プロローグ2
天を仰げば2つの月が重なり合っていた。1つは、真っ黒に塗り潰された漆黒の月。空に穴が空いているようだ。そして、その漆黒の月に隠れるようにしてもう1つ、純白の真っ白な月が優しい光で辺りの闇を照らし、その存在を主張している。
赤く染まった空。それは、夕焼けの燃えるような夕陽などとは比べ物にならない程の禍々しい紅い空。例えるなら、そう血の色だ。赤黒い重い赤。見ているだけで気持ち悪くなる。
吐き気を我慢しながら辺りを見回すが誰もいない。人が、いや生き物がいない。違う、さっき、いや…今の今までいたんだ。
俺は、なぜこのような状況に陥ったのかを焦りながらも考えていた。
そうだ。今日はいつものように、幼馴染みの女の子 無月に朝起こしてもらったところから始まった。起床して、無月の作った朝食を食べ、いつもと同じように登校。いつもと変わらない朝。
学園行事の準備のため午前中のみの登校となり、放課後一緒に帰宅しようと無月を呼び止めた。
『ごめんなさい。今日は星天会で大事な会議があるの。夕食は作りに行くから先に帰っていて。』
とのことなので、仕方なく教室まで戻るとクラスメートたちが円を組み雑談に華を咲かせていた。
『あれ?帰ったんじゃなかったの?』
一人が俺に気付き声をかけてきた。
『いや…無月と帰ろうとしたんだけど、何か忙しいみたいでさ。』
『そりゃあそうだろう。無月ちゃんは星天会の会長だし。あれも近いからな。』
『ああ、体育祭だろ?毎年この時期は星天会の連中はドタバタ騒ぎだし。』
体育祭の話を一通り話終えると急に目の前にいた男子が俺の顔を嫌らしい笑みを浮かべながら覗き込んできた。
『なんだよ?』
『で、会長とはどんな感じだ?もう、ちゅーとかしちまったか?』
『そうだ!俺も知りたかった。そこんとこどうなんだ?』
『無月ちゃん、美人だし。スタイルも性格も良いし最高じゃん!』
口々に無月を誉める学友たち。学園生たちの憧れの象徴である星天会の会長である無月が誉められるのは俺も悪い気がしない。だが…
『なんだそりゃ?俺と無月はそんな関係じゃないぞ?』
『マジで!?お前ら毎日一緒に登校してるじゃん!弁当まで作って貰いやがって!羨ましいなぁ!ちくしょーー!』
『てっきりもう付き合ってるって思ってたぜ?てか、口にしないがそう思ってる奴が大半だと思うぞ?』
『現に無月ちゃんに告白して玉砕した男子は数知れず、そして、その理由が「ごめんなさい、お気持ちは凄く嬉しいですが、私には好きな人がいるの。だから、貴方とは付き合えません。」なんだぜ?』
『そりゃ、フラれた男子たちを通して学園中にお前と付き合ってるって噂が流れても仕方がないな…てか、本当に付き合ってないのか?』
話の流れに居心地が悪くなる。
『別に、お前らには関係ないだろう?じゃあ俺は帰るからな!また、来週!』
『あ、おい!?』
学友たちが何か言っていたが気にせず学園を後にした。
確かに俺は無月のことが好きだ。小さい頃からずっと一緒にいる少女。俺の思い出の大半は無月との出来事で占められている。健気で人一倍努力するがんばり屋。自分より他人を優先してしまう女の子。そんな娘を支えられる人間になりたい。それが、幼い頃から俺が立てた目標だ。俺はまだ一人前になっていない。この想いは、目標が達成されるまで告げないと決めていた。
『ふぅ…』
ため息に足が止まる。いつの間にか、自然公園の入り口に立っていた。
少し、寄ってみるか。
俺は自然公園に寄ってみることにした。
そうだ。ここまでは覚えている。鮮明に思い出される記憶を辿る。散歩途中の老人や子連れの親子。ランドセルを背負い友達と笑いながら駆けて行く小学生。誰もいなくなった。そうだ。一瞬で世界が渦巻いた。反転したのだ。世界が廻り、視界が回る。世界が差し替えられた。辺りが突然暗くなり人が消える。俺以外の人間が全て消滅してしまったみたいだ。まるで、世界に俺以外の人間が最初から居なかったように…
逆だな…冷静に考えれば、俺だけが別の世界に飛ばされたか、もしくは、迷い混んだか。それが、妥当な考え方だろう。
なぜ、このような考えに至ったのか、そんなことは簡単だ。目の前にいる存在。その存在がこの考えを導き出させるのだ。
