滅びの賢者 前編
もう戻るつもりもなく、返すつもりで置いてきたホワイトボードを両手に持ち、地面にへたり込んだセラは、敵に背を向けてこちらを見下ろすシヴァを見上げる。その目はどこか、信じられない物を見るかのようでもあった。
【……聞きたいことと……言いたいこと?】
「あぁ、そうだ。本当は一緒に暮らし始めたその時に、いの一番に伝えなきゃいなかったんだけど、事が事だけに言うのが躊躇われてな。……実は俺は――――」
シヴァは気恥ずかしいというか、気まずそうというか、そういう顔で頭の後ろを掻く。そんな彼の後ろに迫るのは水と風を操るマーリスとエルザ。
「隙を見せがばぁっ!?」
「よくもやっぶべがっ!?」
「……ちょっと黙っててくんない? 俺はセラと大事な話の最中なんだよ」
超速で間合いを詰めてきた二人をシヴァは手首の力だけで放ったような軽い裏拳、その衝撃波によって文字通り木端微塵に粉砕する。一体先ほどまでの接戦はなんだったのか……その疑問の答えは、ずっと後ろで眺めていたシルヴァーズが示した。
『手加減をしていたようだな……我が力の一端を与えただけとはいえ、悪魔の魔力を与えられた者を、只の人の子がこうも圧倒するとは』
「だから話が終わるまで黙ってろよ……って、言っても聞かなさそうだな」
俯瞰していた悪魔は再び立ち上がり、全身から業火の無数の火の粉をばらまく。火の粉一つで只人ならば焼き尽くされそうなほどの、地獄にも勝る熱波を放つシルヴァーズに対して、シヴァはまるで関心が薄そうだ。
「正直、お前がどんな目的で生贄なんか欲しがったのかは知らないし、さして興味もない。仮にもセラの家族だから少し話がしてみたかっただけで、攻撃は適当に流しておいた」
『……我の力を得た者を塵芥の如く扱うとはな。……しかし、所詮は魔力を得ただけの人の子よ。我ら悪魔と比べるまでもない。それは貴様にも言えることだ』
シルヴァーズは手を……もっと言えば、杭のような爪が生える五指を振り上げ、振り下ろす。ただそれだけの単純な動作は天地に巨大な爪痕を残し、世界を裂いた。
正真正銘、神に匹敵する力。ただ身動ぎするだけで星々を揺らすという伝承を与えられて生まれた超越者による一撃は……シヴァが大きな小指を鷲掴みにすることによって止められていた。
『……何だと?』
「てい」
最初の余興とは違う、殺すつもりの一撃。それを簡単に受け止められてほんの一瞬呆気を取られた隙に、シヴァは片腕でシルヴァーズの巨体を持ち上げて地面に叩きつけた。
音速の壁すら突き破る振り下ろし。地面は割れて大量の砂埃と共に溶岩が飛散し、シルヴァーズの腕は千切れて胴体は宙高く跳ね上がる。
「《紅蓮弾》」
そして追撃。ライルが使った同じ魔法とは思えない、まるで太陽を彷彿とさせる巨大な火炎球が上空に向かって発射され、シルヴァーズに着弾した瞬間に大爆発を引き起こす。
「ば、馬鹿な!? 悪魔が……伝説の《破壊神》がぎゃ!?」
「あ、あり得ない! こんな力がぺ!?」
悪魔が人類に良い様に攻撃されるなど信じられない。全身をようやく修復し終え、驚愕を露にした途端に、マーリスとエルザは天地を蹂躙する熱波に跡形もなく焼失する。
炎の結界よりも貧弱そうに見える、炎の衣に守られているセラだけは無事であった。しかしある意味でマーリスとエルザも無事と言えるだろう。全身を焼き尽くされても尚、虚空から肉体を構成し、復活しようとしている。
『……人の子にしてはやるようだな。よもや戦火より生まれ落ちた我を、炎の魔法で傷付けるとは』
そしてそれは、シルヴァーズも同じことだ。焼けて焦げた赤黒い肉は瞬時に皮膚に覆われ、千切れた腕も元通りになっている。
悪魔と神族は不死身の存在だ。……より正確に言えば、彼らは人類の領域の遥か高みに位置する超越者という概念によって、人類とそれ以下の存在による攻撃に対して相克を得ている。
傷を負うことはあっても、人類の攻撃では倒せないという概念によって守られている彼らを倒せるのは、ドラゴンを含めた最強種のみ。そして4つの種族の混じり物だが、神の血も悪魔の血も引いているわけではないシヴァは、理論上悪魔を倒すことは出来ないのだ。
マーリスとエルザがシヴァの攻撃を受けてもなお、幾度も復活しているのも同じ理屈である。悪魔の眷属もまた人類の及ばない存在という概念に守られているのだ。
「しぶとさだけが売りなことはあるな。少なくとも3000年以上も長生きしてるなら、もう100年くらい大人しくしてればいいのに。そしたら俺もセラも寿命でポックリ逝ってるかもな」
