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ヴァージニア・スリム ~サツキとナツコ~

昼の休憩時間、社屋の屋上で私とナツコは備え付けの簡易テーブルとベンチに腰かけて昼食を摂った。私もナツコも弁当を持参して出勤する。同僚のほとんどが外食へ出かけて行く。今ここにいるのは私とナツコの二人だけである。ここは私とナツコの"縄張り"みたいなもの。


朝八時半に出社し、五時半の退勤までの間、主な業務は顧客からの電話対応と営業部との連絡調整、シュレッダーにかけられた紙屑を捨て、蛍光灯やプリンタのインクなどの備品を交換し、書類のコピーといった雑用をこなしつつ、モニタとにらめっこしてエクセルにデータを入力し、伝票を作成する。


出勤早々、五十を過ぎた禿頭の課長が激昂した。


「砂糖が入っていないじゃないか……君、いい加減ぼくの好みを覚えたら? 契約社員だからってね、適当に仕事をしてるんじゃないよ。お茶汲みだって立派な仕事なわけ。使えない子だな、まったく」


器の小さい男だと思う。たかがコーヒー一杯、自分で淹れればいいのだ。


「めんどくさい奴……」


思わず口から出たその言葉に、ナツコが私の方を向き、驚いた顔をしている。栗色に染められ、ウェーブのかかった髪の毛が揺れる。


「どうしたの?」


私の機嫌を窺うようにナツコは訊いてくる。


「なんでもない、ただの独り言」

「びっくりした、私のことかと思った……」


表情が驚きから安堵へと変わる。ナツコは立ち上がり、背伸びをしている。お世辞にもスリムとは言えないナツコの体を見て、私は思わず苦笑してしまう。ナツコには夢があるのだという。それは結婚をして幸せな家庭を持つこと。


ナツコのような天真爛漫で家庭的な性格なら、きっといい人に出会えるし、いいお母さんになれる。私はそう思っている。


短大を出てすぐ今の会社に就職したナツコと私は、五歳年齢が離れている。私とナツコの間にある温度差。それはナツコが持っている夢が私のそれに比べれば、限りなく実現可能なものだからだ。


私はシガレットケースからヴァージニア・スリムのパッケージを取り出し、火をつけた。メンソールの煙が胸に清々しさを与えてくれる。ライターは細身のダンヒル。


吐き出した煙は、群れのように立ち並ぶビルの隙間を縫うように空へと消えて行った。私は消えていく煙を見つめながら思う。


──二年前。

私は夢を追うのを諦めた。二度めの美大受験に失敗。昼も夜もなく絵の具にまみれ、筆を走らせていた。画家になる、なれると思っていた。美大浪人生二年めの初春。「不合格」と書かれた一枚の紙が私の夢を砕いた。才能がなかった。そう自分に言い聞かせ、派遣会社に登録した。運よく決まった派遣先が今の会社で、ナツコとは会社の歓送迎会で知り合った。


私は宴席というものがあまり好きではない。宴席の空気に馴染めない私を隣の席だったナツコが何かと気遣ってくれて、それから私たちは社内でも社外でもよく話すようになった。付き合いは二年半になる。


吸殻入れに短くなったフィルターを捨てたのと入れ違いに、背伸びのストレッチを終えたナツコは弁当箱入れの中からメビウス・ライトのパッケージを取り出した。百円ライターで火をつけながらナツコが私に問いかけてくる。


「ところでさ、サツキの夢ってなに?」


唐突なナツコの問いかけに、今度は私が驚きの表情を浮かべる番だった。


「夢? 私にはない……かな」


返事をして、思わず下を向いてしまう。続ける言葉が浮かんで来なくて、私は二本めのヴァージニア・スリムを取り出すと、横からナツコのライターを持った手が伸びてきた。気の利く子だな、と思う。


