伝説よりも伝説のシチュエーション
リリアーナとの模擬戦を難なく制し、セラと共に屋敷に戻って玄関に入るや否や、シヴァは深く溜息を吐きながらしゃがみ込む。
「…………っ?」
心配になってセラが顔を覗き込むが、顔色は悪くない。どうやら体調が悪いという訳ではなさそうだ。むしろその表情は安堵に近いものがある。
「……正直、今日は疲れた。気を使い過ぎて。……でも」
まるで感覚を確かめるように片手の拳をグッと握るシヴァ。
「今日は誰も殺さなかった」
「…………」
「4000年前も含めて、今までで十本指に入るくらい気を使ったよ。いつシャボン玉みたいに潰しちまうのか、内心ヒヤヒヤしてた」
でも何とかできた。そう言って再び深く息を吐いて俯くシヴァを見て、セラも今更ながらにホッとした。
シャボン玉というのは単なる比喩表現ではない。シヴァにとって現代の魔術師を殺さずに勝利するというのはシャボン玉を割らずに戦う事と同義である。そしてそれを割ってしまえばこれまでと同じく強い恐怖を植え付け、遠巻きから非難されることとなるだろう。それはシヴァは勿論、セラも望むところでは無い。
「…………っ」
今日はある意味記念日だ。戦闘用魔法を覚える事を主とする賢者学校における模擬戦で、シヴァが初めて穏便に決着をつけた記念。他の誰かなら当然のようにできて、シヴァには出来なかった手加減が初めて功を奏した日だ。
細やかなながらに祝おうと思ったセラ。どうしようかと悩んだ末、簡単な事だがシヴァの好物ばかりを夕食に並べようと考える。
【シヴァさん、お魚。今日はお魚にします】
「魚? マジで?」
シヴァはパッと表情を輝かせる。
海鮮もの全般。特に甲殻類や貝類、白身魚や赤魚。それが暮らし始めて知ったシヴァの好物である。魚の焚き火焼きだけは出来るというシヴァが昔から食べ馴染んできた魚の中で、なかなか獲れないことからご馳走感覚で味わっていたそうだ。今でこそ漁猟技術や養殖技術の進歩によって市場に並ぶようになったが、4000年前は海から大量に獲れる青魚が主流で、白身魚と赤魚は王侯貴族の食べ物だったらしい。
【今から作り始めますから、お部屋で着替えて待っててほしいです】
「分かった。蔵書室で本でも読んでるから、出来たら呼んでくれ」
軽い足取りで階段まで行き、1度の跳躍で2階まで登るシヴァ。
(取っておいてよかった)
冷蔵庫の中にある貝数種類にかなり大きな白身魚を思い浮かべるセラ。食材費はシヴァの金からなので祝いの席の料理とするには不足気味だが、今晩は大盤振る舞いして全部使ってしまおう。
そう考えたセラは一度自室に戻る。シヴァに貸し与えられたこの部屋は私物がとにかく少ない。最低限の寝具や衣装入れ。そして教科書やシヴァの蔵書室から借りた本を収める本棚しかない、年頃の娘らしくない物欲が弱いセラらしい部屋。
そんな部屋の隅に置かれた本棚から一冊の本を取り出し、ページを開く。それはシヴァが何を思ったのか、恐らく克服して自分で作ろうとして買ってきた料理の本だった。
結局シヴァの破壊的な料理の腕前は本を見た程度でどうにかなるような類のものではなかったので、今は専らセラが読んでいる。独学ながらにまともに家事をこなし、食事を作れるだけの才覚があったセラは見る見るうちにレパートリーを増やしていった。
(……アクアパッツァにしよう)
トマトやニンニク、バターなどと一緒に白身魚と数種類の貝類と一緒に水で煮込む料理だ。本を見て初めて知ったのだが、簡素な料理な割には材料費が嵩むので、長年罵詈雑言や暴力のみならず、残飯やボロ布の服ばかりを与えられるような虐待を受けてきた結果、公爵家出身でありながら根っからの貧乏性となったセラは作ってこなかったのだが、こういう日くらいは奮発しようと思う。
「…………っ」
両拳を握り、フンスと息を吐くと、セラは制服の上着を脱ぎ、白いシャツの袖を捲ってエプロンを着用する。小さな体で踏み台を台所に運び、足元まで届く長い髪を後ろで一纏めにすると、せっせと料理を開始し始めた。
