プロローグ5
黒い。見上げると漆黒の空が地平線の彼方まで続いていた。その空には雲も月も星も無い。…光が無かった。
けれど、その暗闇に向け光を放つ存在が足下に敷き詰められていることに気が付く。
それは純白に輝く真っ白な花だ。見たこともない花弁を持つ儚げなその花たちは、弱々しい姿とは思えない程の強い光を黒い空に放ち続けていた。
ここは何処の世界だろうか?
さっきまでいたエンパシーだろうか?
…違う…俺はエンパシーという世界を知っていた。シルの話を聞き、忘れていた記憶を思い出したのだ。だが、俺の知るエンパシーにはこのような場所はなかった筈だ。
なら、俺が住んでいた神創世界だろうか?
…違う…あの世界にはここまで神秘的な場所は存在しない。
では、神獣が住むという神現世界だろうか?
…違う…シルの話では神現世界には琴亜のような神獣という人ではない存在がいると言っていた。だが、この場所には生き物の気配を感じない。
消去法により最後に残ったのは俺が迷い込んだ幻想世界だ。
…違う…あの世界の禍々しい光景は今も俺の脳裏に焼き付いている。この場所とは決定的に異なる敵意にも似た空気が幻想世界にはあった。
では、ここは何処なのだろう?
暖かな空気を乗せた優しい風が吹いている。何となくだが理解る。この世界は俺を受け入れてくれている。敵ではないと伝えてくれている。
その時、そっと風が頬を撫でた。
『空…』
『えっ…』
風のそよいだ方向から聞こえた少女の声に反射的に振り向く。その声を俺は聞き間違える筈などない。もう二度と聞けないと思っていた声だ。大切な…とても大切な少女の声を…。
『無月…』
そう呼んだ。
『うん。空。やっと会えたね。』
俺が琴亜の視界を通して最後に見た無月の姿は、貫かれた胸から真っ赤な血を流し髪を乱して力なく倒れていた。涙を流しながら。
その無月が今、俺の目の前にいる。足下に敷き詰められた純白の花たちと同じ色のドレスで着飾った綺麗な姿で。胸元には傷一つ無く、笑顔を俺に向けていた。
『ああ…やっと会えた。』
無意識に俺は無月を強く抱き締めていた。突然のことに一瞬目を大きく見開き驚いた表情をした無月も俺を優しく抱き締めてくれた。
『何だか凄く長い間離れていた気がするね。学園で別れてたらまだ半日も経っていないのに。』
『ああ、俺の人生で最も長い放課後だったかもな。』
『ふふ。そうだね。私も…とても長く感じたよ。』
ゆっくりと名残惜しそうな表情で離れる無月。
『ふふ…なんか照れるね。』
はにかむ無月を優しく見つめる。
ああ、夢じゃない、やっぱり無月だ。俺の大切な人だ。
『俺は、もう会えないんじゃないかって心のどこかで思っていたんだ。でもこうして目の前に無月がいる。』
『そうだね。空に、私も会いたかった。』
しばらく互いに見つめ合う。
『空。私はね。』
『?』
突然無月の表情は優しい微笑みから真剣なモノへと変わり言葉に重さが加わる。
『死んだの。空と同じように琴亜さんに殺されたの。』
『…っ!?』
その言葉はどんな刃物よりも鋭く俺の心を突き刺した。
目の前に現れた無月の姿を見て、もしかしたら死んでいなかったのかもしれない。無月は生きていたのかもしれない。とそんな淡い想いを思っていたのだ。
だが、無月の言葉はその考えを切り裂き俺に現実を突きつけた。
『…っ!無月、俺は…』
謝らなければならない。俺が琴亜に殺されてしまったことで無月は殺されてしまった。俺のせいで無月は死んだんだ。
『ダメッ!空はその先を言ってはダメだよ。空のせいじゃない。全て必然だったの。偶然なんかじゃない、全部決まっていたことだったんだよ?』
『無月?』
『空が死んで、私も死んで。…空が生き返ることも。』
『!?』
無月は知ってる?俺が生き返ったことを?
