 午前最後の講義が終わった途端、後ろに座るクラスメートが僕の肩をつついてきた。振り返ると、なんだか妙にニヤニヤしている。


「いいものつけてるじゃん。ついに、できたか?」

「なんの話?」


 ニヤニヤしたまま、彼は僕の肩から何かをつまみ上げた。その動作を見ただけで、僕はため息をつきそうになる。

 彼が親指と人差し指でつまんでいるもの。それは一筋の髪の毛だった。教室の照明でキラリと光る茶色のそれは、長さも色もどう見ても僕のものではない。


「いやぁ、実は二、三日前から気づいてたんだよね、キタくんが女の髪の毛くっつけてんの。いつも同じやつだしさ、これ彼女でしょ。どんな子? ていうか、もう一緒に住んでんの?」


 クラスメートは嬉々としていたが、喋っているうちに僕の浮かない様子に気づいたらしい。


「え、どしたん?」

「そんなに前から、僕、髪の毛くっつけてたわけ?」

「うん、肩とか背中に。だから、これは女ができたんだと思ったんだけど… え、違った?」

「うん、違う」

「え、ごめん。え? でも、髪の毛ついてるのはマジだよ? ほらほら」


 彼はつまんだままの髪の毛をヒラヒラと振った。

 さて、なんと答えよう。


「…猫だよ」

「え、ネコ?」

「うん。姉ちゃんの飼ってる猫なんだけど、大型の長毛種。名前はナイちゃん。姉ちゃんが出張だから、二、三日前から預かってんだよ」

「…そうなん?」

「可愛いけど、よく毛が抜けんだよな」


 僕は、高校の同級生が猫を五匹も飼っていて、いつも学生服のどこかにその毛をくっつけていたことを思い出しながら言った。


「ふーん」


 クラスメートはしばらく自分の持つ髪の毛を眺めていたが、やがてポイとそれを床に捨て、


「なら残念。せっかく、キタくんが童貞卒業できると思ったのに」


 そう言ってまたニヤリと笑った。


 彼が捨てた毛は、我ながら誰がどう見ても人毛だった。僕の苦しい「猫の毛」という言い訳の真意を、彼は察してくれたのだろう。

 僕は彼の頭にチョップを喰らわせながら、内心手を合わせた。


 チラリと先程の髪の毛に目をやると、床に落ちたそれは砂が吹き飛ばされるようにサラリと消えてしまった。


 その日の帰り道。


「おい、キタ」


 坂道を降る直前、声をかけられた。振り返ると、これから野球サークルの練習なのだろう、ユニフォームを着たオイちゃんが少し心配そうな顔で僕を見ていた。


「あのさぁ… お前、大丈夫か?」

「うーん、まぁね」


 オイちゃんは一つため息をついて近寄ってくると、僕の肩のあたりをパッパッと手で払った。


「虫、ついてた」

「マジ? ありがとう」

「なんかあったら言えよ。虫くらい、すぐ追っ払えるんだから」

「うん、そうする」


 じゃあな、とオイちゃんは片手を上げてグラウンドの方へ走っていった。


 僕は、オイちゃんが虫だと払ってくれた肩を見やる。

 たった今払われたはずのそこには、昼間見たのと同じ茶色の髪の毛が一筋鎮座していた。


─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…


 僕の左目は、事故のせいでほとんど視力がない。明暗をやっと判別できるくらいだ。

 その代わり、左目は僕に無断で奇妙なものを映すようになってしまった。いわゆる、妖怪や幽霊や思念などと呼ばれる類のものだ。


 これが見えるようになって半年余り、「そう」いったものたちがいるということにはようやっと慣れてきたが、恐怖がなくなったわけではない。

 なにしろ、僕は「見えるだけ」なのだ。

 漫画や映画の登場人物のように、かっこよく除霊できるわけではない。


 僕に怪異のことを教えてくれる先生もいるが、彼女が教えてくれるのは怪異の種類と、「とにかく気を強く持て」ということが主だった。

 何度か頼んだことはあるのだが、その度に、


「積極的に関わらないで、無視するのが一番よ。しっかりしてれば、よっぽど因縁がない限り大抵のものは人間に害をなすほど強くはないんやから」


 とはぐらかされた。食い下がったこともあるけれど、


「あんたには堅気の世界で頑張ってもらいたいから」


 と言われると、もう何も返せなかった。


 確かに、大半の怪異は大した悪さはしてこない。

 僕は奴らをゴキブリのようなものだと思っている。どこにでもいて姿を見てしまえは不快この上ないが、大抵はいること自体に気がつかない。部屋を清潔にするなど対策をすればゴキブリは出てこないように、僕が気を強く持っていれば、きっと奴らも寄りついてこないのだろう。

