旅人の交差点
物語は終わりを迎えてしまった。
後に残るは汚れた小さな部屋で紙束に埋もれる老人が一人。
もうベットから起き上がる体力は無い。物語を棚に収める気力もない。
私は、明日生きる力を欲するあまりに若い日々を必至に綴った。
ペンを持っている間は若さを取り戻した気分にもなれた。
ただ、物語が進むにつれ。
ひとつ、またひとつと物語が終りを迎えるにつれ、
時間と老いから逃げた紙の上でさえ、それは夜霧のように忍び寄ってきた。
疫病が蔓延した街では、人々が死の恐怖から逃れるために、
日夜踊り狂った話を聞いたことがある。
寝食も病の治療も生活資金の工面も手に付けず、
ただ書き綴る様は正に踊り狂う骸だ。
そして、踊る力の無くなったものから死んでいく。
恐らく、部屋に満ちる紙切れの一枚でも拾い上げて読返したなら私は。
消えかけていた好奇心が僅かに灯るのを感じた。
「亭主、空いてるか?」
帳簿から顔を上げると、夕日を遮るほどの巨漢が髭の間から白い歯を見せた。
「久しいなスティーブン。3階の階段上がって直ぐの部屋を使いな。」
「助かる。それと、ちと話があるんだが。」
「まさか、お前さんの太い足にしがみついてる童の事か?」
彼の目が驚きに開いた。
「座ってるあんたからは見えないと思ったんだが。」
「左後ろ、振り返ってみな。近頃は後ろ手に刃物を持って酒場に入る連中が多くてね。
ケツの裏が見えるように鏡を置いてみたのさ。」
彼は気恥ずかしそうに髪をかく、体格に見合わずかわいらしい仕草だ。
「いやな、分けあって拾ってしまったんだが、亭主。あんたも俺の仕事をしってるだろう。
ずっとこの子を引き連れていく訳にもいかない。俺が仕事に出ている間、どうか面倒を
見てもらえないだろうか?」
彼のお人よしは今に始まった事ではない。私にも断る理由は無い。
「まぁ貿易船員やってたら面倒見るにも船の上になってしまうからなぁ。まぁいいだろう。」
「本当か!いやぁ助かる。」
カウンター越しに抱き着いてくる胸を押しのけ。
「その代りだ、一部屋代は常に払ってもらうぞ。うちは孤児院じゃなく酒場と宿屋だからな。」
「おうよ。それぐらいの甲斐性はある。とりあえず、前金で1年分置いとけばいいか?」
そういって背嚢から膨れ上がった革袋を取り出した。
「前ひと月泊まった時がラウリー銀貨で16枚だったよな。これにラウリー金貨4枚と同銀貨15枚入れてる。」
準備がいい。長い付き合いと、応えの分かる問いをするようになるものだ。
「久しぶりに沢山の金貨を見た。全部銀貨で支払われるんじゃないかとヒヤヒヤしてたよ。」
おどけて見せると、彼も幾分か晴れやかな顔になった。
「頼んでる身だ、そんな手間は掛けさせないさ。」
「どーだかな、俺には給料袋そのまま持ってきた気がしてならないんだが。」
階段に足をかけた背中に問うと、快活な笑い声だけが帰ってきた。
私はペンを置いて3-1の番号を振った棚に帳簿の綴りから外した一枚を仕舞った。
日暮れ時になると、行商人風の客がまとまって来る。彼らは時間の許す限り商売に走るが、
日が暮れてから商談を行うものは居ない。そんなことをしていると詐欺師の類と
間違われる事もあるからだ。
それでも、仕事熱心な商人たちは、取引のできない時間は儲け話を見つけるべく盛り場に足を運ぶ。
2日ほど前から2-2の部屋に泊まっている行商人の青年が今日から泊まる
他の商人たちと酒を酌み交わしている。
今年の麦はどうだ、果物はどうだ。毛皮、海産物、鉱山、工芸品のこと。
各地での紛争や、政治方針に至るまで。
一年中旅をしている彼らの話はとても変化に富む。
商売をしたことのない人間からは話題の一貫性がないと感じるが、その実、
皆で沢山のヒントを出し合ってその中から眼力鋭く儲け話を見つけ出す。
一番に儲け話を見つけたものは大きな利益を得る。利益出したものを嗅ぎ分けて、
それに続くものにも少なからず恩恵をもたらす。違いを見つけれなかった者は
昨日と同じ品物をいつもの取引相手に運ぶしかない。
彼らは、久しぶりに他人と過ごす夜をそういった人生を掛けたゲームで楽しんでいるのだ。
丁度、例の青年が給仕のリズに追加の酒と摘まみを言いつけていた。
「この一杯は私が持ちます。今夜皆様に巡り合えた記念です。」と
カウンターまで戻ってきた彼女を呼び止め。
「リズ。摘まみは俺が持っていこう。それと、さっきの青年、どんな印象だった?」
彼女は酒樽の栓を抜きながら。
「終始あの場で話題供給の一番手だった気がします。」
「俺もそう思う。あれじゃ社交会での人気者どまりだな。」
「どういう事です?」
「まだ若いって事さ、先は明るいけどね。」
彼らのテーブルに品を置くき、代金を受け取る。
私は5人の男たちに少し興味がわいた。
「皆さんはこの町を定期的に訪れるのですか?」
予想通り、青年が口を開いた。
「ええ、この町の貿易港。ここで輸出と買い付けるために3か月に一度来ています。」
3月に一度、大きな貿易船の出入りするタイミングに合わせている。
