ホープ ~法曹を目指して~
ホープのパッケージから一本取り出して火をつける。濃く、辛い煙が胸に入ってくる。
「希望と夢は捨ててはいけない」一言つぶやき、煙を吐き出した。
──親父が死んだ。
故郷を離れ、都会へと引っ越した。何もない生まれ育った町。何もない。それが嫌だった。雑誌やテレビで見る都会は華やかで、誌面や画面に映る都会の人々は輝いて見えた。生まれ育った町には、華やかさも、魅力も、何もない。親父の経営する工務店を引き継げば、就職には困らない。親父もお袋も、それを期待した。それが嫌だった。
華やかな都会に行く。猛勉強して、法曹になる。高校2年の時に進学を決めた。きっかけは些細なこと。たまたまテレビで放送されていたドラマの主人公。職業は弁護士。奇しくもこの故郷と同じ出身という設定だった。地方訛りのある弁護士。何もない町を出て、あの都会で成功している。
「ドラマなんて作り物だ、作り物の通りになるわけがないだろう。お前は馬鹿か!現実を見ろ!」
進学を頑として譲らない俺と家業を継ぐことを希望する両親との親子喧嘩の絶えない日々が続いたが、最後は親父が根負けする形で折れた。国立大学法学部を目指して猛勉強した。
しかし……2次試験で落ちた。浪人などさせてもらえるわけもなく、滑り止めで受験した私立大学の法学部へと進学することになった。もう少し頑張っていれば国立に受かったかもしれない。悔しかった。
でも、猛勉強を続ければ、きっと報われる。学校のレベルは関係ない。
──法曹になって成功する
希望を胸に新幹線を降りた。しかしその先は、想像を超えていた。人の波に飲まれ、逃げ込んだ建物でも人の波に飲まれる。失われる方向感覚。テレビや雑誌で見た物はそれらのほんの一部に過ぎないことを知らされた。
故郷では当たり前だった"ご近所付き合い"とは無縁の生活が始まった。アパートの隣人がどこで何をしているのか、全く分からなかったし、どんな人なのかも分らない。同期生たちは、授業よりもサークル活動に恋愛に遊びにと、忙しいようだった。友達はできなかった。そんな同期生を尻目に、サークルにも所属せず、授業では最前列に座り、一心不乱にノートを取った。法曹になる夢を叶えるために。
とある日の刑法の授業で、後ろに座った学生が言った。
「あいつ、あんな頑張っちゃってさ、見ているこっちが辛くなるよ」男子学生の声。
「痛々しいよね、本気で弁護士とか検事目指しちゃってたりして」女子学生の声。
「うちの学校のレベルじゃ無理、無理。それより今遊ばなきゃ、損なのにね」重なり合う笑い声。
──もしかして、俺は本当に馬鹿だったのか?
その件があった以降、俺は勉強することを放棄した。適当に選んで入ったサークルでは、すぐに友達ができた。異性と遊ぶことも覚えた。都会では24時間、どこにいても消えることがない明かりがある。遊ぶためにアルバイトをし、遊ぶために金を使う。出席を取るためだけに通う大学。寝るためだけに帰るアパート。後腐れのない会話で成り立つインスタントな人間関係。インスタントな会話。でも、ここにはなんだってある。
そんな生活に順応し、段々と親の存在も、故郷での思い出も、故郷の存在そのものが都会という街の空気に飲まれ、煙草の煙が霧散するように消えかけていた。そして、自分という存在も。そう、希望を胸に降り立ったこの街にいて、ないものがないこの街にいても、なぜか心の充足は得られないままだ。
そんな時に入った訃報。電話口でお袋が言った。親父は俺を都会に送り出した後、法曹になって活躍することを期待していたらしい。我が家から弁護士が誕生するかも、だって?そんな職業に就けるのは難関試験に突破した精鋭だけだ。俺なんかがしゃにむに勉強したところで、どだい無理だったんだよ。苦笑が漏れる。
葬式に出席するために俺は一度帰省することにした。何もない町、希望のない町。そんな故郷の駅に降り立った時、懐かしい匂いがした。再生されるここでの思い出。
葬式が終わり、翌日は都会へ戻ると決めた。煙草を買いに雑貨屋へと向かう途中、この町に残った同級生に声をかけられた。
「なんだか垢抜けたんじゃない? 向こうでは、頑張ってる?」
「……親父さん、気の毒だったな。親父さんのぶんまで、頑張れよ」肩を叩かれる。そこで私は視界がぼやけるのを感じた。涙が頬を伝っていた。
何もない。違う。この町に何もないのではない。自分自身がなかったのだ。それをこの町のせいにしていた。いや、何もない自分と向き合うことから逃げていた。
空虚感に包まれる心と体。何もない自分。都会へと戻って数日、学校にも行かず、友達とも連絡は取らず、眠って、起きて、また眠る。食べ物も喉を通らない。洗面所の鏡に映った自分の顔。無精髭が伸び、頬はこけていた。
ふらふらと街を歩いていると、道すがらに古びた一軒の煙草屋が目に留まった。
──こんな所に煙草屋なんてあったのか。
──ちょっと寄っていきなさい。煙草屋の中から声が聞こえた気がした。
呼ばれるように店内へと足を踏み入れると、店主と思しき男性が声をかけてくる。随分と気さくな性格なのか、私を見るなり、「元気がないね」と言う。不思議とこの男性には、いや、この店には、が正確だろうか、全てを話しても良いような気がしてきた。私はそれまでの出来事全てを店主だと名乗った男性に語った。
一見の客、いや、買い物はしていないのだから、ただの通りすがりの俺の話を店主は黙って聞いてくれる。
「一服しないかい?」
店主が灰皿を出してくれる。店主は胸のポケットからラッキーストライクのパッケージを取り出して火をつけた。俺もつられて煙草のパッケージを取り出す。最後の一本だった。店主が言う。
「希望と夢はね、捨てちゃいけないよ。お父さんが天国から見ているだろう」言いながら店主は後ろの棚から小さなパッケージを取り、カウンターの上に置いた。ホープだった。「お代は明日払いにおいで。これはツケにしておくから」店主が微笑みながら言う。「約束だよ?」店主は念を押した。私は自然と頷いていた。
アパートに帰り、小さなパッケージから一本取り出し、吸い込む。濃く、辛い煙で胸が満たされる。煙を吐き出すとともに再生される故郷の思い出、親父の顔。思い起こせば、小さな頃から何不自由なく暮らしてこれたのは、親父が休日もなく働いてくれたおかげだ。金のかかる私立に進学するための費用も馬鹿にならないはずだった。それを当たり前のことだと考えていた。愚かだった自分。
──「希望と夢はね、捨てちゃいけないよ」
店主の声が蘇る。今の自分を天国の親父は見ていてくれるだろうか。吐き出した煙が空へと昇っていく。勉強をやり直そう。親父は自分の命と引き換えに、私の進むべき道を今一度教えてくれたのではないのだろうか。そう思うと目頭が熱くなる。
翌日、都会の街角にある煙草屋に足を運んだ。昨日の煙草の代金を支払う。すると、店主は微笑みながら代金を受け取り、また後ろのカウンターからホープを取り出し、カウンターの上に置いた。
「お代は明日で良いよ、また頑張りなさい」
「毎日、来させていただきます」
俺は店主に頭を下げ、その足で学校へと向かった。
走れば一限目の刑法の授業には、まだ間に合う。
俺は駆けた。
(了)
それぞれが抱いている夢が叶うことを祈っています。