 しかし、ゴキブリに対する殺虫剤のような、決定的な最終兵器を持っていないことには、やはり不安もある。


 そしてそんな僕は今、幽霊に憑きまとわれていた。

 僕の周辺で見かける茶色の髪の毛、その持ち主の彼女だ。


 きっかけは、半月ほど前だった。

 先生であるハルさんの隣で駅を行く人々を左目で眺めていると、誰かがジッと僕を見ているのに気がついた。

 誰だろう、とそちらを向いた瞬間、


「見たらいけんよ」


 ハルさんの声が飛び込んできた。


「あんたに気づいて欲しくて見てるんよ。ああいうのに構ったらいけん。気づかんフリをしなさい」


 慌てて顔を戻したが、視界にチラリと茶髪の女性の姿が目に入ってしまった。

 それ以来、視界の端にチラチラと茶色の髪の毛が映るようになった。

 奇妙なものを見るのことにはもう慣れていたけれど、それは左目が映す時だけだ。

 茶色の髪はまるで僕の世界を侵食するように、徐々に目の前に姿を現し始めた。左目を完全に隠している時でも見えるようになり、そしてそれだけにとどまらず、まるで自分はすぐそばにいるとアピールするかのように、いつもどこかに一筋の髪の毛が落とすようになった。

 あの時、僕は女の姿を見てしまった。女は、僕が自分を認識していることに気づいた。

 そのことで、本来なら見えたり感じたりするはずのない僕の左目以外の部分にも、影響が及んでいたのだと思う。


 朝ベッドから降りようとすると、茶色の髪が一房ベッドの下からはみ出ている。

 歩いている一瞬、まるで隣で腕を組んでいるような近さで頭が揺れている。

 授業中ウトウトしていると、鼻先を髪の毛でくすぐられる。

 気のせいだと思いたかったけれど、他人からも指摘されるまでになってしまえば、もう無視できない。

 僕は完全に取り憑かれてしまったようだ。


 もちろんハルさんには相談した。ハルさんはジッと僕を見つめた後、「まぁ、様子を見てみよう」と言った。

 てっきりすぐに祓ってくれると思っていた僕は不満の声を漏らしたが、


「大したもんじゃないよ。それくらい気力でなんとかなるなる。いつも言ってるやろ、気を強く持って相手にしなけりゃ、すぐどっか行っちゃうから」


 頑張りなさい。ゲンナリする僕を尻目にカラカラと笑っただけだった。


 もしも本当に悪いものなら、ハルさんは問答無用で対処してくれるだろう。「大丈夫か?」と尋ねてくれるオイちゃんにしても一緒だ。あの二人が静観しているということは、本当に大したことのない奴なのだと思う。

 そうだとは思うけれど、やはり気味が悪いものは気味が悪い。

 そして、ストーカーのような憑きまとわれ方にもウンザリしていた。

 気を強く持てと自分に言い聞かせるけれど、いつまで続くのかわからない、少しずつエスカレートするやり口に、僕は少しずつ追い詰められていた。


「よし!」


 鬱々とした気分を吹き飛ばしたくて、あえて大声でひとりごちる。


「夜はカレーを食おう」


 好きなものをたらふく食べて、気分を上げよう。そう考えるとそれだけで、なんだか元気が出た気がした。我ながら単純だけれど、僕は毎日でもいいというくらいカレーが好きだった。


 アパートに着き、冷凍していたご飯とレトルトカレーを温める。コップに水を注ぎ、デザートにヨーグルトまで出して、準備万端で僕はテーブルについた。


 そして息を飲んだ。


 テーブルを挟んだ目の前に、茶色の髪の女が立っていた。


 俯きがちに立っているため、長い髪に隠れて顔は見えない。ピッタリと体に吸い付くような真っ黒のワンピースを着て、露出している手足は透けるように白い。全体の輪郭が、時々霧のようにぼやけて揺れた。

