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スモーカーズドットコム ~深夜の三人~

「煙草」と一口に言っても、様々な形態や喫煙具があります。本作に登場するそれらはほんの一部ですが、「歴史・文化としての煙草」と考えると、本当に奥の深い嗜好品だと思っています。

スモーカーズドットコムというwebサイトがある。ここには煙草の煙を愛する人々が集い、紙巻煙草、葉巻、パイプ、手巻き煙草、煙草と名の付くものとそれに関わるものの情報交換、意見のやりとりなど、日夜問わず愛煙家談義に花が咲いている、知る人ぞ知るネットの中の喫煙所である。


午前一時。少数派スモーカーの座談会と銘打って、深夜営業のカフェバーに二人の男と一人の女が座っていた。スモーカーズドットコムで知り合った三人の愛煙家のオフ会が行われるのだ。


小さな木目調のテーブルを挟んで、出入り口横の壁側に男が二人並んで座り、向かい合う形で女が座る。


壁側に座った、背が高く浅黒い肌に無精髭の男、佐久間が向かいの安っぽい木製の椅子に腰かけた南に問いかける。「南さん、注文は?」問いかけを投げられた南は、俯いていた顔を上げ「アイスコーヒーを。これがここのお店じゃ、一番お安いでしょう?」佐久間に向かって問いかけを投げ返す。「アメリカンも同じ値段ですよ、五百円」佐久間の隣に座っていた佐久間とは対照的な体格、華奢で肌の色も白く、その体に不釣り合いな髑髏のネックレスを首から下げた小嶋が答えた。


「そうね……いえ、私、猫舌だった。アイスコーヒーでお願いします」南が答え、佐久間はメニューをしばらく眺めたあと、アイスコーヒーと同じく、この店最安値のアメリカンを注文し、小嶋は飲み物の代わりに、やはり同じ五百円のチーズケーキを注文した。


化粧っ気のない細身の女将は、それぞれの注文を受けたあと、注文内容の確認を取って、そのままカウンターテーブル奥のキッチンへ姿を消した。


「あの……改めて自己紹介をしませんか?」南が小さく声を上げる。「あ、そうですね、申し訳ありません」小嶋が軽く頭を下げて詫びる。「あ、じゃあ、俺から話しますよ」と佐久間。


「ええと、改めまして、佐久間と申します。半年ほど前まで建設会社で働いていました。今は──何もしていません。こういう場って、不慣れなんですが、どうぞよろしくお願いします」小嶋と南に向けてそれぞれ会釈をした佐久間は、注文を取る際に女将が置いて行った水と氷の入ったグラスの水を飲んだ。


「あの、佐久間さん、緊張なさってます?」佐久間の自己紹介を聞き終えると、変わらず小さな声で南が言う。「あ、ええ、見た目とは裏腹……なんて言うとあれですが、これでも緊張しいなんですよ」言って佐久間は首筋の汗を拭う。


「話の腰を折ってしまって、ごめんなさい、えっと、南です。一年前まで、看護師をしていました。今は──何もしていません。声が小さいのが自分でもわかっています。ごめんなさい」佐久間と同じく、自分以外の二人に向かって頭を下げる。


「トリが僕で申し訳ないのですが……小嶋です。ちょっと前まで、コンピュータ関係の会社に勤務していました。後は皆さんと以下同文なんですが、それだけじゃ面白くないかもしれない。えっと、佐久間さん、南さん、お使いのパソコンに不具合が出たら、僕に相談してください。格安で修理しますよ」小嶋は最後の一言を佐久間と南に向けたあと、自嘲的な笑みを浮かべた。


佐久間、南、小嶋。この三人に共通していることは、現在"何もしていない"ということである。そしてもう一つは"少数派のスモーカーである"ということ。


「お待たせしました」三人の自己紹介が終えて間もなく、女将が佐久間のアメリカン、南のアイスコーヒー、小嶋のチーズケーキを銀色のトレイに載せてやって来た。それぞれの前にそれぞれの注文の品を置き、追加注文がないかを訊き、三人が首を横に振って断ると「ごゆっくり」と言って再びカウンターテーブルの奥へと姿を消す。


「コーヒーが届いたということで、早速一本吸っても?」佐久間は南と小嶋に問う。駄目だと言う理由がない南と小嶋は、佐久間の一言を合図にして、各々の持参物を取り出した。


