悪魔降臨
最近になって、ふと思ったことがある。
「俺とセラの関係って、もしかしてまだ同居人以上でも以下でもないのでは……?」
有体に言ってしまえば、こんな悩みだ。しかしくだらないと馬鹿にすることなかれ、シヴァ本人にとっては深刻な問題なのである。
「どうしよう……ここから進展したいと考えてたのに、こっからどうやって踏み込めばいいのかまるで分らない」
下手に同じ時を、同じ場所で過ごし過ぎた。なんかもう関係が固まったような気がして、踏み込もうにも踏み込めないのだ。
「よし。本屋に行こう」
というわけで、シヴァは真っ先に本屋に直行した。
4000年前は悩みを打ち明ける相手もいなかったシヴァは、昔から悩み事があれば文献の類を当てにしながら生きてきた。
書かれていることの真偽はともかくとして、自分1人では答えが出ないことを解決する糸口になってくれる。
「このくらいでいいか……すみません、これください」
「は、はい! 全部で12万5980ゴルです!!」
「じゃあ、はい。12万……80ゴルっと」
「ありがとうございます! またお越しくださいませぇー!」
館から普通の人間なら歩いて十数分。その距離を2秒で走破したシヴァは本屋でそれらしいタイトルの本を片っ端から購入。思わぬ収入を得てしまった店員は深々と頭を下げて、数十冊もの本を片手で持ち上げて店のドアをくぐるシヴァを見送った。
学校でこそ恐れられているシヴァは、大物盗賊団から奪った資金のおかげでちょっとした金持ちだ。財布の紐が緩い彼は、街の商売人たちからすれば上客で、学校とは正反対の対応をされることもある。
「……さて、と」
家で読むことは出来ない。幾らなんでも、これから距離を縮めようとしている相手がいる場所で参考書物に目を通せるほど、シヴァの神経は図太くはないのだ。
しかし、関係のない人間ばかりの場所でならその限りではない。広場のベンチの内の1つを完全に占拠しながらバラバラとページを素早くめくっていく。
音速すら止まって見える動体視力を誇るシヴァだからこそできる読書方法だ。周囲の通行人は積み重ねられた書物の隣に座るシヴァに奇異の眼を向けながら何事も無かったかのように通り過ぎ、時折見かける学校の生徒は怯えたように逃げだす。
「……いつか必ず、悪評を払拭してやる」
ちょっと涙目になりながら、シヴァは改めて決意する。このままでは本当に4000年前の焼き増しになりかねない。
せめてセラとだけでも他人からステップアップした関係にならなければ……そう考えながら再び本の世界に没頭する。
「流石にこれだけ買っても……ピンポイントで俺の悩みを解決する本は中々見当たらないな」
一番近くて遠いのは、『友達以上恋人未満からの脱却』という本か……だが今のセラとシヴァは友達と呼べるかどうかも少し疑わしい。
それでも諦めずに途中で投げ出すことなくページをめくっていき、読破された本が過半数に達した時、気になる一文を見つけた。
「……人間関係に行き詰った時は直球勝負が一番。自分がどうしたいか、相手とどうなりたいかを包み隠さず伝えれば道は開けるでしょう……か」
これはリスキーな手段だ。確かに今のシヴァにはこれ以外の手段はなさそうだが、下手をすれば人間関係が余計にこじれそうだ。その証拠に、本にも「ま、下手をすれば余計にぎくしゃくしますけどね(笑)」と書かれている。
((笑)ってなんだ、(笑)って……)
しかし、現状これしかない。少なくとも、嘘偽りなくセラと向かい合う必要があるということだ。
自分が彼女とどうなりたいのか、それを言葉にしなければ友人関係も恋人関係も始まらない。
……そして、その為に自分が彼女に何を告げなくてはならないのかも、理解できた。
本来なら墓まで持って行きたい隠し事だが、全てを隠したまま共に居続ければ、いずれ関係は破綻してしまう。それが早くなるのか、乗り越えられるのか、それだけの話だ。
(よし、行くか)
道は見えた。いずれは通らなければならなかった道。後は進むだけ進んで、その後どうするかは後で考える。
そういう結論に至ったシヴァは大量の本を紐で結んで担ぎ、道中でどう話を切り出すかを考えながら屋敷へと向かった。
「ただいまー」
広場から2秒で到着する。
館では今頃セラが掃除でもしているだろう……手伝えることを手伝って早く終わらせてから話し合おうと、意気揚々と扉を開けるが、普段なら出向かてくれるセラの姿がどこにもない。
「……出かけてるのか? すぐに帰ってくるかな?」
気合が空回った気分だが、居ない物は仕方ないのでソファーに寝転がって待つことにし、そのまま眠りにつく。
……しかし、彼が目覚めた夜半になっても、セラは屋敷に戻っていなかった。