『私は、死ぬ間際に願ったの空に会いたいって。そして、エンパシーはその願いを叶えてくれた。この場所で、この世界で空にまた会わせてくれたの。…すっごく感謝してるんだ。』
無月は嬉しそうに微笑む。
『私はこの世界からずっと空のことを見てたんだよ。エンパシーに沢山のことを教えて貰いながら。』
『…じゃあシルのことや、世界のことも?』
『うん。全部知ってるよ。世界の状況も、シルルさんのことも、琴亜さんのことも、空が選んだ選択も。』
無月は一度言葉を区切る。深く息を吸い込み静かに吐き出す。それを数回繰り返し再び俺を見つめてくる。
『空…ありがとう。私が殺されることを知って危険なのに感情の泉に飛び込んでくれて。すっごく格好良かったよ。』
『あの時は無我夢中だったんだ。危険だとか、そういうのを全部後回しにしただけだ。』
『そのせいで、記憶を無くしちゃったんだよね?』
『ああ、今の俺には今日の朝からの記憶しか残っていない。』
『私の方こそ、ごめんね、だよ。私を助けようとしたばっかりに…』
『それこそ俺が勝手にやったことだから自業自得だ。無月が謝ることじゃない。それに…』
『それに?』
『色んな記憶を失っても、無月への想いは無くさなかった。それだけで良いさ。』
『っ!?ズルいよ…空。』
無月は俺に背中を向ける。暫くそのままでいる無月は不意にこちらに顔だけを向けるとニヤニヤしながら、
『シルルさんとのキスはどうだったの?』
と聞いてきたのだ。
『…!?見てたのか?』
『さっきも言ったでしょ?この場所からずっと空を見てたって。』
シルの唇の感触を思い出し思わず指先で自分の唇に触れた。
『…ッ…空!』
無月は飛び付くように俺の頭に手を回すと自らの唇を俺の唇に重ねた。その勢いを殺しきれずにそのまま背中から純白の花の中に消えるように埋もれてしまった。
その間も無月は俺の唇を求め何度も吸い付き舌を絡ませる。いつしか、その唇から感じる想いに俺も求めに応じていた。
どれくらいの時間が流れただろう。数時間経ったかもしれない。まだ数分しか経っていないかもしれない。そんな体感時間があやふやになりながら無月は愛惜しそうに唇を離した。その顔は耳まで真っ赤になり瞳の端には涙を滲ませ、ばつの悪そうに立ち上がる。
『ごっ…ごめんね。空、いきなりで驚いたよね?』
『ああ、驚いた…けど…』
『けど?』
『嬉しかった。』
『…ッ?!?!?!?!?』
その場でしゃがみ込み両手で顔を隠した無月はイヤイヤをするように体全体を左右に振る。
そんな無月の姿を愛らしく想い優しく頭を撫でる。
暫く撫でていると落ち着いたのかゆっくりと立ち上がった無月は俺の手を取り立ち上がらせる。その時、何かを俺の手のひらに握らせゆっくりと距離をとった。
『これは?』
見ると青い半円球の水晶のペンダントだった。どこかで見覚えがある気がして自分の首から下げているモノを無意識に手に握った。いつの間にか首に掛けていたペンダント。この二つは左右対称の形であり元は一つであると思われた。
『記憶を無くしちゃった今の空にはわからないかもしれないけど。それは、私と空にとって、とても…とても大切な思い出なんだよ。でも、私には…もう必要の…無いものだから空が持っていて。』
俺は二つのペンダントをはめ合わせる。複雑ではあるが一ヵ所が噛み合い、捻るように押し込むと、そこには一つのペンダントが本来の形を取り戻していた。
その様子を確認した無月は満足そうに微笑む。
『その娘が…きっと、これからの空を守ってくれる。』
『その娘?このペンダントは何なんだ?無月は何を知っているんだ?』
数秒の沈黙の後、静かに言葉を繋げる無月。
『私はね。空に会わせてっていう 願いの代償にエンパシーに色んなことを教えて貰ったんだ。今日という日の出来事が何故起きたのか、今日という日までに何があったのか。空のことも。シルルさんのことも。琴亜さんのことも。…これから何が起きようとしているのかも。』
『無月?』
何を言っているんだ。
『…そして…空には… 私じゃなかった ってことも教えて貰ったの。』
今にも泣きそうな無月の表情に俺はかけるべき言葉を失ってしまった。今、無月の言葉を遮ってはいけないと直感が告げている。
『空にとって 私じゃなかった っていうのを知った時は凄く苦しかったけど、空は記憶を取り戻すっていう目標を定めて前を向けた。その選択が世界に与える影響も空を取り巻く環境も全てが空の幸せに繋がっているってエンパシーは教えてくれたの。だから…空。』
次の言葉を聞きたくなかった。俺は動けなかった自らの身体に後悔した。
『私のことを忘れて下さい。』
『ッ!?』
はっきりと告げられたその言葉に俺は息を飲んだ。余りにも唐突に発せられた覚悟を含んだ言葉に。
『な…ぜ…そんなことを言う…んだ?』