辺りは先程まで人々で賑わっていた自然公園だ。広がる自然をそのままに様々な植物が人の手により列を成す。かなりの広さの池。アトラクション施設、小さな売店。ここは、言うなれば小さな市民遊園地だろう。
だが、あくまで普通なのだ。市民の憩いの場であり、特に変わった場所ではないし特別でもない。
犬。
犬がいるんだ。そうさ。普通、公園に犬がいるなんて珍しいことでもない。ついさっきだって、1、2匹見かけたさ。それにここは自然公園で市民が集まる場所。広さもかなりのものだ。当然、散歩中のご主人様を息を荒立てて引っ張っていく姿をよく目にする。
汗が頬を伝う。体が震え、息が苦しくなる。ここは、俺の知っている世界じゃないんだ。俺の住んでいた世界にこんな犬はいない。だってそうだろう?目の前にいる犬は、全長三メートルを越えているんだから。
三メートルを越える巨大な体。白から桃を経由して紫にグラデーションしている鮮やかな毛並み、鋭く磨がされた牙と爪。突き刺さるような眼光と額に埋め込まれた赤い結晶石が月の光を反射する。
『お前は、いったい…』
気がついたら俺は犬に話しかけていた。目があった瞬間、この犬は言葉を理解できると、そう感じたんだ。
その言葉に反応したのか、額の結晶石が突然光出す。周囲は一瞬で光に包まれた。
『ぐっ!?』
あまりの眩さに目を閉じる俺。
『お気の毒ですね。この世界に来てしまうなんて。』
耳に聞こえたのは犬の鳴き声ではなく若い女の声だった。声の主を確認するためゆっくりと目を開けた。
『なっ!?』
驚いた。目の前にいた筈の巨大な犬は姿を消し、代わりに一人の少女が犬のいた場所に立っていたのだ。犬の耳を頭から、尻尾を尻から生やし、犬の毛並みと同じ色の髪をした和服の少女。
『君は誰なんだ?さっきの犬はどこに行った?それに、どうして俺はこの世界に迷い混んだんだ?ここはどこなんだ?』
恐怖を誤魔化す為に一気に話す。先程から目の前の少女に対し俺の直感が警戒信号を鳴らし続けていた。
人ではない。危険だ。逃げろ。
逃げたいのに少女が放つ異様な雰囲気に全身が凍りついたように動かない。
『驚きました。貴方は自分が 迷い混んだ ということを理解できる方なのですね?申し遅れました。私は、琴亜という者です。犬神の神獣です。』
イヌガミノシンジュウ?
『迷い混んだと認識できるということは、魔力の純度がとても高いということですから、この世界に迷い混んだのも必然でしたか。』
『どういうことだ?君は何を知っているんだ?』
『ごめんなさい…』
琴亜と名乗った少女の周囲に花びらが舞い始めた。桜の花びらにも似た彼女の髪と同じ色の美しい花びら。
『…ここは幻想世界。貴方がいた神創世界の影の世界、この世界に迷い混んでしまった貴方には…』
目の前にいた琴亜の姿が視界から消える。次の瞬間、突然、胸の辺りに重い衝撃と鈍い痛みが襲った。何か得体の知れない異物が身体を貫いたのだ。
『えっ!?』
『貴方の 代わり は頂きます。貴方が元の世界に帰ることはありません。ここで貴方は…私に殺されるのですから。お休み下さい。名前も知らない方。』
胸に衝撃と痛みを与えた異物が引き抜かれる。この時、異物の正体を理解した。俺の血で染まった琴亜の手。花びらを纏ったそれが俺の身体を貫いたモノだった。
力無く地面に倒れ混む俺の身体を琴亜が抱き抱えゆっくりと仰向けで寝かせる。
『ごめんなさい。ごめんなさい。』
涙で顔をぐちゃぐちゃにし、ただ謝り続ける琴亜の顔を見ながら俺はこの娘に殺されたことを理解した。薄れていく意識の中で自分を殺した不可解な現実よりも…無月に会いたいと思いながら死んでいく自分に満足感を感じていた。
無月…に。
無月。
無。
◇
『はっ!?』
目を覚まし勢いよく上半身を起こした俺は、周囲の何気ない違和感に気がついた。それは、目に映る見慣れない景色によるものだった。
『あれ?ここ…何処だ?』
見知らぬ場所。幾つものシャボン玉が浮かび、地面は宙に浮かび草が生える。遠くに見える丘には木々が生い茂り、優しい風に乗って緑の香りが鼻を掠めた。空は青で揺らいでいた。
ん?揺らいで…る?