『ほざくな、矮小なる存在よ。我に歯向かった愚かさを悔やみながら《消えるがいい》』
シルヴァーズがそう告げた瞬間、シヴァの体がどんどん透明になっていき、その存在を希薄なものとしていく。
悪魔や神族が最強と呼ばれる所以。それは権能魔法と呼ばれる、自身が望んだ結果を過程を無視して現実のものとする、彼ら特有の魔法にある。
例えば料理を望めば素材や調理過程を無視して料理を生み出し、相手の死を望めばその瞬間に相手は死ぬ。人の力では抗うことすらバカバカしくなる、超越者にのみ許された、まさしく権能の名に相応しい魔法。
『……馬鹿な』
「どうした? 俺を消すんじゃなかったのか?」
だが、そんな絶大な力を受けても尚、シヴァの薄くなっていた体はすぐさま元に戻り、五体満足で唖然としているシルヴァーズを見上げている。
『なぜ我が権能が通じない?』
「生き物には慣れっていうのがあるんだよ。お前らの権能魔法なんて、食らい過ぎて通じなくなるくらい耐性が出来たわ」
『世迷言を……ならば《捻子切れて死ぬがいい》』
再び権能魔法が発動される。今度はシヴァの全身が捻じれて死ぬように命ずるが、シヴァの体はおろか、身に纏う衣服すら微動だにしない。
『《精子まで時を逆巻き朽ちるがいい》』
次にシヴァが歩んできた時間を逆巻き、体外では生命維持不可能な存在に戻すことで殺そうとするが、これも通じない。
『ぐっ……! 《空間の狭間に呑まれて死ぬがいい》っ』
ここに来て初めてシルヴァーズの声に焦りが生まれる。今度はシヴァの周辺の空間が歪曲し、空間の理が無茶苦茶な異空間に送って殺害しようとするが、やはり空間ばかりが歪むだけで、シヴァには何の影響も現れない。
「何度も同じことを繰り返す奴があるかよ」
そして悠長に権能魔法で殺しにかかる悪魔は隙を見せすぎた。流星のような速度で繰り出された跳び蹴りがシルヴァーズの上半身を木端微塵に砕く。
しかし即座に再生。甚だ業腹だし、理屈が不明だが、シヴァに対して権能が通じないと理解したシルヴァーズは、セラに視線を向けた。
元より高魔力保持者の肉体を手にするのが目的であったし、どうやらあの娘の存在はシヴァにとって特別である様子。その事を見抜いたシルヴァーズはあの肉体を手に入れると同時に盾代わりにしようと、実に悪魔らしいことを企てる。
「《絶えるがいい》」
そして権能魔法を発動。セラの肉体から魂を抜き取り、主導権を取って替わろうとするが、物理的な力を介さないはずの権能魔法は、セラが纏う炎の衣に弾かれてしまった。
『ありえぬ。何故我が権能が炎に……』
「あり得ないも何もないだろ。耐性が出来たなら魔法として確立し、補強した。ただそれだけだ」
権能魔法に対する防御魔法。それがあの炎の衣であると知って、シルヴァーズは内心で舌打ちした。どうやらシヴァを討たない限り、生贄を得ることは出来ないようだ。
「この炎を見てもまだ分からないっていうんなら……お前は《炎の悪魔》を名乗るには不足だな。出直してきたらどうだ?」
『何……?』
「いずれにせよ、権能魔法は俺には通じない。……それとも、物理で殴り合いをするのが怖いのか? ん? 真っ先にセラを狙ったっていうのは、そういう事だろ?」
あまりにも見え透いた挑発。それが超越者の自尊心を刺激した。
『あくまで死に急ぐか、人の子よ。確かに貴様は権能をが通じぬ稀人ではあるようだが……《破壊神》たる我との直接戦闘が何を意味するのか「御託はいいからさっさと掛かってこい。こっちは晩飯まだなんだよ」』
台詞を被せられてシルヴァーズは今度こそ怒る。そして両手に収束された膨大な熱量が光線となって、シヴァに放たれた瞬間、世界は紅蓮に染め上げられた。
それは人類では決して到達できない領域。世界をも呑み込み、全てを焼き尽くす破壊の焔である。地の果てまで焼き尽くす極大の熱線に呑み込まれたシヴァを確認し、シルヴァーズはほくそ笑む。
『これが報いぞ。たかが人の子ごときが悪魔に歯向かった代償は、魂魄を焼き尽くされることで贖うがいい』
マーリスやエルザとは比べ物にならない一撃。普通に考えれば、シヴァが生きているはずもない。勝利を確信した悪魔はセラに視線を移そうとして――――。
「温い炎だなぁ」
天を焦がさんと燃え盛る残り火から飛び出したシヴァのダッシュストレートで吹き飛ばされた。
シルヴァーズは現状を理解できなかった。今放ったのは正真正銘、本気の一撃。だというのに、なぜそれを受けたシヴァは無傷で、自分はこうして地面を転がっているのか。