「君は、たしかラッセルだっだか。こっちにもってくる商品は何かあるのかい?」
「武具を扱う事が多いです。戦争でもない限り物価が大きく変動することはありませんから。」
なるほど、武器商人か。
「出身は鉱山の周辺かい?」
周囲の商人客が少し顔をあげた。
「少し外れにはなりますが、近くです。どうしてそう思ったのですか?」
「武器職人と全く縁のない人間がちゃんと利益を出せる仕事でもないですからね。
職人たちは部外者には厳しい。」
ラッセルの顔に誇らしそうな色が見えた。
「流石は酒場の主人だ。よく彼らの事をご存じですね。」
「私も以前行商をしていたことがあってね。ときどきこうして酒場の角席に混じりたくなるのです。」
「俺たちのようなやつらは毎日居るんじゃないか。」
ひとりの男がからかうように木製のジョッキを掲げた。
「商人は多く来るが、皆様の様に景気のいい奴らはそうはいない。」
一同が満足げな笑いを上げる。皆いい買い付けが出来たのだろう。
「俺たちを酔わせようってのか?」
「それが私の商売であります。」
大げさに気取ったお辞儀をすると
「さぁこの旦那が明日売る品まで飲んでしまおう」
と、騒ぎだすのだ。
明け方近くに、飲み残したジョッキを眺めながら、昨夜の勘定をまとめる。
先ほどの男たちは一時ほど前にそれぞれの宿、部屋に戻っていった。
部屋に戻れなかった2人は机に突っ伏したまま大きな鼾を立てている。
私はペンを置いて2-2の番号を振った棚に帳簿の綴りから外した一枚を仕舞った。
日出と共に最後の客が帰ってきた。
「今日は少し遅かったみたいだな。景気は?」
大きな垂れ目の若い娼婦のブリジットだ。
「客は入ったけど、太い人は居なかったなぁ。それより、何か食べるものない?」
疲れと眠気で長椅子に寝そべる彼女を横目に、
「ちょっとまってな。用意しよう。」
と声をかけて、昨夜の残り物と、仕込みに使った端材で簡単な朝食をつくる。
思えば、彼女が来てから2人だけの朝食はちょっとした楽しみになっていた。
既に寝息を立て始めた彼女を揺り起こす。
朝日を濾して琥珀色になった髪が彼女の美しさを際立たせた。
一杯の葡萄酒と共に食事を終え、彼女はふらふらしながら階段を上っていった。
私もカウンターの肘掛け椅子に収まり、目を閉じた。
客が起きてくるまでにはもうしばらく時間がある。
片付けと掃除、そのほかはリズが起きたらやってくれる。
少しばかり眠るとしよう。
「亭主、少し出てくる。」
薄目を開けると、童の手を引いたスティーブンだった。
「おう、戻りは遅くなる?」
「日の入りまでには戻るさ。」
部屋の鍵を預かりながら、酒場スペースが綺麗に片付いているのが横目に入った。
リズは本当によく働いてくれる。
昨夜書きっぱなしにしていた帳簿から一枚を2-3の番号を振った棚に仕舞った。
「旦那!買い付けの品裏に置いておきましたよ!」
勝手口の方からパティの声が聞こえる。私は現金の入った革袋をポケットに押し込んだ。
パティは商売仲間の弟子で、まだ13だが、御者台に座ることが出来る。
「ありがとう。ちょっと待っててくれ。」
2通の封筒を彼に手渡す。一通は彼の主人に一通はパティに。
「俺にですか?」
「そう、今日から方法を替えようと思ってね。」
彼に好奇の色がわずかに見えた。
「そう。今までは取引の証書をお前の主人宛てに、代金は掛け金として
後日俺かリズが主人の所まで持っていく。納金が終わればお前は報酬を受け取る。
ってっ方法だったな。」
「はい。」
「では、今日はいつもと変わった事は無かったかい?」
彼は少し考えて。
「初めて一人で買い付けに行きました。」
「そう、その時のお金はどうした?」
「主人が、貸しておくから後で返せよと。」
彼の好奇が疑問に変わるのを観て私は革袋を取り出した。
「そう、では返せるように俺から代金を受け取らないとな。で、いくらになる?」
そういう事か。と彼は嬉しそうな顔をした。初めて使い走りじゃなくて、
本当の取引が出来るのだ。私も彼がどんな金額を呈示するか楽しみでならない。
そのさじ加減、仕入れ値はおよその見当はついている。彼がいくら儲けようとするのか、
客からいくら取ろうとするのか。
「総額ラウリー銀貨で14枚と2/3です。」
仕入れ値の1割利益と言ったところか。いささか安すぎるとも思う。
「分かった。端数切らしてるから15枚と、後は預り金にしといてくれ。」
「分かりました。また明々後日に納めに来ます。」
早足に帰っていく彼の企んでいる事が何なのか楽しみで仕方がない。
早速厨房からリズとパトリックが忙しくする音が聞こえてきた。
作品の性質上、社会経済、貨幣について多く取り扱っています
架空の国名、貨幣名を使用しています。
貨幣の基準は作中のラウリー銅貨1枚(140円相当)を基準に同銀貨なら36倍、
同金貨なら1296倍を主要貨幣としています。
その他にも、他にも架空の国名を冠した貨幣が多く流通しています。