不思議…としか言い表せられなかった。空には海があったのだ。例えるなら、そう水族館だ。水中にトンネルがあるやつだ。ここは、そこに似ている。その光景は神秘的であり幻想的であった。
『俺は…どうしてこんなところで寝てたんだ?ここは…いったい…ぐっ!?』
突然の頭痛、激しい痛みにより思考が遮られた。
『俺は…誰だ?』
わからない。自分のことがわからない。
名前がわからない。
年齢がわからない。
経歴がわからない。
全てがわからない。
何も思い出せなかった。自分が誰で、ここはどこで、なぜ自分がここに寝ていたのか。普通ならここでパニックになっていたかも知れない。だが、不思議と冷静でいられた。自分自身のことなのに、まるで第三者の視点で自分を見ているような感覚。なぜかはわからないが、この場所は不思議と安心感を与えてくれる。古い故郷に帰ってきたような懐かしさに似た開放感。とても落ち着いている。
『ほっ!とっ!』
反動をつけて立ち上がる。軽い目眩に脚がふらついた。随分長い間寝ていたのか体の節々が思うように動かない。まるで、長い入院生活から退院し以前と同じような運動ができなかった時の身体に感じる違和感に似ていた。
『凄い…』
見たことのない神秘的な光景が眼前いっぱいに広がる。自然に驚きの声がもれた。
天に広がる青い海。風に揺れる森の木々。宙に舞うシャボン玉と謎の建造物。幾重にも重なりあった通路。
迷路と呼ぶには広く。
公園と呼ぶには静か。
楽園と呼ぶには寂しい。
そんな場所だった。
俺は理由なく歩き出した。ただ、なんとなく足が動いた。もっとこの場所を知りたいという好奇心だけが先走る。
何度も分かれ道に差し掛かるが、足は止まることなく通路を突き進んでいく。まるで、向かうべき場所を体が知っているように。
心のどこかで確信があった。迷うことはない。知っているんだ。どこに向かっているのかもわからない、この場所を俺は知っている。この場所に…いや、この世界に…来たことがあるんだと。
どれだけの時間を歩いたんだろうか?気がつくと幾重にも重なり分かれていた道は一本の通路になっていた。今まで止まることのなかった歩みを止め立ち止まる。目の前には巨大な壁が立ちはだかり通路を塞いでいた。
『これは…扉か?』
余りの大きさに溜め息がもれる。目を凝らすと壁に見えた建造物は巨大は扉であり、道は完全に塞がり、堂々たるその体で侵入者である俺を威圧しているように感じる。
『ああ〰〰!やっと戻ってきた!!!』
突然の大声に驚き顔を向ける。扉に圧倒されて気がつかなかったが、扉の前、正確には扉に繋がる道のど真ん中に仁王立ちした金髪の、しかもとびっきりの美少女が立っていた。少女はエメラルドグリーンの瞳で俺を睨んでいる。
この場所にも人がいたのか!?今まで不思議な風景に惑わされて気がつかなかったが、この場所には生き物が存在していなかった。生命という括りでなら植物が生い茂っていた。が、人や動物、虫ですら存在を確認できていない。それは、単純に俺が生き物を見落としていただけなのだろうか?
『もう!まだ説明の途中だったのに!急に飛び出して行くんだもん!びっくりするでしょ!』
少女がズカズカと近づいてくる。彼女を見るに相当ご立腹のようだ。どうやら、俺が少女の機嫌を損ねることをしてしまったらしい。だが、今初めて出会った筈の少女に俺は何をしてしまったのだろうか?
てか、誰だ?この娘?
突然、現れた見知らぬ少女はファンタジーという言葉がぴったりな不思議な服で身を包み、その胸元には、一際、その存在を主張する真っ赤な宝石が埋め込まれているブローチが光る。
幼さの残る小ぶりな可愛らしい顔と少し低めな身長。腰まで届く長い金髪とエメラルドグリーンに輝く宝石のような瞳。思わず見とれてしまう程の美少女だった。
『ちょっと聞いてるの?クウ!あなたはもう世界の輪から外れちゃってるんだから体なんか与えられないんだよ!』
頬を膨らませる目の前の少女。
『君は…何を言っているんだ?』
俺は、いまいち状況が掴めない中、取り敢えず少女に疑問を投げ掛けた。
『何って?』
少女が一瞬きょとんとした表情を作ると、ハッと何かを思い出したように俺を見た。
『もしかして、クウ?私のこと忘れちゃってる?』
少し戸惑いながら少女は俺の顔を真剣な眼差しで覗き込んでくる。間近に迫った少女に俺の心臓の鼓動が速くなるのを感じる。
『忘れているのかは…わからないが、俺は自分のことも覚えていないんだ。君は俺のことを知っているようだが、俺は君に会ったことがあるのか?だとしたら、すまない。』
俺の言葉に、うんうんと納得したように頷く。
『そう…やっぱり、記憶…飛んじゃったんだね。はあー、だから止めたのに…』
肩を落とす少女は俺の手を握る。思っていたよりも細く小さな手。力を入れたら壊れてしまいそうな繊細な指先が力強く俺の手を握る。
『でも、大丈夫!私がちゃんと思い出させてあげるからね♪』
俺の手を引いた少女が、巨大な扉の前まで誘導し反対側の手で扉に触れた。
『俺の記憶を、君は戻せるのか?そんなことが、できるのか?』
『もちろん!この世界と私に不可能はないよ!』
『この世界?君はいったい何者なんだ?』
少女が触れた扉が、少女に反応するように淡い光を走らせ巨大な体を左右に動かしていく。
『私の名前は、シルル・エンデ・エフィール。この世界の管理者で君たちの世界の神創世界を見守る者。そして、この世界は、全ての始まりの世界!エンパシー!感情を生み感情が集まる場所!』
今、記憶の扉が開かれる。俺とシルル・エンデ・エフィールの出会い。全てが終わり全てが始まった瞬間だった。