滅びの賢者 中編
炎が人の形をとったような姿だと、セラは煌々と燃えるシヴァの後姿を眺めながらそんな印象を抱いた。
《破壊神》シルヴァーズの伝説とその恐ろしさはセラも知っている。破壊と悪意を撒き散らす邪悪を具現化したような存在であると聞いていたが故に、彼女はシルヴァーズを名乗る悪魔を何よりも恐れていたのだ。
「悪いな、セラ。本当は会った時にでも言えばよかったんだが……お前に嫌われたくなかったもんでな」
しかし、目の前で頭の後ろを掻きながら後ろめたそうにするシヴァは、伝え聞いた伝承はまるで違う、それこそ外見相応の少年にしか見えなかった。
……否、それは事実としてそうなのだろうと、セラは直感する。根拠がある訳ではない……しかし、これまでシヴァと共に暮らしてきた記憶が、彼女の本能にそう訴えかけてきているのだ。
「いきなり言われて、お前はきっと困惑していると思うが、俺が現代で語られているシルヴァーズであることに相違はない」
【ならどうして……4000年前の人が現代に……?】
「なんてことはない話だ。俺が言うのもなんだが、昔は何でもありな連中が多くてな。俺は《勇者》たちやクリアたちが開いた時空間の狭間に追いやられたのさ。時間の流れが滅茶苦茶な空間から脱してみれば、この時代だったって訳だ」
セラは《破壊神》復活の予言を思い返す。この儀式によって復活を遂げると思っていたシルヴァーズが伝説とは別物で、本物が遥か遠い過去からタイムスリップしてくるなど誰が想像できようか。
思わずマジマジとシヴァの顔を見つめると、彼も真っすぐセラを見つめ返してきた。
「模擬戦のあった日の夜に話したことがあったろ? あれは全部、《破壊神》だの《炎の悪魔》だの好き勝手に呼ばれていた俺の、誰も知らない裏話ってやつだ。シヴァ・ブラフマンなんて名前も正体知られたくなかったから適当につけた名前でな。俺の実態なんて多分、お前が見てきたとおりの奴だと思う。生きるためなら何でもやった、家事がまともに出来ない、一人でいるのが寂しいだけの奴だ」
その通りだ。恐らく最もシヴァという人物を間近で見てきたセラの眼にもそう映っていた。力だけは誰よりも強いのに、小さなことで喜んだり落ち込んだりする、欠点だらけの世間ずれした男の子。それも伝説に恐れられた古代人なら納得もいくと、セラは少し見当外れなことを考える。
「ふ、ふざけるなぁ! 私が召喚したのが本物のシルヴァーズではないだと!? ……いや、そこはどうでもいい……! いきなり本物の《破壊神》が出しゃばってきて、我らの悲願の邪魔をしようなど、そのような事を認められるはずがない!」
「化け物化け物だと思っていたけど、本当に化け物だったなんて……! 世界を滅ぼそうとしたアンタに生きる価値なんてないのよ! 極限まで高められたアブロジウス家の決戦魔法で死になさい!」
そんなセラとは真逆に、恐怖と怒りに引き攣るマーリスとエルザはシヴァを悪しように罵りながら膨大な魔力をかき集める。渦巻くのは水と風の嵐。
(違う……! シヴァさんは、そんな人じゃ……!)