『っ……! 燃え尽きよっ』
上手く避けたのか……そう判断したシルヴァーズは、広範囲に向けて炎を放つ。威力が拡散してもなお、全てを焼き尽くしながら地上全域に広がる焔だが、シヴァは即座に対応。炎が広がる前に膨大な炎をぶつけた。
『愚かな……我と炎をぶつけあって勝てると思い込むその傲慢、一瞬で焼き尽くして――――』
しかし、一瞬で焼き尽くされたのはシルヴァーズであった。世界を呑み込み広がる炎は押し返され、炎を代名詞とする悪魔の肉体は瞬く間に塵と化したものの、そこは悪魔。人類に倒されないという概念によってすぐさま復活を遂げる。
『馬鹿な……我以上の炎を操るとでもいうのか……? 我は人類を滅ぼさんと世界を焼き尽くした《破壊神》であるぞ……。シヴァ・ブラフマン……貴様は何者だっ』
「この都市の学生だけど」
肉弾と肉弾。炎と炎でぶつかり合う悪魔と学生。その度に天地は悲鳴を上げるほどの激戦に見えるが、その実、圧倒しているのはシヴァであり、一方的に嬲られているのはシルヴァーズであった。
『ぐあぁあっ!?』
回し蹴りで胴体を真っ二つに千切られ、下半身と泣き別れしたシルヴァーズは地面に墜落し、初めて悲鳴らしい悲鳴を上げる。最強種たる悪魔を名乗るにはあまりに無様な姿を見下しながら、シヴァは首の骨を鳴らした。
「4000年も経って悪魔まで弱くなったのか? 昔はもっと手応えがあったはずなんだがな」
『4000年……? 何を世迷言を……それに、我が弱いなどと……』
「実際に弱いだろ。力自体はあるのに、こうも扱い方がなってない。悪魔と似たような戦い方が出来る神族……クリアやイドゥラーダなら、もっと上手く立ち回っていた」
『クリア……? イドゥラーダ……? 何を……さっきから何を言っている?』
なぜそこで最強クラスの神の名が出てくるのかまるで理解できない……否、正確には、理解しようとする頭が、本能による恐怖を否定する超越者のプライドに妨げられて、理解するのを拒む。
なぜなら、理解してしまえば自分という悪魔のアイデンティティーが崩壊しかねないからだ。……シヴァの口振りは、まるで4000年前にクリアやイドゥラーダと実際に戦ったようではないか。
「ま、所詮伝承から生まれただけの存在か。俺たちの後から生まれ、碌に戦いをしてこなかったと考えてみれば……まぁ、《破壊神》二世としてはこんなもんだろうなぁ」
『貴様……!』
「お前は俺から借りた伝説をさも自分の物だと思い込んでいるだけで、実際は今まで大層なことはしてこなかった道化……ピエロ君だよ。シルヴァーズ」
『貴様は先ほどから何を言っているっ。正体を現せぇ!』
シルヴァーズの口腔から放たれる極大の炎が天地を焼き尽くし、シヴァを呑み込む。
「正体を現せ? 別にいいぞ。もうこの場で隠しておく意味もなくなったんでな」
業火の中から無傷で現れたシヴァだったが、1つだけ今までとは違う点がある。この灼熱地獄の中で燃えずにいた彼の衣服が、炎に包まれて崩れ落ちたのだ。
それはシルヴァーズが放った炎によって……ではない。自分自身の放つ灼熱から、自分の衣服を守り切れなかった証である。
「セラもよく見ておけ……これが、俺が伝えなきゃいけなかったことの全てだ」
消し炭と化した衣服に変わり、遥か遠く離れた位置からでも肌を焼くであろう熱波を放つ灼熱は衣を模る。髪は猛る炎と化し、全身には紅蓮の紋様が走り、裸足が荒れて焼け焦げた荒野を踏みしめる度に、大地は融解し溶岩と化した。
その姿。その炎、その猛威。全身から吹き荒れる、灼熱の魔力に苛まれながら、真っ先のシヴァの変化の正体に気が付いたのは、儀式契約の為に《破壊神》の伝承を調べていたマーリスであった。
「ば、馬鹿な!? あれは《破壊神》の炎の衣!? なぜ彼がシルヴァーズの代名詞であるアレを身に纏っているのだ!?」
困惑する親娘に異を介さず、シルヴァーズは苦々しく歯噛みする。
『そうか……そういう事なのかっ。我の炎を上回るのも、権能魔法が通じぬのも全て……全て貴様が我がオリジナルであるからか! 数多の神と英雄を焼き殺し、世界を滅ぼさんとした大賢者……原初の《破壊神》シルヴァーズよ!!』
シヴァの威圧の震脚が大地を踏み割る。一瞬の内に粘度の低い溶岩の海を生み出し、焼けるような真紅の双眸で愛する女を奪わんとする悪魔を見据えて吠えた。
「行くぞ木端悪魔。死ぬほど嫌いな異名だが……《滅びの賢者》の本領を見せてやらぁ!!」