「へぇ……それがコニカル巻きってやつですか、凄いな。僕には真似できそうもない」佐久間の取り出した缶ケースの中には、円錐型に巻かれた煙草が綺麗に並べて収められている。「いや、これは慣れですよ。最初はローラーとフィルターで作ってたんですが、いかんせん暇でしてね。それで、ま、色々試したくなるんですよ。今なんかはそれこそ、ネットの動画でハウツーが流れてるじゃないですか。それを見ながら練習して、あまり上手じゃないですけど、コニカルが俺には合ってるというか」小嶋に語りかけながら、佐久間は一本くわえ、ジッポのライターで着火した。立ち昇る一筋の煙とともに、甘く、フルーティな香りがテーブルを囲んで座った南と小嶋の鼻腔に届く。


「良い香りですね」一見財布にも見える、茶色のかますから煙管と刻み煙草の入った箱を取り出しながら、南は佐久間に言う。「葉っぱは何を?」「うーん、その時の気分ですけれど、これはガンドゥンという銘柄です。付属の紙がね、最初からコニカル用なんです。インドネシアの煙草、ビディって知ってます? もしかしたら、インドネシアの煙草って、この形状がスタンダードなのかもしれない」


「あの……佐久間さん、それ、違います。ビディはインドの煙草ですよ、インドネシアはガラム」煙管の火皿に丸めた"小粋"を詰めながら、南が指摘する。「あ、そうですよ。佐久間さん、イエローカードだ」リュックのサイドポケットからカフェクレーム・コーヒーのパッケージを取り出しながら南の指摘に小嶋が便乗する。「あれ? そうでしたっけ? いけない、もう少し勉強しないとな」佐久間は苦笑を浮かべ、南と小嶋もつられて苦笑いをする。


「それにしても、南さん、女性で煙管とはなかなか。サイトの方でお話は聞いていましたけれど、こうして目の前で煙管を嗜む女性を見ると、感激しますね。妖艶というか、美しい。あ、いや、疚しい気持ちで言ったんじゃないんですよ、すみません」佐久間は南に向けて頭を下げる。「僕も煙管と女性って、映画の演出とか漫画でしか知らないビジュアルだったので、ちょっと感激です。衣装とマッチしていて、素敵だと思います。あ、勿論、佐久間さん同様、疚しい気持ちはありませんよ。ついでき口説いているわけでもありません」小嶋は南に謝罪の言葉を向けた後、ようやくカフェクレーム・チョコをくわえ、ガスライターで着火した。


佐久間のガンドゥン、南の小粋、小嶋のカフェクレーム・チョコの煙が天井付近で融合し、深夜一時過ぎという時間と相まってか、現実の生活から遠く離れた別な世界にいるような感覚を三人は覚えていた。


「ところで佐久間さん、何で手巻き煙草だったんです?」カフェクレームを一吹かしして灰皿に置き、チーズケーキを頬張りながら小嶋は佐久間に問いかけた。


「うん、さっきの自己紹介でも話しましたけど、俺、前の仕事が建築関係でしょ? 当然ながら"現場"の仕事ってのは心身ともに堅強じゃないと務まらない仕事なんですよ。正直、給料も高い。その分、リスクも高い」ここまで話した佐久間は、短くなりつつあるガンドゥンを一服し、天井へ向けて煙を吐き出すと自分の前に置かれた灰皿で煙草を揉み消した。「でね、雨の日ってのは基本的に現場仕事は休みなんですが、小雨ってのが微妙なんです。雨が上がるかもしれないし。で、これくらいの小雨なら大丈夫だろうってんで、現場に出向いたわけです。それがまずかった」一息に話すと、佐久間は瞼を強く閉じた。「前日に足場は組んでいたんで、あとは登って作業するだけ。それでその日の仕事は無事に終わるはずだったんですが──小嶋さん、南さん、例えば木登りして遊んだとします。登るのと、降りるの、どっちが怖いですか?」


佐久間からの突然の問いかけに、当惑して視線を交わす、南と小嶋。「私は……登る方が怖い。途中で落ちないようにって。ごめんなさい、私は木登りしたことがないので、想像ですけれど……」「僕も登る方が怖かったですよ、小学生の頃、友達と木登りして遊んだ経験はありますが、登る方が怖かった。どんどん地面から遠ざかっていくのが、すごく」南と小嶋は佐久間の問いかけに答える。