過去の伝承と世界に刻まれた傷跡。それだけでも恐れるに値する理由にはなるというのは理解できる。だが、シヴァの本質に一切目を向けずに、聞き及んだ話とイメージだけで一方的に拒絶されるのを直に見て、セラは胸が締め付けられそうな感覚に陥る。
――――恐怖と敵意に満ちた視線と共に放たれる魔法に、きっと体ではなく心が傷ついているのだと、今なら知っているから……。
「「《颶風水禍迅》!!」」
うねりを上げる水と風の渦は以前見た時とは比べ物にならないほど巨大だった。近づくだけで大地は抉れ、粉塵レベルまで砕かれる激流を前にしても、シヴァは無抵抗。
今の彼は近づく全てを焼き尽くす戦闘態勢だ。以前はクシャミ一つで同じ魔法を消し飛ばしていたが、こうなっては最早クシャミをするまでもない。一定まで近づいた水の大嵐は熱波に押し返されて、一瞬で掻き消される。
『《紅蓮溶滅斧》!!』
自分たちの最大の魔法があっけなく焼失するのを見て呆然とするマーリスとエルザを後目に、シルヴァーズがシヴァに向かって赤く燃える巨大な斧を振り下ろす。
まるで地中の溶岩を山すら両断する巨大な斧の形に押し込めたような一撃。現代の魔術師なら100人がかりでも凌げないであろう悪魔の魔法を、シヴァは片腕で受け止めた。
『我の極大魔法だぞ……!? それを片腕で……!』
「俺が伊達や酔狂、服の代用として炎の服を身につけてると本気で思ってるのか?」
この灼熱地獄にあって、シヴァと同じく炎の衣を羽織るセラが無事であることから察せられるように、シヴァが身に纏う炎はただの炎ではない。シヴァが使えるありとあらゆる防御魔法……それも触れたものを害する攻撃的な守りを全て圧縮した魔法でもあるのだ。
溶岩の大斧は瞬く間に火に呑み込まれ、シルヴァーズの腕を焼き尽くして全身を這う。
『ぐがぁああああああああああっ!?』
「どうした? お前も炎を司る悪魔なら、このくらい防いでみろよ」
防ぐと同時に反撃。そして追撃。シヴァの手のひらに尋常ではない熱量が圧縮され、解き放たれた。
「《業火波焼》」
視界を覆いつくすほどの炎が紅蓮の大津波となってシルヴァーズとマーリス、エルザを呑み込む。抵抗も空しく遠くまで押し流されたシルヴァーズたちを見送ると、シヴァは再びセラと向き合った。
「……でもまぁ、あいつらの反応も当たり前なんだよな。俺も怖がられて当たり前のことをしてきた。この時代に来ても加減がまるで分からなくてなぁ……中々思うようにもいかん。多分、上手く人間関係作るのは向いて無いんだろうなぁ、俺」
シヴァは照れ臭そうに笑う。しかし、それは自嘲と寂しさがありありと浮かぶ、切ない笑みだった。
「でもセラとだけは一緒に暮らせるくらいに仲良くなって、俺も自分なりに真っすぐお前と向き合ってきたつもりだ。だからここまで来て、俺の正体を明かしたんだよ。お前に怖がられても嫌われてもいいから、お前を欺き続けるのは止めようって」
シヴァは落ち着きなく何度もそっぽを向き、言い難そうにしながら問いかける。それはまるで不安に震える小さな少年のような姿だ。
「で……だ。その……セラはどうだった? 俺が《破壊神》って呼ばれてたって分かって、怖かったか?」
「……っ!!」
セラは何度も首を横に振った。確かに物騒なところも多々あるが、シヴァ自身を恐ろしいと考えたことは最初の一回だけで、後は第一印象を良い意味で裏切られ続けている。
どんなに恐れられ、どれだけ差し伸べた手を払われても、シヴァは何時だって誰かと繋がろうとしてきた。他人にはとてもそうは見えなかっただろうが、セラの眼にはそう見えていたのだ。 だからセラにとってシヴァ・ブラフマンは恐れるに足らない。恐らくこの都市で誰よりも弱い少女は、誰よりも強い男をとっくに認めていた。
「そっか……。……なんだろう。……なんか、スゲェ嬉しいな」
シヴァは安心したようにしゃがみ込み、深い息を吐く。視線の高さを合わせて見る彼の笑みは、張り詰めた気が抜けたような、一切の不安が取り除かれたような、そんな心底安堵した笑みだった。
呪いを掛けられてからというもの、シヴァは自身の全てを丸ごと受け入れられた経験がない。それがどれだけシヴァの心を満たすのか……それを真に共感できる者はいないだろう。
「じゃあさ、セラはこれからどうしたい?」
シヴァの問いにセラは何も答えられなかった。なぜなら今日という日に生贄にされることはずっと昔から決まっていたことで、これからの事など考えたこともないのだ。
「将来の事とか、少し先の話とか、そういうことを聞いてるんじゃないぞ? 今この状況下で、お前はどうしたいのかって聞いてるんだ」