「………………尊い」
そしてそんなセラの様子をこっそりと覗き見るシヴァ。魔導書のみならず、娯楽本も多く読破している彼は知っている……ああいう姿を学生妻という、一種の男のロマンであるということを。
本曰く、見目麗しい女学生が自分の為に台所で料理を用意するその姿が尊いのだとか。最初見た時は訳も分からず、『何のこっちゃ』と思いもしたが、実際に学生をしている想い人が制服の上にエプロンを着用し、自分の為に手料理を振る舞おうとする姿は尊いと思わざるを得ないシヴァ。
…………ちなみにその本のタイトルは、『教師と教え子のイケない関係』である。有体に言えば官能小説である。同棲している想い人とはいえ、恋人ではないので無暗に手を出せず、シヴァも男の子なので仕方がない。一応、その手の本数十冊はセラには気づかれないように自室のベッドの下に隠している。
(関係がバレたら不味いなら、ちゃんとヒロインが卒業してから付き合い始めればいいのにって現実的な感想挟んでゴメンよ、作者の人。学生妻……これは確かに素晴らしいものだ! 学生だからこその魅力って、あるんですね!)
小さな体故にチョコマカと台所を駆け回る姿も、どこかいじらしくて良い。シヴァは17歳にして、小説の主人公(35歳の中年)の気持ちが理解できた。
「…………?」
そんなシヴァの悶々とした気に気付いたのか、ふとシヴァの方を振り返ってその存在に気付いたセラは、テーブルの上に置いていたホワイトボードを持ってトテトテとシヴァに近づく。
【あの……料理はまだ時間が掛かるので、蔵書室で本を読んでた方が……】
「あ、はい」
気付かれた以上、何時までも調理風景をじっと見ているのも気が散るだろう。シヴァは素直に蔵書室に行って料理の完成を待ち望むことにした。
=====
それからしばらくの時が経った頃。
「……っ」
よしっ……と、セラは両手を胸の前で組み、後は盛り付けるだけとなった料理が入った鍋がくべられた調理用魔道具を切り、シヴァを呼びに蔵書室へ向かう。
味付けに凝ってしまい、少々時間が掛かってしまった。待ちくたびれているであろうシヴァを想像し、小走りで廊下を駆けて蔵書室に入ると、本棚と本棚の間の通り道に、横向きに寝転がりながら寝息を立てているシヴァの姿を見つける。
(本を読みながら……寝ちゃったのでしょうか?)
横に開きっぱなしになった本がある。今日は神経を使ったと言っていたから精神的に疲れたのだろう。料理は温め直せばいいとして、このまま少しの間寝かせておこうと思ったが、硬い床の上で眠るのは良くないとセラは考えた。
正直な話、シヴァは氷塊の上で眠っていても問題はないのだが、それを知らないセラはどうしようかと慌てふためく。そして何となくだが……かつては《滅びの賢者》と恐れられていた男とは思えない無防備な寝顔を見ている内に、セラはその頭をそっと撫でていた。
(髪……相変わらず柔らかい)
ここ最近、落ち込むシヴァの頭を撫でてはさりげなくその感触を楽しんでいたのはセラの秘密だ。外見の印象よりも猫の毛のようにフワフワとした長めの茶髪を白く小さな手で絡める感触が、セラがこの屋敷に来てから好きになったものの1つである。
そしてこれも何となく……硬い床に擦れるシヴァの頭を見て、こうした方が良い……否、自分がこうしたいと思ったセラは、シヴァの頭をそっと上げると、床に座った自身の太腿の上に優しく乗せた。所謂、膝枕である。
「~~~~~~~~……!」
そこまでしておいて、セラは自分はかなり大胆な事をしてしまったのではないかと、真っ赤になった顔を両手で挟んで悶える。
自分自身でも体を制御出来ず、思うが儘に行動してしまった結果である。本当なら枕でも持ってくれば済んだ話なのに、これまでに過ごしてきたシヴァとの時間や、実父や義姉によって悪魔の贄にされそうになった時に助けてくれたことを思い出し、気が付けばこうしていたのだ。
(な、何で……?)