真円の月が浮かぶ夜。アブロジウス公爵邸では、領主と、領主が認めた者しか立ち入ることの許されない、魔法陣を模した中庭の中心にセラはいた。
一昔前の生贄が着ていた袖のない薄い生地の服に身を包み、鎖で繋がれた小さな体をマーリスやエルザが嘲りと達成感に満ちた表情で眺める。
「素晴らしいわ、お父様! まさかこの屋敷に、こんな秘法が隠されていただなんて! この儀式魔法が成功すれば、私にもその力の一端を与えてくれるのでしょう!?」
「勿論さ、私の可愛いエルザ。この力を手にすれば……」
「あの憎きシヴァ・ブラフマンを甚振り殺せるわ……! 流石お父様、すぐに退学にしてしまえば、どこに行ったかもわからないシヴァをいちいち探さなくてはならないところでした!」
その言葉を聞いても、セラに反応はなかった。……より正確に言えば、周囲の音はセラの耳に一切入っていなかったというのが正しい。
表情は感情が抜け落ちたかのように虚ろで、目に光は宿っておらず、まるで精巧な人形か死体を思わせる様子だ。反応があるとすれば、僅かに動く視線のみ。
ただ、眠ることも出来ず視線を動かせる程度の意識だけが彼女に残されていた。
「一時は逃げたかと思いましたが、あらかじめ施しておいた魔法が役に立ちましたね」
「今日、この満月の日、この場所へ現れるように行動し続ける、魔力の痕跡を残らない暗示魔法。これには流石にシヴァ・ブラフマンも気付かなかったようだ。これで心置きなく儀式を執り行えるというものだ。……我がアブロジウス家がこの国の……やがては世界の頂点に立つための儀式を!」
両手を広げ、どこまでも優越感と光悦に満ちた表情のマーリスは、もはや何かに憑りつかれたかのよう。
魔法に関する知識が殆どないセラは、いったい彼らが何をしようとしているのかを理解していない。ただ分かるのは、自分が魔法の為の贄であるということだけ。
「分かっているな? 今日、この日の為だけにお前を生かし続けておいてやったのだ。今こそその役割を果たせ」
「…………」
もちろん、この言葉もセラには聞こえない。しかし、なんとなくそう言ったのだろうということは理解できる。セラは母が死んだ時からずっと言い聞かされてきたことだ。
セラの日々の全てが変わってしまったその日に暗示魔法を受け、この儀式の存在を知った。それを口外できないよう暗示によって魂に強制力を刻み込まれて。
だからセラはこんな日が来ることを理解していたのだ。知っていたからこそ、彼女はシヴァが留守にするギリギリのタイミングを見計らって、あの安寧の場所からこの恐怖に満ちたこの場所へと戻ってきた。
(…………この魔法を止めてはいけない)
それはセラが望んだことでは無い……しかし、邪魔をすれば、如何にシヴァとて命はないということを知っている。専門的な細かい知識としてではなく、幼少期からこの儀式魔法と繋がっていた身であるからこその理解によるものだ。
なぜならば儀式とは契約と同義。まして相手が強大であればあるほど、それを妨害した者への危険は増す。
学に疎いセラでも、この儀式魔法による契約相手の事は知っている。それはこの世界の誰もが恐れる、最悪の具現なのだ。
(きっと、助けてほしいといえば助けてくれた。……でも)
だからセラは、今回の件についてシヴァに何も求めなかったし、何も話さなかった。シヴァが死ぬと分かりきった死地に、どうして彼を送り込むような真似ができるだろうか?
自分がどれだけ勝手な決断を下したのかは理解している。大恩あるシヴァに、何も告げずに死んで贄となりに来たのだ。彼からすれば置き去りにされた気分だろう。
それでも……それでもシヴァに死んでほしくないと願うのは、そんなにいけないことなのだろうか?
「妙な期待はしないことね。この中庭には、隠遁の魔法が幾重にも張り巡らせている。誰もあんたを助けになんか来ないわよ」
そんなことは期待していない。むしろ安心したくらいだ。……これで、シヴァは巻き込まれずに済むだろうか。
義姉や実父の考えにまで理解が及んでいないが、それも何となく想像できる。だがシヴァならば……自分という守るべきものを失ったシヴァならば、逃げられるはずだ。
「さぁ、それでは儀式魔法《悪神降臨》を開始しよう」
草木と石造りの通路で描かれた魔法陣が強い光を放つ。隠遁の魔法と屋敷の影に覆われて外には漏れ出すこともなく、ただ中庭内部では人の身では到底発することの出来ない甚大な魔力が渦を巻いていた。
上空に幾重にも展開される魔法陣。それらがすべて一体となり、魔力で構成された円形の門が出現する。
重々しい音を立てて左右に開かれるのは地獄の扉……その先には、竜の如き角と翼を生やし、炎の衣に身を包んだ巨影が浮かび上がっていた。