「うん、一般の方はそう思って当たり前なんですよ。降りる時は段々と地面が近くなりますしね。気持ちが安心に向かうでしょう? もう少しで地面だって。その"安心"っていうのがね、高所作業では最大の敵なんです。上で作業して、さあ降りるぞと。俺が初めて足場登った時は、親方から何度も注意されました。地面に足をつくまで気を抜くなって、何度もね。ところが──その日の俺は、一番やっちゃいけない"それ"をやってしまった。あともう少し、五メートルくらいだったと思います。ようやく今日は上がれるぞって、気を抜いてしまった。気付いたら、救急車に乗ってました。落ちたんですよ、足場から。脳震盪だけならまだしも、運悪く腕の腱をやっちゃいましてね、現場復帰は絶望的だって、医者から言われまして。トラウマってやつでしょう、今じゃアパートの階段を降りるのも怖い」


ここまで話すと、佐久間はアメリカンを一口すすり、二本めの煙草を缶ケースから取り出した。


「小さな頃から模型が好きで、将来は建築士になりたかった。手先も器用だったんですね。経験積みながら、さほどない頭で勉強もしてたんです。でも、商売道具の腕を悪くして、職を失った。恥ずかしながら、将来に絶望しましてね、しばらくひきこもっちゃったんですよ。それまでは普通の紙巻を吸っていたんですが、ひきこもってる時にたまたま動画サイトで"手巻き煙草の作り方"なんてのが流れてて。よくよく調べたら、既製品を買うより手間はかかるけど価格は安くなるってんで、こりゃいいなと思って。それであそこならあるかなぁって、南さんも小嶋さんも行きつけらしい、あの煙草屋さんに出向いたら一式置いてある。もともと何かやってないと落ち着かない質ってのもあったんでしょうね、それからはずっと手巻きです。お値段はまぁ、巻き方とか葉っぱの値段で変わるので何とも言えないんですが、何より色んな味と香りが楽しめるのが良い。あと、指先を使うから、リハビリにはもってこいでして」佐久間は言って少し自嘲めいた笑いを浮かべてから、二本めのコニカルに火をつけた。


佐久間の独白を黙って聞いていた南と小嶋だったが、佐久間の二本めのコニカル着火が、佐久間の独白の終了の合図を告げるようだった。佐久間は天井へと昇っていく煙を見つめている。南は注文したアイスコーヒーで喉を湿らせている。チーズケーキを平らげた小嶋は、腕を組んで俯き、足元へ視線をやっていた。


「や、急に重たい話をしちゃって……何だか申し訳ないな。ほら、一応は元気だし、南さんも小嶋さんも、俺の負のオーラを感じなくて大丈夫ですよ。」佐久間は押し黙ってしまった南と小嶋に声を向ける。


「いや……僕も似たようなものだな、と思って。結局、労働者を"戦力"という視点で見てしまうと、例えは悪いかもしれないけど、銃弾を浴びた兵士って、会社組織の従業者を戦場の兵士で考えると、使い物にならないですもんね。いや、佐久間さんが戦力外の兵士だって言ってるんじゃなくて、誤解がなければいいのですが、今の社会って、戦場に似てるなって」


俯いていた小嶋が視線を上げて、佐久間に視線を送る。


「いや、小嶋さんの例えはなかなか的確だと思います。少なくとも、建築の現場じゃ、俺は除隊ですからね」言って佐久間はコニカルを吹かす。


「僕もね、前の業界からは永久除隊だと思います。最初は夢を持って、システムエンジニアっていう職業に就いたんですけれど……」佐久間の独白に続く形で、バトンを引き継いだ小嶋が火の消えたカフェクレームに再び着火し、話を始める合図を佐久間と南に送る。佐久間はコニカルを灰皿で揉み消し、南は持っていた煙管をテーブルに置き、アイスコーヒーを一口すする。


「中学生の頃ですね、二年だったかな。親父がパソコンを買ってきたんですよ。インターネットが全然一般的じゃなかった頃で、ワープロの上位機だと思ったのかな。うちの親父、見栄っ張りなんですね。ものすごく高価なマシンを買って、お袋に雷を落とされて。懐かしいな」カフェクレームを一息吹かし、小嶋は続ける。「結局ね、一ヶ月も経たないうちにただの置物になっちゃったんです。そのパソコン。こんな難しいの使えないって言って。で、使わないなら、自分が触ってもいいか? って訊いたら、即答でOKが出て。なんでしょうね、新しいゲームを買ってもらった感覚とは違うな、"大人"しか使っちゃいけないものをまだ中学生の身分で触ってるっていう、昂揚感がありました。この機械はどういう構造になってるんだろう、どこがどうなってて、どういう仕組みで動くんだろうって。多分中学生を卒業する頃には、いっぱしの"大人"並みに使えるようになっていたんじゃないかな。僕は運動も苦手だったし、そんなに勉強もできた方じゃなかったから、ほとんど必然的に地元の工業の機械科に進学しましてね。楽しかったな、毎日毎日、機械に囲まれて、パソコン好きな友人にも恵まれて。あの頃の僕は、人生の最好調期だったのかもしれない」