長年、悪魔や家族の呪縛に囚われていた、あらゆる意味で普通の少女として過ごせずに世間離れしていたセラは、自身の胸の内に湧き上がる感情や行動に名前を付けられず、ただ自分のした行動に顔を真っ赤に染めながら困惑する。
……そしてその一方。
(あばばばばばばばばばばばっ……! な、何が起きてるのこれ!? こ、こここここれはもしかしてなくても、伝説のリア充イベントの1つである、好きな娘の膝枕という奴なのでは……!?)
シヴァはバッチリ起きていた。頭を撫でられた時点で覚醒していたのだが、寝起きで意識が朦朧としている内に膝枕をされていたのだ。そして突然の展開に狼狽え、ただ寝たふりを続行する事しかできずにいるのが現状である。
(な、なんてこった……! めっちゃ良い匂いする! 細いのに柔らかい! 肌スベスベ! こ、この膝枕は正式に彼氏彼女になった暁にしてもらおうと、数多くの恋愛小説を読破して予行練習をしていた真っ最中だったというのに……これは……!)
最早シヴァの中では、《勇者》が振るった聖剣や《獣帝》が成し遂げた偉業以上の伝説と位置付けられたシチュエーションに狼狽える《滅びの賢者》。彼を倒すために必死になった4000年前の英雄たちが、今の彼のだらしのない様子を見れば咽び泣くことだろう。
(えっと……えっと……うぅ。そ、そろそろ起こした方が……でも、せっかく寝てるのに起こしたら可哀想ですし……もう少しこのまま……いてほしいような……)
幼い外見に反して湧き上がる母性に似た感情と、このまま膝枕していたいという正体不明の欲求に挟まれて動けずにいる、シヴァの起床に気付かないセラ。
互いに顔を真っ赤にしながら狼狽えることしかできずにただ膝枕状態を続けた2人。結局2人が夕食にありつけたのは、月が高い位置まで昇った時である。
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セラを縛る呪縛が解き放たれて久しい。シヴァもこれからは慌ただしい中でも平凡に暮らしていける……そう、思っていた。
「シルヴァーズの悪魔は倒されたのか……《滅びの賢者》に対する恐怖と概念によって生れたとはいえ、所詮はまともな戦いもしたことのない悪魔。今の魔術師程度に倒される程度だったという事か」
「シヴァ・ブラフマン……か。ただの学生ではないことは確かなようだけれど……マーリスもエルザも使えないわね。悪魔までお膳立ててやったのに、たった1人の魔術師……それも20年も生きていない若造に計画をご破算にされるなんて、やってられないわ」
「異界に閉じ込めることで外界からの干渉を妨げる効果を持つ、《冥府魔界》を展開していたのも裏目に出てしまったな」
「……そうね。曲がりなりにも只人では倒せない最強種を倒したシヴァ・ブラフマンは、私たちにとってイレギュラーになり得る存在よ」
「いずれにせよ、2度に渡って邪魔されるわけにはいかない。《鍵》になり得る神族や悪魔が見繕えていない以上、あの娘は一旦放置で構わないが……次の手立てに移る必要がある。準備は?」
「マーリスたちが失敗した時点から始めて、もう終わらせているわ。不確定要素はあると言っても、ただ炎属性の極限特化適性を持っているだけの魔術師、シヴァ・ブラフマンではどうしようもないとっておきの準備を、ね」
「調整は?」
「抜かりないわ」
「ならば良いだろう。……明日はこの都市の最後であり、今度こそ消えない炎が世界を呑み込み始める時だ」
「えぇ…………全ては、天魔に至る為に」
平和が終わるその時は、刻一刻と迫っていたのだ。