【……悪魔の生贄に……。ただそうあるようにと望まれ続けて……。私は、その為だけに生かされ続けてきて……】
それ以外は、ただストレス発散の道具という、究極的には居なくても問題ない存在としてしか求められていなかった。むしろ死ねば楽になれるのだとすら思っていたのだ。
【贄にされること以外に、私が生きている理由が分からないんです。私なんかが生きていても誰の得にもならないなら……】
しかし、そういった思想も全て目の前の男に揺るがされている。内心を表す魔道具は震える文字をセラの迷いごと浮かべていた。
『舐めるな……! 如何に貴様が我の原型とは言え、悪魔たる我を殺せると――――』
「……話し中だからしばらく黙ってろって言ってんだろ!」
空気も読まずに話の邪魔をしてきたのは、全身を燃やされながら怒りに支配されたシルヴァーズ。炎の大津波に押し流されたところを背中の翼を羽ばたかせて戻ってきたらしい。シヴァは立ち上がって振り返り、両手足から炎を噴出しながら悪魔を蹴り上げ、そのまま空中戦を繰り広げる。
「望まれたからってやらなきゃいけない理由なんてどこにもないぞ!!」
天空で繰り広げる激闘が生み出す爆音と轟音。それらを突き破るのは、迷いを切り裂くような《滅びの賢者》の咆哮。
「お前が生きてても誰も得しないって!? そんなわけあるか! 俺がここで戦ってる! その理由が分からないか!?」
『貴様……! 我と戦っている最中に他の事に気を回す余裕が――――』
「お前とこれからも生きていたいからに決まってるだろうが!!」
シヴァの炎拳が巨大な悪魔の顔面を殴り飛ばす。セラの絶望を象徴した悪魔を吹き飛ばすその姿は、闇を払う焔の光に似ていた。
「いや、俺の願いはどうでもいい。お前自身はどうありたいんだ!?」
【……私は、生贄にされる以外に生きてる意味が分からなくて……】
「意味も理由も無くなって生きていける! 俺だって世界中から死ねって望まれてたけど、そんなの全部無視して生き抗ってやった!! 死にたくなかったから……生きていたいって、俺自身が望んだからなぁ!!」
シヴァの前面に2メートルに迫るほどの大きさの魔法陣が浮かび上がる。魔法陣を隠さずに明かすということは、これから発動する魔法を先んじて教えるということ。そう言っていたシヴァが魔法陣を隠さない。
それはつまり、シヴァでも隠せないほど膨大かつ緻密な術式。魔法陣を見られても防がれない自信を持つ、渾身の一手であるという証である。
「《百萬拳裂炎上烈破》」
シヴァが魔法陣を殴った瞬間、大地を割る拳打と同等の質量と威力をもった100万もの炎の拳が連射される。更に魔法陣を瞬時に99連打……累計にして1億もの炎拳がシルヴァーズに浴びせられた。
空を覆いつくす、天上に向かって降り注ぐ炎拳の雨。その全てが自在に軌道を変え、自在に停滞し、自在のタイミングでシルヴァーズに直撃する。ああなってしまえば全ての炎拳を受けない限り脱せられない。大きく時間を稼いだシヴァはセラの元に降り立ち、彼女の小さく細い両肩を掴んだ。
「それでも生きてる理由が欲しいってんなら自分の気持ちに聞いてみろ。生きる理由なんて自分の気持ち1つで十分だ。……もう一度聞く。お前を生贄に欲しがる悪魔はあの様だ。学長にもエルザにも好き勝手はさせない。その上で、堅苦しい理屈抜きでお前自身はどうしたいんだ?」
望んではいけないことだと思っていた。誰かの思惑に囚われることなく、ただ自由に生きることなど、純血思想や悪魔に囚われない人生を享受してきた者の特権のようなものだと、そう思っていた。望んで期待を裏切られれば余計に悲しくなるだけだと。
だが今、目の前には全てのしがらみを滅ぼす者が居る。いかなる邪悪も破壊し、心の枷を引き千切れる者が、他の誰でもない自分の為に戦ってくれている。
【……私は……!】
望んでもいいのだろうか? 口から出ることのない問いかけに、シヴァは真っすぐな視線で頷き返す。
【私は……悪魔の生贄になんかなりたくない……! まだ生きて何も成せていない……! まだ、何も出来ていない……! 死ぬのは……死ぬのは怖いよぉ……!!】
それはセラが小さな体の奥底に押し込め続けた悲鳴だった。10代の少女らしい、10代の少女として当たり前の感情。長い前髪に隠された宝石のような瞳からボロボロと零れ落ちる大粒の涙は、燃える空の光に反射して輝きながら地面に弾けた。
「良かった……それが聞きたかったんだ」
シヴァは力強く立ち上がり、黒煙を上げながら地面に墜落してきたシルヴァーズを見据える。
「生きることを望んでいるなら、それを望み続けろ。……奇跡なんて信じなくてもいい。ただ俺を信じてくれないか? そうすれば、俺がお前を望んだ場所まで連れて行ってやる」