佐久間と同じように、自嘲めいた笑みを浮かべて話す小嶋に、それぞれの煙草に火をつけずに耳を傾けている佐久間と南。南はテーブルの上で手を組み、佐久間は視線をテーブルの真上に設置してある、花弁を模した電球ガードを見つめている。話すうちに、小嶋のカフェクレームは、残り半分の所で火が消えていた。


「それで、順風満帆と言っていい、高校生活も三年目、僕はもっと機械、機械というよりやっぱりパソコンですよね。それに関わる関連知識がもっと欲しくなった。就職率の方が多い高校ですから、僕みたいに進学志望者なんてほとんどいなくって。受験勉強らしい受験勉強もしていなかったから、三年の春から猛勉強して、何とか地方の私大の工学部に入学したんです。けれどね……」そこまで言って、小嶋は消えたカフェクレームに着火し、それまで吹かしていただけの煙を肺まで吸い込んだ。「学校の水が合わなかったのかな。原因はよく分からないままだけれど、同期生と全然仲良くなれなくて。生まれて初めて、オタクの小嶋、とか、僕、線が細いでしょう? "もやし"なんて渾名をもらったり。大学生が軽く苛めめいたことをするなんて、ちょっと馬鹿げてるでしょう?」吸い込んだ煙を通路側に向けて吐き出した小嶋は、水を一息にあおった。「結局、大学は辞めました。中退して、就職活動を始めて、何とか採用されたのが某企業のシステム開発部門でした。面接の時にね、繰り返し『体力には自信がありますか?』って問われたんですよ。まだ二十歳そこそこだったし、徹夜なんて何度も経験してるから、『大丈夫です』って返答して、運が良かったのか、今を考えると悪かったのか、即採用だったんですね。でも……あんなに大変だとは思わなかった。本当にね、寝る間がないんです。一ヶ月会社に泊まり込み、なんてこともありました」最後の一口を吸って、煙を吐き出すと、小嶋は自分の灰皿に短くなったカフェクレームを置いて、セルフサービスの水をグラスに注ぐ。「もちろん、趣味と仕事は別物だと思ってはいました。けれどね、自分の好きなこと、もので働けるんだから、これだけ大変でも、願ったり叶ったりなんだぞって。そう思いながら五年、働きました。六年目に入ろうかという頃ですね、眠れなくなってしまったんですよ。家に帰って、布団にもぐりこんで、眼を瞑っても、モニタに映し出されたものが頭から消えてくれない。エラーの箇所が出て、あれはどこが悪かったんだろう、そう考え始めると、ますます眠れなくなる。眠らずに仕事をするとね、当たり前ですが増えるのはミスばかり。頭が回ってなかったんですね。とある日、僕は致命的なミスをしてしまった。A社のBシステムと、B社のAシステムを、あべこべに組み込んでしまったんです。クレームの処理と、間違えて組んだシステムの交換、それに関わる費用と時間の損失は莫大なものでした。自分の起こしたミスですし、それを挽回しないと業界での生き死にに関わってくる。必死でした。必死になればなるほど自分が空転していくのがわかる。A社とB社のシステムの再組み込みを終えた僕は、完全に燃え尽きてしまったんです」