私とナツコの煙草の煙が空中で交差する。


「サツキはさ、嘘をつくときって、絶対下を向くんだよね。私の夢ってさ、ありがちもありがちじゃない? 平凡って思うかもしれない。でも皆が思う平凡が、私の夢」


ナツコは笑いながら言った。二ヶ月ほど前だったろうか、二人で会社帰りに飲みに行ったときだ。ナツコも私と同じこの街生まれのこの街育ちだけれど、父母仲があまり良くなく、離婚こそしていないけれど、姉のナツコが高校に上がった年からナツコは父の家で、ナツコの妹は母の家で姉妹別々に育てられたと酔ったナツコが話してくれた。そんな親の事情があっても、姉妹仲が悪いわけではないらしく、今年女子大に入学した妹とは、週末に時間を合わせて買い物や食事に出かけるという。


「私、画家になりたかったんだよね、けど、駄目だった。二浪して、挫折しちゃった」

思い切って話してみる。


「そう言えば……先月の社内報原稿、サツキが担当だったよね、あの絵ってもしかして、サツキが描いたの?」


私たちが働いている会社の社内報は、月毎に各部署の従業員が一人ずつ"今月の人"というコーナーで自由課題のコラムを書かなければならない。私はコラムに何を書いたらいいのかわからず、悩んで"今月の花"と題して、水仙の絵を描いたのだった。


「私、芸術の世界ってよく分からないけど、画家ってさ、美大を出なきゃなれないものなの? あの水仙、すごく綺麗だった。私には、夢を諦めた人が描いたとは思えないな。例えば、今夜からサツキが絵を描き始めたとする。それだけでもう、売れないし売ってないけど、画家デビューじゃない?人生は一度きり、とことんまでやってみなよ」


ナツコが微笑みながら言う。ナツコはお母さんみたいだな。私は思いながら、手に持ったヴァージニア・スリムのパッケージを見つめる。白を基調に、緑の線がパッケージの端、上下に流れるようにプリントされたデザイン。朝も昼もなく絵を描いていたあの頃、デザインに惚れて買った煙草。それを今でも吸い続けているのは、夢を諦めきれていない証拠なのかもしれない。


「この煙草、美大浪人してた時から吸ってるの、洗練されたデザインに惚れて。それとね、水仙を描いたときに思ったの。絵を描くのは、やっぱり楽しいって。小さいカットだったけど、実は制作時間三時間」

私はナツコに言った。


「ふぅん……じゃ、やっぱり諦めてないじゃん。未練たらたら。描きたいならこれからも描けばいいの。私はさ、ごくごく普通の家庭を持つのが夢。だから私の煙草はごくごく一般的なメビウスだったりして」


ナツコは笑って自分の煙草のパッケージを振って見せる。やっぱりナツコは将来、いいお母さんになる。私も笑った。


「よし、今夜は飲みに行くよ、サツキの再起動祝い」


「再起動って、パソコンじゃないんだから。それにナツコ、ビール辞めないと二十代にして恰幅のいいお母さん体型になっちゃうと思う」


「やめて、スリムなサツキにそう言われると立ち直れない……。うん、今夜からはハイボールにしよう」


私たちは声を揃えて笑った。腕時計で時間を見ると、午後の勤務開始五分前だった。私とナツコは吸殻入れにフィルターを捨て、階段を使って社屋に戻る。二人の履いたヒールの音がリズムよく廊下に響く。外食から戻った他の同僚たちの声が聞こえてくる。


「ようし、午後も頑張るぞ」


ナツコが片手を上げながら私に笑いかけてくる。午後の勤務が始まって早々、今度はナツコが課長にどやされていた。


「めんどくさい奴……」


私は思いながら、進まない時計の針を見つつ、未だ慣れることのないパソコンのキーボードを叩いた。


ナツコと社屋の屋上で互いの夢を話した半年後、私は契約打ち切りの知らせを受けた。自分に向いた仕事でないことは分かっていた。打ち切り退社の話を聞いたナツコは知り合って初めて、落ち込んだ顔を見せた。寂しい、悔しいと声を出すナツコを私はなだめる。


「いつでも連絡は取れるから大丈夫。ナツコは結婚資金を貯めなきゃいけないんだから、頑張りなよ」


そう私が言うと、ナツコは笑いながら涙を浮かべた。


──三ヶ月後。


週三回のスーパーのレジ係と週末の夜に居酒屋でアルバイトをしながら、私は絵を描いている。アルバイト先のスーパーからの帰り道。画材屋へ寄り、そこから家へと戻る途中にある街角の煙草屋。この街に住んで長いけれど、こんな店があると知ったのは会社を辞めてからだ。自動販売機からヴァージニア・スリムを買い、店外に置かれた灰皿の前で封を切る。するとふいに声をかけられた。