何とか発した言葉はただ質問を返すことしか出来なかった。
『私は最期の願いの代わりに空が世界にとってどういう存在なのかを教えて貰ったの。そして、空によってこれから世界で起こる変化も教えられた。』
無月は無表情とも言える顔で、
『その世界には…私はいなかったの。』
そう言った。
自分の大切な人が自らの未来に存在しないと、その本人から口から聞かされショックで何も言えなくなった。
俺の心情を察したのか無月は言葉を続ける。
『私には今この時間が貰えたことだけでも十分過ぎるくらい幸せなんだよ。最期に空に会えてキスまでしちゃったんだから。』
恥ずかしそうに唇を指先で撫でる無月。
『私たちの思い出も空に渡すことができたし。』
俺はペンダントに視線を向けた。首から下げているそれは水晶から淡い光を僅かに放っている。
『だから、ここでお別れ。』
俺は我慢できずに叫んだ。
『無月ッ!俺は!っ!?』
お前が好きなんだ!と叫ぼうとした。その途端、無月と俺の間を強風が吹き抜けた。その勢いに俺は数歩後退することになる。この世界が俺を初めて拒絶したのだ。
『クウ、ダメだよ。その言葉の続きを言っちゃダメ…。それはクウの枷になってしまう。私は…嫌だよ。』
涙目になる無月。
『無月…。』
『だから、ここでお別れにしよ。これ以上はクウの決断を歪ませてしまうから。』
『…ッ。』
何かを言いたいのに上手く言葉にすることができない。言葉が出てこない。
別れたくない。なのに、方法が…無月と一緒にいられる方法が俺にはわからなかったから。
先程の強風で何となく察してしまったのだ。この世界は俺を追い出そうとしている。その力は徐々に強くなっているのだ。
『…。もう…時間切れ(お別れ)…なんだな?』
手の指と足のつま先が少しずつ消滅しているのを見ながら呟いた。そう拒絶はより一層強くなっているのだ。身体の自由も徐々に奪われている感覚もある。3メートル位の無月との距離を縮めることができない。足が動かないんだ。
『そうだよ。もう私の 夢 は終わり。これからはクウの 現実 が始まるんだよ。』
無月は笑顔だった。慈愛が込められた表情には、記憶の中の無月と違わぬまま俺に微笑んでいるのだ。
『最期に空にお願いがあるんだ。』
『お願い?』
改まって無月は真剣な表情で俺を見つめる。
『うん。空のこれからのこと。私はエンパシーから教えて貰ったから。空のこれから歩んでいく道の道しるべを伝えようかなって。…私はもう空の力になれないから…。』
最後の方は聞こえないくらい小さな言葉だった。
俺は静かに頷き無月の言葉を待った。
『ありがとう。』
『ああ。』
これが俺が無月に対してできる唯一のことなんだ。と自分の心に刻み込む。
『まず、1つ目。シルルさんと仲良くね。』
『ん?それがお願いか?』
『そうだよ。彼女にとって空はとっても大切な存在なの。私にとっての空みたいに。彼女は空と一緒にいられるだけで幸せだから喧嘩とかしちゃダメだよ。』
『ああ、わかった。俺もシルには感謝しているんだ。俺にとっては恩人だからな。』
『そう…良かった。』
無月はホッとしたように胸に手を当てる。
『2つ目のお願い。琴亜さんを助けてあげて。』
『琴亜!?』
無月は琴亜に殺された。その琴亜を助けてとはどういうことだ?
『空は琴亜さんとの魂の繋がりを強く持っているの。気付いてる?彼女の過去を知るほどに。』
コクり。と首を縦に振る。
そうなのだ。琴亜に殺された俺、シルに戻された記憶の中に琴亜の過去も混ざり混んでいることに気が付いた。それは鮮明に自分が体験したように情景まで思い出せるほどだ。
これは、パスが通っているのだと無月は教えてくれた。本来神獣に殺された側の人間が生き返ることなどあり得ないこと。しかし、俺は例外的にシルに命を貰ったことで琴亜との繋がりを持ったままの状態なのだ。
『無月も琴亜の過去を知っているのか?』
『うん。私も彼女に殺されたからね。…って何かイヤだね、この言い方。』
困ったように小さく舌を出しながら笑う無月に俺はドキリッと胸の鼓動が速まった。
『私は彼女を恨んでないよ。空もそうでしょ。』
『ああ、だが無月を殺したことは許せそうにないが…』
『もう!そんなこと言わないの。私は恨んでないし彼女に同情だってしてるんだから。空も許してあげて。これは琴亜さんじゃなくて私のお願いです。』
『あ、ああ。わかったよ。無月が言うなら仕方がない。』
うん。と満足気に頷く無月。本当にこの娘は他人のことばかりだ。
『コホンッ!話が逸れたね。琴亜さんが抱えていることはいつか遠くない未来に神創世界の人たちを巻き込む事件に繋がるってエンパシーが教えてくれたの。それがどんな事件なのかわからないけど、神獣が関わっている以上、普通の事件じゃないことだけはわかるよね?』