小嶋はぼんやりと宙に視線をやる。


「佐久間さんとちょっと似てる症状かもしれませんが、人と話すことが怖くなってしまった。コンビニで食料とか飲み物、煙草なんかを買うでしょう? 食料と飲み物はいいんですよ、煙草は、銘柄か番号を店員さんに言って買うでしょう? あれがね、できなくなっちゃった。これはちょっと普通じゃないよなって。それで、まぁ意を決して医者に行ったら神経が参ってるとのことで、薬を処方されてね、しばらく休まないといけないよ、と。これまで仕事一本やりでしたから、休み方がまるで分らなかった。恥ずかしながら、退職届は内容証明の郵便で送りました」小嶋は苦笑を浮かべる。「それでね、映画でも観てれば良いかも、なんて安直な考えをしましてね、適当に何本か借りてきて、夜中に映画ばかり観ていたんです。するとね、俳優がブランデーかスコッチかな、それをちびちびやりながら葉巻を吹かしてるシーンがあって。こりゃあ羨ましいなぁって。葉巻なんてそこいらのコンビニじゃ売ってないでしょ? だめでもともとで、街角の煙草店に入ったら、これがあったんです」言いながらテーブルに置いたカフェクレームの缶を指さす。これはシガリロっていって、外でちょっと吸うには手ごろなやつなんですよ。家ではもっと大きいサイズのコロナを吸っています。勿論、身分相応な安い葉巻ですが、何も考えずにいるのには丁度いい。一番の薬かもしれません」再び苦笑を浮かべる小嶋が二本めのカフェクレームに手を伸ばし、火をつける。これが小嶋の独白の終了のサインだった。


小嶋の独白を聞いていた佐久間は、そのポーズが癖なのか、腕を組んで何も言わず、口を真一文字に結んでいる。


佐久間と同じく、小嶋の独白を黙って聞き、それを聞き終えた南は、テーブルに置いたままになっていた真鍮製の煙管に手を伸ばし、見た目は二つ折り財布のような叺から刻み煙草を取り出し、指先で小豆ほどの大きさに刻みを丸めて火皿にそっと詰める。携帯していたマッチを擦り、着火すると、銀色の煙管の火皿から煙が立ち昇った。華奢な体つきでおそらくは背中まで届こうかという漆黒の髪を結び、和服をモチーフにしたのだろうか、紫の地に色とりどりの花がちりばめられたワンピースは、人けのなくなった深夜という時刻でも目立っている。さながら遊女といった出で立ちは、この場に集う三人の中でも異彩を放っている。


改めて南のその出で立ち、煙管という喫煙具の組み合わせに、佐久間と小嶋は魅入ってしまう。


ゆっくりと煙管で一服し、吐き出す煙の勢いもまた、緩慢である。南が元々そういう性格なのか、煙管という喫煙具が、そうさせるのか──。南の姿に、南の動作に、煙管という喫煙具に魅入る佐久間と小嶋の視線に気づいたのか、気付かないのか、数服を吸い終え、掌で灰皿に火皿の灰を落とし、アイスコーヒーを一口飲んだ南の独白が始まった。


「私の前職、そう、看護師ですけれど……小嶋さんと同じ。とっても激務なんです。命を預かるお仕事ですから、仕事に対する熱意は勿論、気力、体力、佐久間さんも仰ったとおり、心身共に堅強じゃないと、務まりません。こと、精神的な面では、やはり看取りというものもありますから、割り切った感情とでも言えばいいのかな。亡くなった方への"情"を捨てなくなくちゃいけない。これは先輩や同僚からも指摘されてきました。でも……私にそれは出来なかった。入退院を繰り返す患者さんとか、退院して外来にいらしてる患者さんとか、残念ですが、亡くなった患者さん、ご家族に対して"何も感じるな"というのがね、私にはどうしても無理だったんです。辞めるきっかけになったのは、一人の男の子でした。先天性の心臓の病気で、同い年の男の子がスポーツをして汗を流す姿を羨んでいて、甲子園の中継は熱心に見ていました。ありがちな話かもしれませんが『ぼくは病気を治して野球をするんだ』って、いつも話していたんです。その日私は夜勤を終えて、家に帰りました。一日休んで、出勤したら、彼のベッドが空いている。申し送りを読んだら、私が退勤した数時間後に、急変で亡くなったと……。心不全でした。私はその場でね、泣き崩れてしまった。それを見た外科のドクターが私に言ったんです。『この仕事、情熱だけじゃやっていけないぞ、傷が広がらないうちに、自分のことを考えた方が良い』って」残りわずかになったアイスコーヒーをまた一口飲む。「私はその月締めで、退職願を出しました。そう……向いてなかった、これは言い訳です。私はこれ以上自分が傷つきたくないから、現場から逃げた。退職して、一人自分の部屋のソファに座って、考えたんです。自分って、何だろう?って。この解答は、今でも出すことが出来ません」言いきった南は、再び小粋を小豆の大きさに丸めて、煙管に詰め込み、マッチを擦る。火皿から昇っていく煙。