「おや、学生さんかい? 未成年は吸っちゃだ駄目だよ」


脇にイーゼルとキャンバスを抱えた私に、くわえ煙草の男性が店内の開いた窓越しから声をかけてきた。そういえばナツコが言ってたっけ、サツキはポニーテールにするとぐっと若くなるって。今はそのポニーテールだし、契約が打ち切りになったあと、それまで黒だった髪の毛をナツコと同じ栗色に染めた。


「いえ、学生ではありません。それに……私、未成年に見えます?」


「いやぁ、女性は見た目と年齢が一致しないもんじゃない」


男性は片手に持った灰皿に灰を落としながら笑う。私はつられて苦笑した。ヴァージニア・スリムに火をつける。胸に入ってくる清々しい煙。煙を吐き出しながら最初の問いかけに答える。


「私は売れない、売ってない、駆け出しの自称絵描きです」


「ほう、絵描きさんね、そりゃすごい。俺は絵のセンス、全然ないから尊敬するなぁ」

声のトーンからは本心から言っているように感じる。


「あ、お姉さん、もしかしてそれ、ここから買った?」


店外に置かれた自動販売機を立てた親指で指している。


「はい、それが何か……?」


「毎度どうも。じゃあね、今度は中に買いにおいで。中で買ってくれたらコーヒーをサービスするよ。話し相手が欲しい煙草屋の親父は、寂しいのさ。それと、メンソールは鮮度が命ってね」


思わず私は声を出して笑ってしまった。かつての課長と同じ年代と思しきこの男性からは、嫌味を全く感じない。初めて会ったというのに、気さくな話し方からは親近感すら覚えてしまう。


「あ、じゃあ、今度はお邪魔します」


言いながら吸殻を円柱型の灰皿に捨て、ヴァージニア・スリムをポケットに仕舞う。


「ご贔屓に」

店主なのだろう。彼は自分の煙草を灰皿で揉み消しながら私に言う。


契約が打ち切られた夜。夢を諦められない気持ちを両親に伝えた。父は自分の生活費は自分で稼げと言っただけで、機嫌を損ねるでもなく、新聞を読みながらお茶を飲んでいた。母は不安定な一人娘の将来が不安ね、と言いつつも洗い終わった食器を拭きながら笑っていた。両親が健在で、自分の夢を否定しない。両親の優しさが身に染みる。ナツコが言っていた"幸せな家庭"ってこのことなのだと思う。


帰宅し、画材で溢れる自室の扉を開け、買ってきたイーゼルとキャンバスを部屋の壁側に置き、携帯電話をチェックするとナツコからメールが届いていた。


「課長は相変わらず。知らぬ存ぜぬを通しながら、私は頑張っています。サツキも頑張るように」

とある。


私は部屋に置かれたキャンバスに脂の色がつかないよう、携帯電話を持ってもう一度外に出る。ヴァージニア・スリムに火をつける。清涼感で満たされた胸から吐き出された煙が夕暮れの空へ吸い込まれていく。空へ吸い込まれる煙を眺める。なんとなくそれが、花の形に見えた。


ナツコからのメールに返信を書く。


「やっとレジ打ちに慣れました。街の画材店の二階で、無名でも個展を開かせてくれるとのこと。私も頑張っています」

送信ボタンを押して、携帯電話を仕舞う。


部屋に戻り、椅子に座ってキャンバスに向かう。選んだ花の色は橙色。さっき見た夕焼けの色。ガザニアにしようか、クロサンドラにしようか、思いを巡らせながら私は鉛筆を削る。


個展初日を迎えたら両親とナツコには私が描いた絵を最初に見てもらいたい。そして面と向かって言えなかった台詞を言おう。


「ありがとう」と。私は鉛筆を走らせる。


今の私が知らない後日談。

駆け出しの画家、瀬戸皐月に、個展に足を運んでくれた街角にある煙草屋さんの店主から「店の看板を描いてほしい」と依頼が来るのはもう少し先の話である。

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