『ああ、琴亜の 大切な人 が絡んでいるのならそうだろうな。』
『きっと空の力が必要になるから。』
『そうだな。シルとも神創世界を護るって約束したし俺は俺にできることをやるよ。無月のお願いだしね。』
『うん。お願いね。』
俺と無月の間に静寂が訪れる。
『ごめんね。最期に遺言みたいになっちゃった。』
困ったような笑顔で言った無月は両手を後ろで組むとクルリと背中を向けた。黒く長い髪かその勢いで綺麗に波打つ。
『最期の最後のお願いね。』
『…。』
予想はついていた
『私…のこと…を…忘れて…下…さい。』
小さなとても小さな声でそう言った。予想通りの言葉だった。無月がどんな感情を込めてその言葉を口にしたのか俺にはわからない。だが、言葉に込められた思いは十分に伝わった。
いつの間にか俺の身体は全体的に薄くなり身体を通してその先が見えるようになっていた。
そう。もう終わりが近いのだ。
俺は、二通りの答えを用意していた。
一つは肯定。無月の言葉に ああ、それが無月の願いなら と頷くこと。これが、無月が望んでいる返答だろう。
もう一つは否定。俺は無月のことを忘れることはできない と言葉にすること。これは足掻きだ。残り僅かな時間で無月を確実に困らせてしまう。だが、これは俺が望む答えだ。
二つの相対する答え、俺は決心した。決断と言って良いだろう。エンパシーは俺に世界の調和を保つ存在になれと望んだ。
シルは俺に選ぶ権利があると教えてくれた。
無月は俺に別れをお願いした。
だから…俺はこう口にする。
『無月… また な。』
その言葉を放った瞬間。先程とは比べ物にならない強風が吹き絨毯のように敷き詰められた花の花弁が大量に舞い上がる。その勢いで壁のように俺の姿を包み込んだ。
『空!』
無月の叫びが響く。
『無月!』
舞い上がる花弁で姿は確認できないが無月が手を伸ばしているような感じがした。いやそこに無月はいると確信があった。
俺も手を伸ばす。
刹那。伸ばした指。中指に僅かに触れる感触を残し俺の存在はこの世界から消え去った。
今わかった。いや、違うな。薄々感づいていたんだ。
この世界は。月の無い世界。つまり、無月の世界だったんだ。
ーーーーー私は、空が姿を消した虚空を見つめていた。
指先に残った空の感触を思い出しながら反対の手で包み込むように握る。
『あぁ、嬉しかったなぁ。空の元気な姿…見れて良かったよぉ。』
私は敢えて声を出した。
『それにしても、やっぱり格好良かったなぁ。あんなこと言われたらもっと好きになっちゃうよ。』
衝動的にキスした時のこと、シルルさんと空のキスをこの世界から見ていたら何とも言えない気持ちになってしまった。
ううん、違うね。
これは嫉妬だったんだ。我慢できなくて空としてしまった。
一瞬、嫌われてしまったかとも思ったけど空は 嬉しかった と言ってくれた。
もうっ!空はズルいよ。何度私を惚れさせたら気が済むの!
自然とニヤケ顔。とても余所様には見せられない顔をしているだろう。
『伝えたいことも伝えられたし。』
エンパシーが私をメッセンジャー代わりに空に伝えたことは2つ。
シルルさんのことと琴亜さんのこと。
どちらのことも未来の空の運命を左右する。内容を伝えることは止められていたけれど空ならきっと乗り越えられる。
私はそう信じている。
『あの娘も預けられたし。』
空に渡したペンダント。空が持っていたモノと私が持っていたモノを一つにすることで間接的にあの娘に会えるようになる。あの娘はきっと空の力になってくれる。何せ私と空の子供なんだから。
『姉さんのことは伝えられなかったけど。』
あの人なら大丈夫だろう。空のことを覚えていられるかはわからない。けれど、あの人は信頼できるから安心だ。強いし。
『これで…良かったんだ…うん、良かった。』
結局、私の居場所…無いんだなぁ。
涙が頬をつたう。
『もう…いい…よね…我慢するの…』
自分自身に確認する。
『うっ…』
膝をつき、両手で顔を押さえる。流れ始めた涙が止められない。止まらない。
『良くなんて…ないよぉ…良かったなんて…思いたく…ない…よぉ』
抑えていた言葉が次々に出てきてしまう。
『別れたくないよぉ…空…別れたくなんてなかった…』
『何で!何で!何で私だけこんなことになるの?ただ、ずっと空と一緒に居れたら良かったのに!』
『ひどい…こんなの…ひどすぎるよぉ…』
『空…空…行かないでって…言いたかった…』
『空ぅーーーーーーーーーー!』
私の叫びに応えたのは静寂だった。世界に響くのは私の声だけ。もう空はいない。会うこともできない。
『うっ…うあぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーー。』
これが私が私であった時の最期の記憶。
ただ一人の少女の想いはここで終わりを迎えたのだった。