わずかな沈黙が流れる。


「あの、南さん、話の腰を折るかもしれませんし、女性に対してこのような質問は甚だ失礼だとは思いつつ訊くのですが、貴女のその衣装というか服装ですか、とても個性的でお似合いです。その出で立ちに煙管と来たら……これまた失礼を承知での発言ですが"大奥"から飛び出してきた美人、そんな印象でして、煙管を選択するに至った経緯をお尋ねしたいなと……」佐久間が声のトーンを落としつつ、言葉を選びながら南に問う。南は佐久間の言葉を気にするでもなく、答える。


「私が前の職場を退職して、ふと、自分のこれまでを振り返ってみたんです。そうしたら、自分の好きなことに時間を使う、趣味に時間を使う、ということをまるでしてこなかったんですね。私は看護学校出身なので、力を入れて勉強した科目は理科系ですが、本当は歴史、日本史が好きなんです。高校生の頃はこれでも、美術館とか、歴史資料館を巡って歩くのが好きで。能とか狂言、伝統芸能の舞台も観に行きたかったのですけど、ほら、高校生にはちょっと値が張るでしょう? それで、退職して、気持ち的に少し落ち着いてから、高校生の頃に観ることの出来なかった舞台公演に足を運ぶようになって。そしたら、こんな恰好を好むようになってしまいました」言って南は佐久間と小嶋に微笑む。「煙管って、江戸時代から庶民に浸透した喫煙具なんですね。そういった歴史的な背景と、伝統芸能って当然リンクするんですよ。舞台の小道具で使われることも沢山ありますし、一言で言えば、好きなものの影響を多分に受けて、今は煙管で煙草を楽しんでいます。佐久間さんの手巻き煙草も、小嶋さんのシガーも、普通の紙巻よりうんと手間と時間がかかるでしょう? その手間が、今は必要なんじゃないかって。これは私もそうですが、佐久間さんも、小嶋さんも」


南の発言に、佐久間は腕を組んで頷き、小嶋は前かがみの姿勢になりながら、両手を組んで頷いている。


「きっと我々は、忙しすぎたんですね」小嶋が言う。「類は友を呼ぶ、なんて言うけど、俺たちもまた然りだったのかな」小嶋に続くようにして、佐久間が言う。


──束の間の沈黙が佐久間、小嶋、南の三人の間に流れる。


「でも、煙草って不思議ですね、ネットっていう媒体を介してですけれど、我々が"少数派のスモーカー"じゃなかったら、こんな街の片隅で出会うこともなかったでしょう? そうじゃなきゃあのサイトを閲覧するってこともなかったわけで……そう考えると、煙の縁って、すごく不思議」


南のその台詞に、佐久間と小嶋は深く頷く。


──「少し、疲れましたね」続けて南が言う。「うん、何せ久々の会話らしい会話だったものだから、少々くたびれたのは認めます」佐久間は苦笑しながら言う。「僕は、今意識を保つだけで精いっぱいですよ、歩いて帰れるかな」小嶋のジョークに佐久間と南は思わず笑ってしまう。


「また、会いましょう」小嶋が佐久間と南に向けて言う。「俺でよければ、是非とも。今度は別の煙草を差し入れますよ」佐久間は微笑む。「私も、お二人とは再会できる気がします。その時は、もっと上等な煙管をお見せしますよ」南も微笑む。「じゃ僕は、葉巻を佐久間さんと南さんに差し入れかな」小嶋も微笑む。


「久々に温度のある会話が出来て良かったです、皆さん、ありがとう」小嶋は佐久間と南に向かって頭を下げる。「いや、小嶋さん、俺の方こそ。頭を上げてくださいよ」慌てて佐久間が言う。「そろそろ、外が明るくなってきましたし。今日は解散してまた会いましょう。もしかしたらあのお店でも会えるかもしれませんし」南は微笑みながら言って席を立つ。倣うように席を立った三人は、それぞれの勘定を済ませ、喫茶店を出た。背後から「またどうぞ」と女将の声が発せられた。


ビルの隙間から太陽が昇り始め、夜の闇に支配された街に明かりが灯る。


再び街へ飛び出した三人は、煙草の煙が舞うように、それぞれの帰路へと向かって歩き出す。それぞれが再会の約束を胸にして。


(了)


喫煙マナーの悪さが指摘される昨今、愛煙家の皆さんには、マナーを守ってそれぞれの紫煙を愉しんでほしいな、そう思い、願っています。

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