 ガリガリに痩せた体とは対照的に、髪だけは艶やかでボリュームがあって、異様だった。まるで、黒い案山子にカツラを被せたようだ。


 僕の左目は前髪で隠れていたが、どう見ても生きた人間ではなかった。

 僕は微動だにできない。


 女は少しずつ体を屈め、僕の顔を覗き込むような姿勢を取りはじめた。

 ゆっくり女が近づいてきて、それと同時に俯いていた顔も見えはじめる。

 しかし、女には顔がなかった。

 本来顔があるべきところは黒く塗りつぶされ、空洞のようになっていた。どこまで続いているのかわからない、吸い込まれそうな黒い黒い穴━━

 吐息がかかりそうなくらいまで女の顔が近づいた時だ。

 女の茶色の髪が一筋、ハラリと頭皮からこぼれ落ちた。

 髪の毛は、僕と女の間にあり、まだ湯気を立てるカレーの上に落ちる。

 その途端、僕の中で何かが弾けた。


「お前、ふっざけんなよ‼︎」


 ビクッと女が動きを止めた。


「もう食えないだろが、ふざけんな! 誰のだと思ってんだ! お前のじゃねぇぞ‼︎」


 僕は髪の毛が落ちたカレー皿を右手で掴み、女に向かって思い切り投げつけた。


 皿は、カレーと米を撒き散らしながら飛んでいき、女をすり抜けて向こう側の窓ガラスに当たって砕け散った。

 硬いものが割れるけたたましい音がして、顔がないはずの女がなぜか泣きそうな顔をしているのがわかった。


「お前の事情なんて知らん! さっさと出てけ!」


 女は俯き、そのままスゥッと消えてしまった。


 なんだかよくわからないまま、僕は突っ立って肩で息をしていた。

 ━━いなくなった?

 あの女に、勝ったのだろうか。


「……あのー」


 後ろから聞こえたその声は遠慮がちだったが、僕は完全に度肝を抜かれた。あの女が舞い戻ってきたのだと思ったのだ。

 もうおしまいだ。そう思って泣きそうになったのだけれど、


「大丈夫? 警察呼ぼうか?」


 あの女が言うことにしては、何かおかしい。

 恐る恐る後ろを振り返ると、玄関に取り付けられた郵便受けがキコキコと外から開け閉めされていた。


「おーい、大丈夫かーい?」


 どうやら、先ほどの僕の怒鳴り声を聞いた人が、心配して外から覗いてくれているようだ。


「あ、あの、大丈夫です!」


 そう言いながら僕は萎えかけた足を必死で立たせ、玄関を開けた。

 そこには、何度かアパートの廊下ですれ違ったことのある女性が、心配そうな顔で立っていた。


「203号室の者だけど。すごい音してたけど、大丈夫?」


 彼女はそう言いながら僕の部屋を覗き込んで、「うわ」と小さく呟いた。

 僕もつられて振り返り、部屋の惨状に絶句する。

 とっさのこととはいえカレー皿を投げるという暴挙に出た結果、カレールーと米粒が散乱し、カレー臭は部屋中に満ち、おまけに皿はもちろん窓ガラスまで割れて、北風が吹き込んでいた。


「ど、泥棒⁈」

「い、いえ、違います。あの…」


 なんと答えようか。そう焦る反面、僕はなんだか笑いがこみ上げてきた。ホッとしたのか、あの女を撃退できて嬉しいのか、それとも恐怖心が破裂したのか…


「ゴキブリが出ちゃって、それでつい」

「ゴキブリでここまでやる…?」


 隣人は惨状の原因を聞いて呆れ、必死で笑いを堪える僕を気味悪そうに見て、


「まぁ、何にもないんなら、よかったね」


 と、これ以上関わりたくない、といった顔で、さっさと自分の部屋に戻ってしまった。


 僕はドアを閉め、自分でもよくわからないままひとしきり笑い続けた。

 この時ばかりは、どんな大妖怪でも悪霊でも、来るなら来やがれ! という気分だった。


─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…


 あれ以来、僕はあの茶色の髪の女を見ていない。祓えたのか、それとも僕以外の誰かにまた憑きまとっているのか、それはわからない。

 なにしろ、あの時の何がよくて女が消えてしまったのか、それすらもわからない。僕が怒ったからか、それともカレーのスパイスにお祓い効果があったのか。

 ハルさんに尋ねると、


「両方じゃないの?」


 という、なんとも適当な答えが返ってきた。


「まぁ、相手からしたら、生きてる人間の負けん気を一気に浴びせられたんだろうから、びっくりしたんだろうねぇ」


 僕の大活劇を聞いたハルさんは、大笑いした後涙をぬぐいながら言った。


「ね、だから、大丈夫なんだよ。生きてりゃどうにでもなるのさ」


 僕は今回の件で、いつも楽天的なハルさんの言葉の意味が、少しだけわかった気がした。

 でももし仮に、今後誰かとお付き合いするようなことがあるとしても、茶髪の女性だけは遠慮したいと思う。


 髪の話は、これにておしまい。

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